第95話 から揚げですよ、エルフさん
仕事を終え、駅を出ると江東区の夜が待っていた。
都心とさほど空気は変わらないけれど、地元という事にほっとする。
出てすぐにあるバスロータリーには、社会人や学生など帰路につく人たちが並んでいた。そこへ見覚えのある背中に気づき、僕は声をかける事にする。
「こんばんわ、徹さん」
「あれ、北瀬君?」
男性はやや肥満に向かいつつある体型をしており、意外そうな顔を向けてくる。同じマンションに住む――たしか市役所務めをしていると言っていたかな――薫子さんの旦那さんだ。
「通勤路は同じなのに、顔を合わせるのは初めてですね」
「まあ私は残業が多いから。そうだ、このあいだはウナギをご馳走様。晩酌に美味しくいただいたよ」
そう言いながら徹さんは何かに気づき、僕へ指をクイと傾けてくる。
「こっちの方、良ければ付き合わない? 飲めるでしょ、北瀬君」
「すみません、家でマリーが夕飯を待ってますから」
「あ、断るのうまいなぁ。悪い感じはしないし、雰囲気も落ち着いてるから会社の風当たりも良いでしょ」
そんなことは無いです、などと謙遜して見せたけれど確かにのらりくらりやっていると思う。
荒波を立てず、かといって手抜きはしない。受けた説明は忘れないようにし、上司をわずらわせないことを心がけている……って、残業を避ける目的なのだからあまり褒めたことでも無いか。
「まあいいや、それじゃあ帰り道にでも聞こうか。おっと、バスもちょうど来た」
「え、何を聞きたいんです?」
「そりゃもちろん、マリアーベルちゃんの滞在理由かな。ま、これは仕事じゃなくて私の好奇心だけど」
もちろん構いませんよ、と僕はにっこり笑みを浮かべた。
エレベータに乗り、のろのろと上がっている。
階ごとの境目を何度か眺めたころ、ぽーんと音が鳴った。徹さんは外へ一歩出ると、こちらへ落ち着いた笑みを向ける。
「ま、そのうち飲みに行こうよ。君とは美味い酒が飲める気がしてね」
「ええ、ぜひお願いします。それではまた」
手を振る彼を、自動ドアから遮られる。エレベーターは動き出し、ようやく僕は息を吐いた。
まあ、お役所の人ならばホームスティという言い訳も厳しいか。あれはだいたい18歳以上の人がするもので、マリーの外見はどう見ても中高生程度だ。それに期間としては一ヶ月くらいが普通だと聞いている。4月から部屋に滞在し、学校に行くこともなく過ごしているのは違和感を覚えるだろう。
僕らの生活はどこかで変わるかもしれない。
とはいえ彼も表面上はおだやかであり、たぶん見逃してくれたのだと思わせる。先程言っていた通り、あれは仕事ではなく好奇心だったのだ。
こきりと首を鳴らし、そして僕はエレベーターを降りた。
少女を抱きかかえるような格好をしているけれど、これは別にウリドラから睨まれることではない。マリーはエプロンをかけ、真剣な様子で揚げ油を睨んでいる通り、これはただの調理だ。
とはいえ、時おり見上げてくるエルフは大きな瞳をしており、良いところのお嬢様という顔だちは……その、やはり可愛いなぁ、などと思ってしまうけれど。
「ねえ、説明が止まっているわ。さっきからボーッとしてどうしたの?」
「ええと、揚がったかは箸から伝わるから、この感じを覚えておくんだよ」
「このピチピチした感じかしら……ふうん、案外と分かりやすいのね」
じゅわりと油から取り出したものは鳥の唐揚げであり、香ばしく漂う匂いに少女はひくひく鼻を動かした。
ちらりと冷蔵庫を見たのは、味見のついでに白ワインを飲みたいのかな。だけど唐揚げは量があるからスピード勝負なんだよ。
「この調子でどんどん揚げていこうか。その間に僕はサラダを用意しているから」
「分かったわ。私たちの息のあったパーティー連携でテーブルを飾ってやりましょう」
おや、コツを掴んだエルフさんは上機嫌だ。すぐ下で、るんるんと頭を左右に揺らしており可愛らしい。しばらく眺めていたいけれど、唐揚げにサラダは欠かせないのだから仕方ない。
ふとテーブルを見ると、珍しくウリドラは大人しく夜空を見上げていた。長雨で空気も冷たいだろうに、竜は気にせずホットパンツとTシャツを選んでいる。すらりとした手足、そして黒髪のせいで、片脚を抱えているだけで絵になる人だ。
と、その黒曜石じみた瞳はこちらを向いた。
「どうしたのウリドラ? 元気が無いね」
「んむ……、わしもまだこの世界に慣れておらぬが……」
