トンネル
庭の手入れをし、お菓子を作り、妖精と笑いあう。透がこんな生活を送るなんて想像できなかった。1ヶ月もあれば人は変わるのだ。もちろん、魔物に変わった元人間でも。
土曜日のお昼前、風とお日様が気持ちいい時刻に、私は透の住むバラ園を訪れていた。そこですっかり関係が変わった契約者と妖精たちの姿をぼんやり見ながら、想像できなかったと感想を抱く。妖精たちにやいやい言われながら庭に水を撒く透は生気に溢れていた。病的な肌の色も綺麗な青空と鮮やかな赤いバラの狭間にあると全く気にならない。生活に希望があふれていることを表しているようだった。
私は安堵と感動に似たような感情を抱きながら、手に抱えている麻袋を持ち直す。今日、ここを訪れた目的は雪那の魔力がこもった砂糖を売ることだ。いつかの宣言通りに、雪那は透に大量の砂糖を用意していた。本当は透がここに暮らし始めたばかりの頃にも提供したのだが、毎日お菓子を作っているためか急速になくなるらしい。そうして発注の連絡を受けた我が家の大人たちは、暇そうにしていた私におつかいを頼んだというわけだ。
玄関のチャイムを鳴らしても誰も出て来ず、声がするほうへ勝手に侵入したものだから、透たちが私に気付く様子はない。私は再度袋を抱えなおして彼らに声をかけた。
「こんにちはー」
欠伸が出そうな休日の陽気にぴったりの、気が抜けた挨拶。自分でも平和ボケしすぎだと思ったが、透と妖精たちは元気に挨拶を返してくれた。
「高木さん、こんにちは」
「ハイ、ベイビー! 来てくれたのね」
「こんにちはワンちゃん。大きな袋を抱えてどうしたの」
「あら、もしかしてお土産かしら」
さっそく私が持って来た袋に興味津々な妖精たちは、楽しそうに笑って私の周りに集まってくる。私は透に近づきながら、さっきの妖精の言葉にイエスと返した。
「そうそう、お土産だよ。妖精さんたちの大好きなお砂糖」
そう言うと透は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ありがとう。さっそく持ってきてくれたんだ」
「うん、暇そうだからって押し付けられた」
ここに来るまでの経緯を話すと透は大きな声で笑った。私はその表情を新鮮な気持ちで見る。私が透と出会った時、すでに彼は悩みを抱えていてどこか暗かった。だからこんなに屈託笑う顔は見たことがない。長く暗いトンネルを本当に抜けられたのだと実感した。私も笑顔になって、麻袋を軽く掲げる。
「これ重いからキッチンまで運ぶよ」
「あ、じゃあこっちから入って」
透は庭を先導して家の大きな窓まで連れて行ってくれた。普段はそこから出入りしているのだろう。そばには木箱に入った園芸用のスコップやジョウロなどが置いてあった。
以前覗いた時は純子と透が並んで立っていたキッチン。今はいくつか家電が新しくなっていて、キッチン用具も増えており、生活感が増していた。そう言えば、最近になってやっと透の両親も越してきたらしいから、元の家から持って来たものもあるのかもしれない。
そう思いつつ小さな食糧庫のスペースに砂糖を下ろす。お礼を言ってくれる透を振り返り、家族との生活について尋ねてみた。
「お父さんとお母さん、引っ越してきたんだよね?」
「うん、5日前かな」
「一緒に暮らせてよかったね」
「うーん………まあ」
透は首の後ろに手を回して困ったような仕草を見せながら、歯切れ悪く答える。
「え、なに、嬉しくないの?」
「うーん、今思えば嬉しい、というか良かったかなとは思ってる」
それから透は、おそらく前の暮らしや両親との関係を思い出していたのだろう。考えながら自分の想いを少しずつ語ってくれた。
「最初ここに来て俺を見た時はすごいショック受けてたんだよね。開いた口が塞がらないってああいうことなんだなって思ったよ。母さんなんて今にも倒れそうでさ。それからしばらくは連絡も取らなかったし、引っ越してきた初日も事務的な会話しかしなかったんだ」
透は少し悲しそうにしながらも、すでに過去のことなのか口を滑らかに動かす。私は静かに相槌を打ちながら先を促した。
「でもご飯作ってくれたり、俺がお菓子作ってるの見て驚いて話しかけてくれたり、庭の手入れを手伝ってくれたり、ちょっとずつ歩み寄ってきてくれてさ。今もちょっとぎこちないけど、前の家にいた時よりも関係はいいかも。こう、お互いを理解しようっていうか、会話しようって思ってるのを感じる」
そうして透は優しく微笑む。魔物に変わって妖精と会話している息子を見て、どういう反応をするのかは気になるところだったが、心配いらなかったようだ。そういえば以前は親子関係にも疲れているような発言をしていたから、むしろ今回の件が好転するきっかけになったようだし結果オーライと言えるだろう。安心した私は透の笑顔に釣られて頬を緩ませる。
「まあ、2人は妖精が見えないから、俺が独り言を話してるように見えてるらしいんだけど。それはちょっと引かれてるかな」
「あ、そうか、人間には普通見えないんだね」
実は妖精を胸の中に詰めていた透は初めから妖精が見えていたが、あの時点から本当はおかしかったのだ。人間に妖精は見えない。透が純粋な人間ならバラ園を訪れた時に妖精を見て狼狽えるはずがなかった。私たちが全員見えていたから、あの時はなんとも思わなかったのだけれど、透の両親には見えないと聞いて今さながらに気づく。
