三話 不浄なものは捨ててしまいましょう。
セミの大合唱と、猛烈な熱気で目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む夏の日差しが、俺の瞼を刺激する。クーラーが無い俺の部屋は、この季節になると朝からとんでもない暑さになる。顔中汗だくで気持ちが悪い。
もう少し寝ていたいという欲はあるが、この暑さで目が完全に覚めてしまった。うーん、と大きく背伸びをした後に目を開けると、目の前にはまじまじと俺の顔をのぞき込んでいるレティシアがいた。
「おはようございます。ナオキ様」
レティシアは高原の小鳥のような穏やかな声で、俺に声をかけた。
にっこりとほほ笑むレティシアに、俺の鼓動は大きく跳ねる。
「……どうかされましたか?」
寝起きに女性の顔があることなんて、母親が学校に遅刻寸前の俺を起こしに来るくらいしかなかった。緊張して体が動かない。
レティシアはいつまでも起きない俺を変に思ったのか、さらに顔を近づける。吐息が顔にかかるくらいにまでレティシアが近づいたところで、俺は勢いよく体を起こした。バクンバクンと荒ぶる鼓動を落ち着ける。
「お、お、おはよう! 起きた! 今起きた!」
レティシアはきょとんと不思議そうな表情をしていたが、もう一度花が咲いたように微笑むと、
「おはようございます」
と、言った。
とても、オークをひるむことなく叩き伏せた女騎士とは思えない。
昨晩、オークとの戦いの後、レティシアと一緒に部屋の片づけをした。脅威が去って、少し安心してしまったのか途中、急激な眠気に襲われ俺は寝落ちしてしまったらしい。きちんと布団で寝ていたということは、レティシアが運んでくれたのだろうか。
「ふぅ……しかし、とても蒸しますね」
レティシアは首元を手で仰いでいる。ふいに見えた首筋が艶めかしく、流れる汗も輝いて見える。
「プレートメイル……脱げばいいのに」
その言葉を聞くと、レティシアは立ち上がり俺を鋭い視線で見つめた。
「何を言っているのですか! 再度オークどもが現れたらどうなさるおつもりですか? いつでも戦いの準備を整えておくのは、騎士の務めです」
そんな勇ましいことを言っていても、レティシアの顔には汗が滝のように流れ、髪の毛は額にぺっとりと張り付いている。着こんでいるプレートメイルがとても暑苦しそうだ。
でも、何を言っても脱ぎそうにない。
俺は扇風機をレティシアへ向けると、スイッチを押した。
ふぅーん、と静かに扇風機が動き出すと、レティシアはビクリと体を震わせた。
突然、涼しい風がそよいできたことに驚いているのか。レティシアはキョロキョロと周りを伺っている。涼しい風が、足元から来ていることに気がつくと、しゃがんで扇風機の羽をまじまじと見つめる。汗だくの顔に風が当たると、気持ちよさそうに目を細めた。
「はあぁぁぁ……涼しい。一体この魔術は……む、むむ? なんだか声が震えて聞こえます」
レティシアは顎に手をあて思案顔だ。
「いや、魔術じゃないよ。これは扇風機って言ってこの世界じゃ暑い日に使う一般的な道具なんだ」
昨晩、オークとの戦いを終えた後、お互いの世界のことを説明した。レティシアの世界は、剣と魔法、オークなどの亜人が存在する、いわゆるゲーム好きなら慣れ親しんだ中世ファンタジー風の世界と同じようなものだと俺は解釈した。ひょっとすると異世界の扉がモニターを通じて繋がったのだと思っている。そのほうがロマンチックだ。
こっちの世界のことを説明するのには骨が折れた。レティシアにとってはまさに異世界。見るもの、触れるものが想像を超えるに違いない。しかし、理解はなかなかできなくても、俺が説明すると、そういうものか、と納得はしていた。レティシアの柔軟な思考に感謝した。
レティシアは舐めるように扇風機を見た後、
「あああああぁぁぁぁぁ」
と、声を出した。レティシアの声が扇風機の音と混ざり合い、カエルの鳴き声のように聞こえる。
やっぱりやるよね。
「おお。これは……これは」
レティシアはまるで子供のように目を輝かせている。
「あの、レティシア。聞いてる?」
「すごい……これほしい……えっ? あっ、ハイ。聞いていますよ」
絶対聞いてなかったな。
でも少し安心した。今の様子を見る限りでは、少し元気を取り戻したようにも見える。
俺も元の世界に戻れないと知った時の意気消沈したレティシアを見て、この家にいてもいい、とは言ったが後先を考えていなかった。
明日の夜には、旅行中の両親が帰ってくる。
さすがにレティシアを「ゲームの世界から出てきたんだ! 元の世界に帰る方法がわかるまでこの家においてくれ!」と言えるはずもない。夏の暑さで頭がバカになったのかと勘違いされる。ひょっとしたら、素性の知れないレティシアも追い出されてしまうかもしれない。
時間は限られている。
「……あああああああぁぁぁ…………はっ! こんなことをしている場合ではありませんでした」
レティシアは我に返ったように立ち上がると。腰に手を当てて部屋中を見渡している。
「さぁ! はやく掃除を終えねばなりません。いるものと、いらないもの。ナオキ様の目が覚めたらお聞きしようと寝ずに待っていたのです」
寝ずにって……まさか、俺が寝た後、ずっと顔をのぞき込んでいたんじゃないだろうな。
レティシアはふんっ、と腹に力を入れる。寝てないのに元気だなぁ。
でも、これって片づけじゃなくて、掃除になってる気がする。まぁいい機会だから……
と思い、周りを見渡す。
壊されていないゲーム機や、パソコンなどはそのままの位置に置かれていた。
昨晩、オークに壊された本棚の木片は、細かく切り刻まれ紐で括られていた。すぐにゴミに出せそうだ。そのそばには、同じように紐で括られた俺のエロマンガ……。
「れ、レティシア……? なんで俺のエロ……じゃなくて、宝物がゴミと一緒になってるのかな?」
「はい。不浄なものでしたので」
レティシアが先ほどよりも低い声色で答える。表情からは笑顔が消え、俺の顔を睨むように見つめている。
いやまて。いくら何でも俺の宝物を捨てる権利は誰にもない。
「レティシア。いくら何でもそれはひどい――」
「不浄です」
「はい。すいません」
レティシアの有無を言わせぬ圧力と鋭い視線に、俺は屈してしまった。
ふふふ。確かにエロマンガを捨てられるのは痛いが、本当の宝物はほかのところに隠してあるんだ。誰も知らない隠し場所に!