珍しく言いよどみながら、彼女の白い指はクイクイと僕を呼ぶ。誘われるまま隣へ腰を下ろし、そしてウリドラからの言葉を待つ。
すると彼女は内緒話をするように、そっと囁いてきた。
「ぬしらは隠し事をしない間柄らしいが、確かに今は伝えづらいじゃろう。それをとやかく言うつもりは無い」
怪訝に思い首を傾げたが、何のことを言っているのかすぐに思い当たる。つい先ほど、徹さんとの会話について彼女は言っているのだ。
「盗聴? プライバシーの侵害は良くないよ」
「たわけ。通信のスイッチを切り忘れたのはおぬしじゃ。わしがいつ侵害を…………ごほんごほん、まあそれは置いておこうではないか」
うん、夢の世界で盗聴していたことをようやく思い出したみたいだね。とはいえ僕らを思いやって声をかけてくれたのだし、突っ込むのはやめておこう。
ちらりと振り返れば、マリーは上機嫌で唐揚げ作りにはげんでいる。その光景が、どこか宝物のように僕の目に映った。
「……大丈夫じゃ。悪いことにはならぬ。ま、それは天気予報のようなわしの勘じゃがなぁ」
ぱんぱんと肩を叩かれた。慰められたようにも激励されたようにも感じられる。思わず彼女を見つめると、にいっと男前の笑みを浮かべてくれた。
「わしが言いたいのは気に病むな、ということである。病は気からと日本では言うじゃろう。いまおぬしに出来るのは、いつものようにマリーを、ついでにわしを楽しませることくらいじゃ」
すっと肩の力が抜けてゆくのを感じた。
確かに僕のできることなど少ない。食事を作り、旅行をし、そして本を読んであげるくらいだ。その合間に、彼女たちが日本で暮らしてゆける方法を考えればいい。
「……一応と僕も楽しんでいるつもりだよ。それでウリドラは鳥の唐揚げを食べたことはあるのかな?」
「もちろん無いし、たまらぬ匂いにそわそわしておる。さあ、馳走をはよう持てい」
さすがは竜といったところかな、僕の気を簡単に晴らしてしまうのは。しかし休んでいることを、ついにエルフさんから気づかれてしまった。非難めいた声を背に受け、僕は少しだけ慌てる。
「ちょっと一廣、なにをサボっているのかしら。私だけを働かせるのなら、鳥の唐揚げを食べさせてあげませんからね」
「おっとしまった。ごめんごめん、いま用意するよ」
まあ女性は強いということかな。隣へ立つと少女は頬を膨らませており、唐揚げは山と積まれつつある。そのまま隣でサラダ作りをして談笑しているうち、すぐに少女の気も晴れてしまった。
ほっくりと揚げたての唐揚げを、2人は箸で持ち上げた。
ふんわりただよう香り、そして黄金色に近しいものを見て思わずゴクリと喉が鳴る。まずは何もつけずにひとくち齧ると、さくっと軽快な歯ごたえを残し、じゅわりと鳥の良質な油がこぼれてくる。
「んんんーーーーっ!」
皮には風味を強めるよう生姜を付けており、それがカリカリとした触感をしているのだからたまらない。ふっくらした身はすぐに千切れ、噛めども噛めども香ばしさは口内に流れてくる。
「んんんんんーーーーっ!!」
ぱたぱたマリーはフローリングを足で踏み、そのあいだも咀嚼に忙しそうだ。唐揚げの山、そして僕の顔を交互に見比べ、なぜか肩をパンパンと叩いてきた。遅れてドスンと膝を踏まれたけれど、これはウリドラかな。
お行儀が悪いよと彼女を見ても、まったく意にも介さず満面の笑みを向けてくる。
「ンまあーーいっ! 香ばしくて香ばしくてたまらぬっ!」
「んふっ、んふふっ! ちょっともう、なによこれ、あなたはこの料理を今まで秘密にしていたのね。そうでしょう?」
そんなつもりは無いよと言いつつ二人のグラスへ白ワインを注ぐ。
鳥は赤ワインだと言うけれど、僕としてはこちらがおすすめかなぁ。もちろんビールも合うけれど。
「まあ、そういうわけで唐揚げにはどのソースが合うか試そうか。こっちはネギソース、塩と胡椒、マヨネーズとケチャップ、その2つを混ぜたもの、それにレモンと……」
小皿をがちゃがちゃ取り出すと、2人は目を白黒させる。
「待たぬか、なぜそのように種類があるのじゃあ。素のままで十分に香ばしくて美味かろう」
「そうよそうよ、このままで私の作った唐揚げは完成されているの。味付けでごまかすなんて邪道とも言えるわ」
おかしいな、どうして非難されているのだろう。
とはいえ鳥の唐揚げというものは、どのソースが最も合うかという議論を繰り返している食べ物でもある。低コストでボリュームたっぷりの唐揚げは、非常にオーソドックスな料理だ。それだけにソース争いは根深い。