「じゃあこんなに妖精いるのに、お父さんとお母さんはまったく関わってないんだ」
「うん、たまに何かいた? っていう違和感はあるらしいし、父さんは子どもの頃から『何かいる』って感じてたらしいんだけど。でもそれだけかな」
その現象はまさしく妖精らしい、と私は思った。たまにテレビでやっている世界の不思議特集でも同じようなことを言っていた気がする。物が動いているいたずらや、ぼんやりと写真に写り込んでいるなど、『いる』と言い切れないけれど何かの存在を感じる不思議なこと。きっとこの家の妖精たちも、透の両親が首を傾げる様を見てクスクス笑っているのだろう。その光景を想像して微笑ましく思った。
「じゃあその『何か』と話してる高橋くんも不思議に思われるよね」
「うん、でも………俺は話せてよかったと思ってるんだ」
少しトーンを落とした透の様子に首を傾げる。表情は暗くなっていないが、何かに思いを馳せているように見えた。そのまま次の言葉を待っていると、ポツポツと話してくれる。
「妖精から、祖父ちゃんのことをいろいろ聞いたんだ。父さんのことも俺のことも大切に思ってくれてたとか、俺が来るのをずっと待ってたとか。あの庭も、祖母ちゃんのために手入れしてたんだって。俺、何も知らなかったなぁって。たぶん父さんも知らないから、父さんも妖精と話せたらよかったのにって思うよ」
その言葉を聞いて、だから透は妖精との会話を大切にしているのかなと思った。先ほどは妖精と打ち解けて笑い合う様子を見てほっとしたけれど、妖精が祖父とつながる唯一の存在だからこそ話し合うことを大事にしているのだろう。そうして毎日、祖父の愛に溢れた生前の話を聞いているのだ。
「高木さん、前に俺が祖父ちゃんのことを偏屈だとか言った時に、それを自分で確かめればよかったのにって言っただろ? その通りだったって思ったよ。人の話を鵜呑みにしないで、本当にそうなのか確認するために会いに行けばよかった」
後悔の滲むその言葉に、私は透の考え方もすっかり変わったことを知る。遠ざけていたバラ園と祖父の存在を、愛おしい家族として考えているように感じた。
「…………そう思ってくれてるだけで、お祖父さんとしては充分なんじゃない?」
きっと祖父も妖精たちも、透の変化を嬉しく思っているに違いない。天国にいても届いているだろう。天国なんてあるのか分からないけれど、この世には人間の理解も、魔物の理解も超えるものがあると思う。だから悔しさを感じる透に、祖父の想いを想像して慰めの言葉をかけた。透は少し瞳を揺らしながら、小さな声で「うん」と頷く。家族に対する後悔は消えないけれど、その家族からすればきっと生きている人たちが笑顔で過ごしてくれることが一番のはずだ。私は自分の家族の顔を思い出しながらそう思った。
「高木さんはその後どう? その、学校とか」
湿っぽくなってしまった空気を変えるように、透は明るい調子で私の近況を聞く。しかし、その表情は無理やり笑顔を作っているようで、上げた口角を少し引きつらせていた。私はそれを疑問に思いながらも、投げられた問いに答える。
「いつも通りだよ。授業中は寝てるし、放課後は友達と遊んだりしてる」
バラ園の件がひと段落ついてから、私は再び気兼ねなく友達と遊びに行けるようになった。勇者のことを気にしなくていいし、仕事は透のサポートをまだ継続しているからか、以前よりも少し減ったような気がする。だからむしろ余裕を持った生活を送れていた。特に面白い報告もなくて申し訳ないな、と思いながら透を見ると、しかし彼は少し傷ついた顔をしている。それに驚いた私は目を見開くが、今の発言のどこに悲しむポイントがあったのか分からず、かけるべき言葉が見つからなかった。気まずい沈黙は時間にしたら1秒くらいだったと思う。透は再び無理やりな笑顔になって、「そっか」と静かに言った。
それからも他愛のないことを二つ三つ話したが、不在にしていた透の両親が帰ってきた音がしたので退散する。挨拶しても良かったが、学校の友達か、魔物仲間か、どう名乗ればいいか分からなかった。だって魔物だったら透の両親は警戒するだろうし、学校の中で透は「姿を消すように引っ越した」と言われているから友人が会いに来るはずがない。この姿ではもう会えないという本人と周りの判断で、何か事情があると思わせて関係を絶ったのだ。もちろん正規の手順を踏んで退学をしたが、誰も理由を聞ける状況ではなかっただろう。
そんなことを考えながらこっそり庭を横切り、塀を飛び越えて道に出る。そこで先ほどの自分の思考にハッとした。学校のことを聞いて傷ついた透。もう会えない友人たち。彼の憂いはそこから来ているのだろうか。
以前、透の友人たちに尾行をされた道を歩いて、騒がしくしていた同級生たちを思い出す。もう問い詰められることはなかったけれど、たまに廊下ですれ違うと疑わしそうに睨んで来たり、狼狽えたりするメンバーもいた。きっと彼らは、まだ透のことを諦めきれていない。そしてそれは、透も同じなのだろう。彼はまだ、トンネルを抜けてはいなかったのだ。
だから私は家に戻って、おかえり、と言ってくれた純子に「あのね………」と躊躇いながらもそのことを話した。




