第1話 馬車を持ち上げたからです
私はミリア・ノクス。十八歳。
昨日まで、王都セリオンの小さな花屋で働いていた。
今は、王城の地下牢にいる。
理由は、馬車を持ち上げたからです。
……うん。
自分で言っても、少し意味が分からない。
でも本当だ。
私は馬車を持ち上げた。
それで、危険人物として捕まった。
王国の人たちは、私をまだ魔族だとは決めつけていない。
けれど、
「原因不明の異常な力を持つ娘」
として、調査中らしい。
調査中。
便利な言葉だ。
私は鉄格子の向こうで、膝を抱えて座っていた。
地下牢は思ったより寒い。
床は硬い。
壁は湿っている。
けれど、怖いかと聞かれたら、あまり怖くはない。
鉄格子は、少し力を入れれば曲がる。
手首の鎖も、引けば切れると思う。
扉も、蹴れば開く気がする。
でも、壊さない。
壊したら、怒られる。
それに、逃げたら本当に悪い人みたいだ。
私は悪い人ではない。
少なくとも、そうありたいと思っている。
だから私は、今日もおとなしく牢屋にいる。
「……おい」
見張りの兵士さんが、鉄格子の向こうから声をかけてきた。
顔色が悪い。
私の方が牢屋に入っているのに、なぜか兵士さんの方が怖がっている。
「はい」
「朝食だ」
「ありがとうございます」
差し出された木の皿には、硬いパンが一つと、薄いスープが入っていた。
私は両手で受け取る。
「いただきます」
パンをかじる。
硬い。
でも、食べ物だ。
昨日まで働いていた花屋では、朝食が出ない日もあった。
だから、ありがたい。
「……お前、よく平気で食べられるな」
兵士さんが言った。
「お腹が空いているので」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味ですか?」
「ここは地下牢だぞ」
「はい」
「怖くないのか」
私は少し考えた。
怖いもの。
花屋の家賃。
仕入れ代。
冬の売り上げ。
店主のロゼッタさんがため息をつく時の背中。
それに比べれば、地下牢はまだ分かりやすい。
「怖くないわけではありませんが、雨風はしのげます」
「そういう問題か?」
「あと、朝ごはんもあります」
兵士さんは黙った。
なぜか、かわいそうなものを見る目になった。
失礼だと思う。
私は本当に感謝している。
パンは硬いけれど。
私は昨日まで、王都の端にある花屋で働いていた。
店の名前は、ロゼッタ花店。
小さな店だ。
古い看板。
少し傾いた棚。
雨漏りする裏部屋。
でも、花はきれいだった。
ロゼッタさんは言っていた。
「花だけは、くたびれさせちゃだめだよ。店が潰れかけでも、花までしょんぼりしてたらおしまいだからね」
だから私は、毎朝早く起きて水を替えた。
茎を切り、枯れた葉を取り、店先に花を並べた。
給金は少なかった。
食事も十分ではなかった。
でも、嫌ではなかった。
花屋の仕事は好きだった。
白百合を包むのも。
小さな子どもに一輪だけ花を選んであげるのも。
恋人に贈る花束で悩む人を見るのも。
そういう時間が、私は好きだった。
ただ、私には秘密がある。
私は魔族ではない。
生まれも育ちも、人間だ。
ただ、血の奥に、本物の魔王のものが混じっている。
それがどこで、どう私の家系に混じったのか、詳しいことは知らない。
母は昔、私に言った。
「ミリア。あなたは人間よ。でも、普通の人より少しだけ強い力を持っている。そのことは、誰にも言ってはいけません」
少しだけ。
母はそう言った。
でも、たぶん少しではない。
なぜなら昨日、私は馬車を持ち上げてしまったからだ。
昨日の昼前。
王都の中央通りは、いつもより混んでいた。
市場の日だったからだ。
ロゼッタ花店の前にも、人が多かった。
私は店先で、売れ残りの小さな花を並べ直していた。
「ミリアちゃん、この花、まだ売れるかい?」