まあまあとなだめつつ、2人に食してもらう。
ウリドラはネギソースにひたし、そしてマリーはマヨネーズを選んでくれた。
「んっ! 衣にソースが染み込んで……っ! むううっ、これほどネギとマッチするとは……味わいをがらりと変えておるぞっ!」
「わっ、なにこれっ。ツンとした風味、それにコクまで増してしまうなんて! んーーっ、おいしーーっ」
たまらなそうにワインを飲み、ぷあっと満足そうに息を吐く。
大人から子供まで楽しめる鳥料理だけど、どうやら幻想世界の住人でも満足してくれるらしい。
「しかし、これを向こうの世界へ持ち込めば常識が覆るのう。うーむ、少なくともわしは鳥料理なぞパサパサしたものだと思うておるからな」
「どうかしら、日本の品種改良と安全管理が成せる味かもしれないわ。第一、あんなに綺麗で臭みのない油なんて取れないでしょう」
良質な鳥の油をワインで流してゆくと、食卓はワイワイと明るく盛り上がる。
ためしに僕もひとくち食べてみるが……ん、揚げ具合がちょうどいいな。マリーもだいぶこちらの料理に慣れてきたかもしれない。
「だからね、私はこっちのマヨケチャップが一番合うと思うの。風味を引き立てて、かつ適度なコクを与えてくれるでしょう」
「ならんならん、ネギソースが至高じゃあ。きゅうっと衣にたれが染み込み、ゴージャスな味へ生まれ変わらせておる!」
あれ、ワイワイ盛り上がってるんじゃなかったの?
ばちりっとエルフと竜はにらみ合い、そして何故か矛先はこちらへ向けられた。ずいっと2人からイチオシソースの付いた唐揚げを向けられ「どっち?」と無言で判定を求めてくる。
「あの……こういうのは好みだからね。一番というものは無いんだよ」
「そういう煮え切らない態度が日本人なの。駄目よ、駄目、私のマヨケチャップが一番だと認めなさい。でないと眠るとき本を読んであげませんからね」
「男ならズバッとネギソースが至高じゃと認めてみよ。ほれ、あーんをするのじゃあ」
だからねと口を開いた瞬間、ふたつの唐揚げはズボーッともぐりこんで来た。
あのね、分からないから。ふたつ同時に入ったらマヨケチャネギソースになっちゃうでしょ。あれ、でも悪くないな……うん、僕はこれが好きだよ。
少女はこちらへお尻を向け、ぱんぱんと枕の位置を整える。
左右にゆわいていた髪をほどけば、さらりと絹のような光沢を残して流れてゆく。部屋のダウンライトの薄暗さのせいか、髪をほつれさせて振り向く少女は、どこか大人びて見えた。ぷっくりとした唇に目を吸い寄せられてしまう。
「さ、こちらに来てちょうだい、本を読んで寝かしつけてあげる」
そう言い、布団を広げて少女はもぐりこむ。
誘われるまま用意されている空間へ身を沈めるとエルフの顔はすぐ目の前になり、つい大きな瞳に見とれてしまう。と、もう少し彼女側から近づかれ、のしりと華奢な身体を重ねてくる。
女の子特有の匂いを覚えつつ、肩へと少女の頭は乗せられた。
そしてもうひとつ、背後からしゅるりと衣擦れの音が響いている。
衣服があると眠れない竜は、尻尾まで本来の姿へと戻したらしくダウンライトにゆらゆらと影は踊っていた。
「わしのネギソースは負けておらぬからな」
「ふふっ、まだ言うのかい。どちらも美味しいし僕は好きだよ」
ギシリと背中側の布団が鳴り、そして黒髪をした美女はもぐりこむ。いつでも眠って問題が無いよう抱きつき、そしてグイと腰を寄せてくる。
うなじに彼女の鼻が当たり、満足そうに「ふう」と息を吐く。
それから少女は一冊の本を広げてくれた。
「とある朝、いつものように青年は畑へと向かい――……」
当たり前のように流れてくる精霊のように美しい声。
僕らへ安眠をもたらすためだけの物語は、どこかかけがえの無いものだと思わせる。そのせいで、彼女のひどく華奢な腰を引き寄せてしまう。
「あら……仕方のない人。静かに、そっと眠りにつけるよう、私の声に耳を傾けていて」
そのような優しい囁き声を、いつ少女は覚えたのか。
この夜という時間、マリーから抱きしめられて眠る瞬間を、僕はいつの間にか楽しみにしている。読み上げるあいだの息を吸う音、そして窓の外へ響く雨の音。
いつしか心はとても静かになり、夜に溶けるよう沈んでゆく。
最後にひとつ、額になにか温かいものから触れられた気はしたけれど、暗闇のなかではそれの正体に気づけなかった。
おやすみなさい、エルフさん。
いつも綺麗な声なのに、夜はもっと綺麗だね。




