第16話 花畑が踏まれそうなので、戦争を止めに行きます
ロゼッタ花店の窓辺で、クロさんが眠っていた。
灰色の羽が生えた猫の姿で、丸くなっている。
店の奥では、ゴロさんが小さな鉢を運んでいた。
一歩ずつ。
ゆっくり。
鉢を落とさないように。
花を傷つけないように。
「ゴロさん、ありがとうございます」
てつだう。
はな、だいじ。
そんな気持ちが、私にだけ伝わってくる。
「はい。助かります」
私がそう言うと、ゴロさんは少し胸を張った。
その時、店の扉が開いた。
「やあ、ミリア」
アルフォンス殿下だった。
その後ろには、レオンハルト様もいる。
「いらっしゃいませ」
「今日は花を見に来たんだ」
「殿下」
レオンハルト様が低い声で言った。
「視察です」
「そうとも言うね」
アルフォンス殿下は楽しそうに笑った。
レオンハルト様は、窓辺のクロさんを見た。
「……本当に猫の姿で寝ているのだな」
「はい。クロさんです」
「分かってはいるが、まだ少し慣れない」
「かわいいです」
「かわいい、で済ませていいのかは分からない」
アルフォンス殿下がクロさんを見て、目を細めた。
「背中に羽がある猫か。王宮に連れて帰ったら人気が出そうだね」
「クロさんは花屋で寝ています」
「残念だ」
クロさんは寝たまま、ごろごろと喉を鳴らした。
その音を聞いて、ゴロさんが少しだけ顔を上げる。
ごろごろ。
ねてる。
「はい。クロさんは寝ています」
レオンハルト様が私を見る。
「ミリア」
「はい」
「今、誰と話した」
「ゴロさんです」
「そうか」
レオンハルト様はもう、それ以上聞かなかった。
少し慣れてきたのかもしれない。
その時だった。
店の外が騒がしくなった。
「大変だ!」
「ヴァルトリアの国境に敵兵が出たらしい!」
「敵兵?」
私は顔を上げた。
外では、町の人たちが集まっていた。
「隣国の山裾を越えて、進軍しているって話だ」
「ヴァルトリアの花畑の方だよ」
「花畑?」
私は手に持っていた白百合を止めた。
「花畑を通るのですか?」
「ああ。兵が通れば、踏み荒らされるだろうねえ」
花畑が踏まれる。
白い花も。
黄色い花も。
赤い花も。
土に埋まってしまうかもしれない。
「行かないと」
私が言うと、レオンハルト様がすぐにこちらを見た。
「ミリア、待て」
「はい」
「今、何をしようとした」
「花畑を見に行きます」
「隣国の国境だぞ」
「はい」
「敵兵もいる」
「はい」
「分かっているのか」
「花畑が踏まれます」
レオンハルト様は額を押さえた。
アルフォンス殿下は、もう窓辺のクロさんを見ていた。
「レオン」
「はい」
「広場を空けよう」
「殿下」
「クロさんが大きくなるんだろう?」
私はうなずいた。
「たぶん」
「なら、屋根を壊す前に場所を作るべきだ」
「わかりました」
レオンハルト様はすぐに騎士へ指示を出した。
王都の広場から人を下がらせる。
馬車をどける。
露店の布を押さえる。
町の人たちは何事かと騒いでいたけれど、アルフォンス殿下が広場に立つと、みんな少しずつ離れていった。
私はクロさんを抱き上げた。
「クロさん」
クロさんは赤い目を開けた。
みりあ。
花、こまってる?