「さて、部屋の中はだいぶ片付きました。あとは、そこの収納の中ですが……」
レティシアは颯爽と、俺の部屋の押し入れに歩いていく。
あああぁぁぁ! やめてええぇぇ! そこは開けちゃダメええぇ!
レティシアは押し入れの扉に手をかける。そこは開けられるわけにはいかない。焦らずに、あくまでも冷静を装って、俺はレティシアと押し入れの前に滑り込む。
「れ、れ、れ、れ、レティシア……ここは開けちゃだめでふ」
超噛んだ。
「なぜですか? 良い機会です。私もお手伝いさせていただきますので、整理整頓いたしましょう」
レティシアが俺を押しのけようと、ぐいぐい迫ってくる。
あ、髪の毛良いにおい。
俺は押し入れを開けられまいとレティシアを妨害する。
「なぜ、邪魔のするのです? ……もしかして、不浄なものが……」
不浄不浄言わないで! 俺にとっては大切なものなんだから!
「そ、そんなもの入ってるわけないじゃないか。ただ、少し散らかってるから……悪いし。また今度自分でやるよ」
「いえ。遠慮なさらずに。命を助けていただいたのです。私にできることなら、なんでも」
くっ! このままじゃ押し入れの不浄すぎるものが見つかってしまう。
「レティシアっ!」
俺はとにかくレティシアを押し入れから遠ざけようと思い、肩を思い切りつかんでしまった。プレートメイルに覆われているレティシアの体は思ったよりも軽く、バランスを崩してしまう。レティシアが反射的に手を伸ばす。俺の首筋をつかむと、そのまま一緒に床に倒れこんでしまった。覆いかぶさるように俺とレティシアは床に倒れ、お互い見つめあう形となった。
レティシアは心底驚いた表情をしていたが、次第に頬には赤みが差し、瞳には薄く水分の幕が張り、宝石のように輝く。
しかし、俺の首に回ったレティシアの腕は解かれることはなかった。
「れ、レティシア……あの」
「な、ナオキ様……私」
レティシアは消え入りそうな声で俺の名を呼ぶと、口を真一文字に結んだ。首に回された腕に力が入る。
周りの音が一切耳に入らなくなり、沈黙が俺の部屋を支配していた時、
……ぐうううぅぅ。
一瞬、オークの鳴き声かと思ったが、その音は目の前のレティシアの腹の辺りから聞こえてきた。あまりにも力が抜けるような音だった。
レティシアを見ると、さっきよりもさらに顔が赤くなり、腕には力が込められていく。固く閉じられた口は小刻みに震え、瞳には見る見るうちに涙がたまっていく。
「……レティシア?」
レティシアは大きな瞳をさらに見開いた。返事は返さない。
「もしかして……おなか空いてる?」
その言葉を皮切りに、レティシアの口がぱくぱくと酸素を求める魚のように小さく開く
何かを話そうとするが、細かく空気が漏れるだけで言葉にはなっていない。染め上がっていた頬はさらに赤みを増していった。
そして、もう一度きゅるるるるる、とせつない音色。
すでにレティシアの顔は熟れたりんごよりも真っ赤に染まっていた。
「あ……ははっ。お腹空いてたんなら、言ってくれればいいのに。何か買ってくるよ」
さきほどまでの色気たっぷりの雰囲気も吹き飛んでしまった。俺は立ち上がると、まだ倒れたままのレティシアに手を差し出した。
レティシアは仰向けで足をぴーんと伸ばしたまま、手のひらで顔を覆っている。
「ええっと、大丈夫?」
「大丈夫じゃありません。押し倒された上、お腹が鳴るなんて……恥ずかしい」
レティシアはぐずぐずと鼻を鳴らす。
「あ、押し倒したのはごめんなさい」
手のひらの隙間からレティシアの恨むような視線が覗く。目が合うと、ころんとうつ伏せになり亀のように丸まってしまった。
う、しまった。余計なことを言ってしまったな。
また余計なことをしゃべってしまう前に、買い物に出かけよう。財布とスマホをポケットに押し込む。
「あ、レティシア。なにか食べたいものある?」
どうにも気まずくなってしまい、部屋を出る前にレティシアに声をかけた。
数秒、返事はなかったが、うつ伏せだったレティシアはころりと転がり、こちらに体を向けた。まだ、手のひらで顔は覆ったままだ。
「わ、私はお肉が食べたいです……」
「あ、お肉? う、うん。わかった」
またころりとうつ伏せに戻る。
なんだか、最初のイメージとは全く違う。
良く考えたら、俺と同い年なんだ。まだ、少女といっても差し支えない。勇猛果敢な女騎士。
その素の部分を垣間見たことに、俺は少しだけ嬉しい気持ちになった。