ロゼッタさんが心配そうに聞いた。
「少し元気がありませんけど、水を替えれば大丈夫です。値段を下げたら売れると思います」
「そうかい。助かるよ」
ロゼッタさんは笑った。
でも、その笑顔は疲れていた。
店は潰れかけている。
それは、私にも分かっていた。
昨日も、朝から何も食べていなかった。
ロゼッタさんも食べていなかったと思う。
それでも、花はきれいに並べた。
花が悪いわけではないからだ。
その時、通りの向こうから悲鳴が上がった。
「馬車が暴れてるぞ!」
「避けろ!」
顔を上げると、荷馬車がこちらへ向かって走ってきていた。
馬が怯えている。
御者は手綱を引いているが、止められていない。
人々が左右へ逃げる。
荷台には木箱が積まれていて、車輪が石畳を跳ねるたびに大きく揺れていた。
その先に、小さな男の子がいた。
転んでいた。
たぶん、逃げる途中で足をもつれさせたのだ。
男の子は泣きながら、動けずにいた。
馬車は止まらない。
誰も間に合わない。
私も本当は、力を使ってはいけない。
目立つから。
怪しまれるから。
魔王の血が知られたら終わりだから。
でも。
目の前で子どもが轢かれそうなのに、何もしない方が無理だった。
「ロゼッタさん、すみません」
「ミリアちゃん?」
私は店先から飛び出した。
馬車が迫る。
男の子が泣いている。
私は男の子の前に立ち、両手を伸ばした。
馬の体を傷つけたくはない。
御者も落としたくない。
荷台も壊したくない。
だから、馬車の前輪の下に手を入れた。
そして、持ち上げた。
がたん、と大きな音がした。
暴れていた馬の足が止まる。
荷台が浮く。
車輪が空を回る。
通りが静まり返った。
私は馬車を持ち上げたまま、困った。
どこに置けばいいのだろう。
ひとまず、男の子から離れた場所へずらす。
そっと下ろすつもりだった。
でも、少しだけ力を入れすぎた。
馬車は道の端まで滑り、石畳を削って止まった。
馬は無事。
御者も無事。
男の子も無事。
よかった。
私は男の子の前にしゃがんだ。
「大丈夫?」
男の子は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「う、うん……」
「よかった」
本当に、よかった。
そう思った。
でも、周りの人たちは違った。
「あの娘……」
「馬車を持ち上げたぞ」
「人間か?」
「魔族じゃないのか」
ざわめきが広がる。
感謝より先に、恐怖が来た。
私は手を引っ込めた。
遅かった。
見られた。
見られてしまった。
そのあと、騎士団が来た。
先頭にいたのは、黒に近い髪の若い騎士だった。
銀の鎧。
灰色の瞳。
冷静な顔。
彼は倒れた馬車と、助かった子どもと、私を順番に見た。
「君が止めたのか」
「……はい」
「どうやって」
私は少し迷ってから答えた。
「持ち上げました」
騎士たちの空気が止まった。
まあ、そうなると思う。
黒髪の騎士は、私から目をそらさなかった。
「名は」
「ミリア・ノクスです」
「私はレオンハルト・グレイス。王国騎士団副団長だ」
副団長。
かなり偉い人だった。
私は頭を下げた。
「子どもを助けてくれたことには感謝する」
「あ、はい」
「だが、その力は普通ではない」
胸が冷えた。
分かっている。
自分でも分かっている。
普通ではない。
でも、私は人間だ。
人間として生きてきた。
「君には、王城で事情を聞く必要がある」
「……行かないといけませんか」
「逃げるつもりか」
「いいえ」
逃げられる。
たぶん、逃げようと思えば逃げられる。
でも、逃げたらロゼッタさんに迷惑がかかる。
男の子にも。
花屋にも。
それに、逃げたら本当に怪しい。
「分かりました」
私はうなずいた。
そのまま王城へ連れて行かれた。
事情を聞かれた。
何度も同じことを聞かれた。