「はい。隣国の花畑が踏まれそうです」
花。
まもる。
「お願いします」
クロさんは、私の腕の中で小さく鳴いた。
広場の中央に出る。
ゴロさんも、とことことついてきた。
私はゴロさんを抱き上げる。
石なので少し重い。
でも、腕の中で小さく丸まる姿は、少しだけかわいかった。
こわい。
でも。
いっしょ。
「はい。一緒です」
私はゴロさんの石の頭をそっとなでた。
クロさんが地面に降りる。
ぽふん。
灰色の羽つき猫だったクロさんの体が光った。
次の瞬間、広場に大きな黒いドラゴンが現れた。
黒い翼。
長い首。
太い尻尾。
赤い目。
町の人たちが一斉に声を上げた。
「ドラゴンだ!」
「クロさんだ!」
「本当に大きくなったぞ!」
クロさんは少し得意そうに喉を鳴らした。
ごろごろ。
大きい音だった。
「クロさん、お願いします」
クロさんの背に、レオンハルト様、私、アルフォンス殿下の順に乗った。
私は膝の上にゴロさんを抱える。
「ドラゴンに乗る日が来るとはね」
アルフォンス殿下は楽しそうだった。
「殿下、遊びではありません」
「分かっているよ」
「楽しそうに見えます」
「少しだけね」
レオンハルト様は前方を見たまま言った。
「ミリア、しっかりつかまっていろ」
「はい」
クロさんが翼を広げた。
ばさり。
広場に風が巻き起こる。
次の瞬間、私たちは空へ舞い上がった。
王都が下に遠ざかっていく。
屋根が小さくなる。
城壁が見える。
風が頬を打つ。
ゴロさんは私の膝の上で、小さく丸まっていた。
たかい。
こわい。
「大丈夫です。落ちません」
いっしょ。
「はい。一緒です」
アルフォンス殿下が後ろから言った。
「ミリアは、ゴロさんと話しているのかい?」
「はい」
「やっぱり不思議だね」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
レオンハルト様が静かに言った。
「だが、今は助かる」
「はい」
クロさんは速かった。
山が近づく。
雲が流れる。
ヴァルトリアの花畑が見えてきた。
その向こうに、黒い列が動いている。
兵士たちだ。
鎧。
槍。
旗。
そして、その足元で花が倒れていた。
「……踏んでいます」
胸の奥が、きゅっと痛くなった。
花畑の端が、兵士たちの足で潰れている。
白い花が土に伏せている。
黄色い花が折れている。
赤い花が泥に汚れている。
「クロさん、あの前に降りてください」
わかった。
クロさんは大きく旋回した。
敵兵たちの前に、黒い影が落ちる。
兵士たちが一斉に空を見上げた。
「ドラゴンだ!」
「なぜドラゴンがいる!」
「止まれ! 止まれ!」
クロさんが花畑の前に降り立つ。
地面が大きく揺れた。
でも、花のない場所を選んでくれた。
「ありがとうございます」
クロさんは少しうれしそうに鳴いた。
私はゴロさんを抱えたまま、クロさんの背から降りた。
レオンハルト様とアルフォンス殿下も続く。
敵兵たちは、こちらを見て固まっていた。
黒いドラゴン。
王子。
騎士副団長。
花屋。
そして、私の腕の中の小さなゴーレム。
たぶん、よく分からないと思う。
私も少し、よく分からない。
でも、花畑が踏まれているのは分かる。
「花畑を踏まないでください」
私が言うと、敵兵たちはさらに混乱した。
「何だ、あの娘は」
「花畑?」
「降伏しろではなく?」
「花畑を踏むなと言ったぞ」
レオンハルト様が一歩前に出た。
「これ以上進むなら、こちらも対応する」
アルフォンス殿下も穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「ヴァルトリア領内で花畑を踏み荒らすのは、あまりよくないね」
「殿下、言い方が軽すぎます」
「でも事実だろう?」
敵兵たちはざわついている。
その後ろでは、まだ別の兵が進もうとしていた。
このままだと、また花が踏まれる。
私はゴロさんを見た。
「ゴロさん。花畑を守れますか?」
ゴロさんは、こくりとうなずいた。
はな。
ふませない。
「お願いします」
私はゴロさんを地面に下ろした。
小さな石の体が、ゆっくり光る。
ごごご、と低い音が響いた。
ゴロさんの体が大きくなっていく。
子供くらいだった姿が、人より大きくなる。
家より大きくなる。
やがて、城壁のような大きさになった。
花畑の前に、石の壁が立ち上がったようだった。
敵兵たちが悲鳴を上げた。
「ゴーレムだ!」
「巨大ゴーレムまでいるぞ!」
「さっきまで小さかっただろう!」
ゴロさんは花畑の前に立った。
大きな石の体で、花を守るように。
はな。
ふませない。
その気持ちが、私の胸に伝わる。
「ありがとうございます、ゴロさん」
ゴロさんは少しだけうなずいた。
クロさんも前に出た。
大きな翼を広げる。
空が黒く陰った。
ばさり。
強い風が敵兵たちの旗を揺らす。
鎧の飾りが鳴る。
兵士たちが後ずさる。
そして、クロさんは口を開いた。
「シャーッ!」
猫みたいな音だった。
でも、巨大なドラゴンがやると、とても怖かった。
敵兵たちは一瞬で崩れた。
「無理だ!」
「ドラゴンが威嚇している!」
「ゴーレムもいる!」
「しかも王子と騎士がいる!」
「あの花屋の娘は何なんだ!」
「分からん! 分からんものとは戦うな!」
兵士たちは武器を構える前に下がり始めた。
やがて、下がるどころか走り出した。
旗も槍も、きれいに後ろへ流れていく。
クロさんがもう一度、シャーッと鳴いた。
敵兵たちはさらに速く逃げた。
花畑の前には、土煙だけが残った。
アルフォンス殿下が笑いをこらえていた。
「すごいな。戦う前に逃げた」
レオンハルト様は息を吐いた。
「普通は逃げます」
「そうかな」
「黒いドラゴンと巨大ゴーレムが並んでいたら、逃げます」
「その真ん中に花屋の娘もいる」
「それも含めてです」
私は花畑を見た。
踏まれてしまった花はある。
でも、これ以上は踏まれなかった。
「よかったです」
クロさんが私を見た。
花、まもった?