どこの生まれか。
魔族と関わりはあるか。
呪術を使ったのか。
禁術の実験体なのか。
なぜ馬車を持ち上げられるのか。
私は答えた。
王都の花屋で働いている。
魔族ではない。
魔法は使えない。
呪術も使えない。
実験体でもない。
力が強い理由は、分からない。
最後の答えだけ、少し嘘だ。
本当は知っている。
魔王の血が混じっているから。
でも、それは絶対に言えない。
言えば、地下牢どころでは済まない。
だから私は、原因は分からないと言った。
その結果、私は地下牢に入れられた。
危険能力の調査が終わるまで、一時拘束。
そう説明された。
一時がどれくらいなのかは、誰も教えてくれなかった。
そして現在。
私は地下牢で硬いパンを食べている。
「おい」
また兵士さんが声をかけてきた。
「はい」
「本当に、お前は魔族じゃないんだな」
「違います。人間です」
これは嘘ではない。
私は人間だ。
「では、なぜ馬車を持ち上げられる」
「力が強いからだと思います」
「それは理由になっていない」
「私もそう思います」
兵士さんは困った顔をした。
私も困っている。
説明できたら、たぶんここにはいない。
その時、地下牢の奥に足音が響いた。
かつん、かつん、と硬い靴音。
兵士さんが背筋を伸ばす。
やってきたのは、昨日の黒髪の騎士だった。
レオンハルト・グレイス副団長。
彼は鉄格子の前で立ち止まり、私を見下ろした。
「ミリア・ノクス」
「はい」
「具合は」
「大丈夫です」
「牢は寒くないか」
「少し寒いです。でも、花屋の裏部屋も冬は寒かったので」
レオンハルト様は一瞬だけ沈黙した。
「食事は足りているか」
「昨日よりは」
「……昨日よりは?」
「昨日は食べていなかったので」
レオンハルト様の眉が少し動いた。
私はパンを見下ろした。
余計なことを言ったかもしれない。
「逃げようとは思わないのか」
彼が静かに聞いた。
私は鉄格子を見る。
太い鉄だ。
普通の人なら、絶対に壊せない。
でも私なら、たぶん曲げられる。
「思いません」
「なぜ」
「逃げたら、花屋に戻れなくなるからです」
レオンハルト様は私を見つめた。
「花屋に戻りたいのか」
「はい」
「君は危険人物として扱われている」
「はい」
「それでも?」
「はい」
私はパンの欠片を皿に置いた。
「ロゼッタさんの店は、私がいないと水替えが大変だと思うので」
「……水替え」
「花は待ってくれませんから」
レオンハルト様は少しだけ目を伏せた。
笑ったのか、困ったのかは分からない。
「君は、自分の状況を分かっているのか」
「たぶん、分かっています」
「たぶん?」
「危険だと思われているのは分かります。でも私は、人を傷つけるために力を使ったことはありません」
昨日も、そうだ。
私は子どもを助けたかっただけだ。
馬車を持ち上げたかったわけではない。
できれば、普通に手を引いて助けたかった。
でも、間に合わなかった。
だから持ち上げた。
「私は、悪いことをしたのでしょうか」
聞いてから、少し後悔した。
そんなことを聞いても、困らせるだけだ。
レオンハルト様はすぐには答えなかった。
鉄格子越しに、灰色の目が私を見る。
「子どもを助けたことは、悪ではない」
その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。
「だが、王国は君の力を放置できない」
「はい」
「それも分かるか」
「分かります」
分かる。
私だって、自分の力が普通ではないことくらい知っている。
花瓶を割らないように気をつけている。
扉を外さないように気をつけている。
包み紙を破らないように気をつけている。
毎日、気をつけて生きている。
そうしないと、人間の暮らしは簡単に壊れてしまう。
その時、地下牢の上の方から、慌ただしい足音が聞こえた。
続いて、遠くで鐘が鳴る。
カン、カン、カン、カン。
短く、鋭い音。
昨日、馬車が暴れた時とは違う。
もっと大きな警鐘だった。
兵士さんの顔色が変わる。
「副団長!」
階段の上から別の騎士が駆け下りてきた。
「西門付近に魔物の群れです! 騎士団が出ていますが、数が多すぎます!」
レオンハルト様の表情が一瞬で変わった。
「規模は」
「少なくとも三十。さらに増えています。避難が間に合っていません!」
地下牢の空気が冷えた。
魔物。
王都の中へ入れば、多くの人が傷つく。
私は立ち上がった。
鎖が小さく鳴る。
兵士さんがびくっと肩を震わせた。
「何をしている」
レオンハルト様が私を見る。
「西門には、花の市場があります」
「それがどうした」
「ロゼッタさんが仕入れに行っているかもしれません」
昨日、私は店に戻れなかった。
だからロゼッタさんが一人で仕入れに行った可能性がある。
西門付近の市場へ。
胸がざわついた。
レオンハルト様は私を見て、少しだけ黙った。
そして、低い声で言った。
「ミリア・ノクス」
「はい」
「君の力を借りたい」
兵士さんが息を呑んだ。
「副団長、本気ですか!」
「本気だ」
「しかし、この娘は調査中の危険人物で――」
「だから私が責任を取る」
レオンハルト様は私を見た。
「君は逃げるか」
「逃げません」
「人を傷つけるか」
「傷つけません」
「魔物を止められるか」
私は少し考えた。
馬車より重いかもしれない。
数も多い。
でも、たぶん大丈夫だ。
「やってみます」
レオンハルト様は腰の鍵束を取った。
兵士さんが止めようとしたが、彼は構わず鉄格子の鍵を開ける。
重い扉が軋んだ。
私は外へ出た。
手首の鎖がまだついている。
レオンハルト様が鍵を探す。
「あ、そのままで大丈夫です」
「何?」
私は両手を少し開いた。
鎖がぴんと張る。
軽く力を入れる。
ぱきん。
鎖が切れた。
地下牢に、変な沈黙が落ちた。
兵士さんの口が開いたまま止まっている。
レオンハルト様も、ほんの少しだけ目を見開いた。
私は切れた鎖を見て、慌てて言った。
「す、すみません。あとで弁償します」
「……弁償の問題ではない」
「では、怒られますか」
「今は怒らない」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
それから、レオンハルト様を見上げる。
「ひとつ、お願いがあります」
「何だ」
「助けに行ったら、花屋に戻れますか?」
レオンハルト様は答えなかった。
けれど、灰色の瞳はまっすぐ私を見ていた。
私は続けた。
「世界を救いたいわけではありません。王国で偉くなりたいわけでもありません。ただ、花屋に戻りたいんです」
そして、ロゼッタさんの店で、また花に水をやりたい。
白百合を包みたい。
小さな花束を作りたい。
それだけだ。
レオンハルト様は短く息を吐いた。
「約束はできない」
「そうですか」
「だが、君が王都を救った事実は、私が必ず上に伝える」
それが精一杯なのだろう。
今の私には、それで十分だった。
「分かりました」
私はうなずいた。
「では、行きます」
レオンハルト様が剣を抜き、階段へ向かう。
私はその後ろに続いた。
地下牢の重い空気が、背中の後ろへ流れていく。
私は人間だ。
でも、血の奥には魔王のものが混じっている。
それを知られたら、きっと今よりもっと面倒なことになる。
だから、知られてはいけない。
絶対に。
でも。
誰かが困っているなら。
ロゼッタさんが危ないかもしれないなら。
目の前で誰かが傷つくなら。
私は、力を使う。
たとえそのたびに、花屋へ戻る道が遠くなるとしても。
私は階段を駆け上がった。
地上から、悲鳴が聞こえた。
そして私は、久しぶりに外の光を見た。