「はい。守れました」
ほめる?
「はい。クロさん、いい子です」
ごろごろ。
クロさんの喉が鳴る。
ゴロさんも、大きな体のまま少しだけこちらを見た。
ぼくも?
「はい。ゴロさんも、いい子です」
ゴロさんは少しだけ胸を張った。
その時、ヴァルトリア側の騎士たちが駆けつけてきた。
その中には、ヴァレリウス王の姿もあった。
「何が起きた!」
ヴァレリウス王は花畑の前で止まった。
敵兵はもういない。
いるのは、黒いドラゴンと、巨大なゴーレムと、私たちだけだった。
ヴァレリウス王は、ゆっくりこちらを見た。
「ミリア・ノクス」
「はい」
「また、お前か」
「花畑が踏まれていたので」
「それは見れば分かる」
「止めました」
「見れば分かる!」
ヴァレリウス王は頭を押さえた。
それから、巨大なゴロさんを見た。
「そのゴーレムは、うちの王宮に置かないと言ったはずだが」
「王宮ではありません。花畑です」
「そういう問題ではない」
アルフォンス殿下が楽しそうに言う。
「伯父上、敵兵は退きましたよ」
「それは助かった。助かったが、状況がおかしい」
「いつものことでは?」
「慣れるな」
レオンハルト様は敵兵が逃げた方向を見ていた。
「追撃は不要です。花畑からは離れています」
「はい。花畑から離れたなら大丈夫です」
私が言うと、レオンハルト様は少しだけ苦笑した。
「君らしい判断だ」
「そうでしょうか」
「ああ」
ヴァレリウス王は、踏まれた花畑を見た。
倒れた花。
踏まれずに残った花。
花畑の前で守るように立っているゴロさん。
そして、黒い翼をたたむクロさん。
「また、助けられたな」
小さな声だった。
「花が残ってよかったです」
「……そうだな」
ヴァレリウス王の眉間のしわが、少しだけ浅くなった。
そのころ。
逃げ帰った敵国の兵たちは、王の前にひざまずいていた。
「進軍は失敗したのか」
敵国の王が、低い声で聞いた。
兵士は青い顔で答える。
「失敗というより、無理です」
「何が無理だ」
「ヴァルトリアには、ドラゴンがいました」
「ドラゴン?」
「さらに巨大なゴーレムもいました」
「何?」
「しかも、ドラゴンの背には王子と騎士と、花屋の娘がいました」
「花屋?」
「はい。花畑を踏むな、と」
敵国の王は、しばらく黙った。
「どういう国なのだ」
「分かりません」
「ドラゴンは攻撃してきたのか」
「いえ」
「ゴーレムは?」
「立っていました」
「では、なぜ逃げた」
「ドラゴンが、シャーッと」
「シャーッ?」
「はい」
「猫か?」
「大きさは山ほどありました」
広間が静かになった。
別の兵士が震えながら言った。
「陛下。攻めるのは得策ではありません」
「では、どうする」
「友好関係を結ぶべきかと」
「なぜだ」
「花畑を踏んだだけで、ドラゴンとゴーレムが出てきます」
敵国の王は、深く考え込んだ。
「……なるほど」
そして、重々しくうなずいた。
「使者を出せ。ヴァルトリアとの友好を探る」
「はっ」
「それから、次から進軍する時は、花畑を踏むな」
「はっ」
こうして、戦いは起きなかった。
私は、そのことをまだ知らない。
ただ、花畑の前で、倒れた花をそっと起こしていた。
ゴロさんは小さく戻って、踏まれた土を整えている。
クロさんはまた灰色の羽つき猫になり、花畑の端で丸くなっていた。
レオンハルト様は周囲を警戒し、アルフォンス殿下は楽しそうに花畑を眺めている。
ヴァレリウス王は、少し離れた場所で腕を組んでいた。
「ミリア・ノクス」
「はい」
「お前は、本当に花畑のためだけに動くのだな」
「はい」
「敵国の兵が来ていたのだぞ」
「はい」
「戦争になったかもしれぬ」
「でも、花畑から離れました」
「……そうだな」
ヴァレリウス王は小さく息を吐いた。
「お前が花を守ろうとすると、なぜか国まで守られる」
「そうなのですか?」
「そうだ」
「私は、花を守りたいだけなのですが」
「分かっている」
ヴァレリウス王は、少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
「だから、厄介なのだ」
「すみません」
「謝るな」
私はうなずいた。
花畑には、まだ倒れた花がある。
でも、根は残っている。
きっと、また咲く。
私は白い花の茎をそっと支えた。
どこの国でも、花は花だ。
踏まれない方がいい。
守れるなら、守りたい。
私は白い花の泥を、そっと払った。
やっぱり私は、花屋が好きだ。
完結にしました。
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