第84話 未来の勇者とエルフの邂逅 後編
「砂国へ恵みをもたらす良い雨だ。……おひとりかな?」
「あ、ザリーシュ……様」
半妖精の少女は目を見開き、慌てて立ち上がろうとするのをザリーシュは手で制す。
ちょうど視界の端にイブと少年のぶつかる所が見えた。ドレスへと飲み物は広がり、彼の慌てる姿を横目にカツカツと歩む。
異国の者であれ、思わず敬称付けをするほど彼は威厳に溢れている。単にレベルが高いだけでなく、財産、数々の教養、礼儀作法、そして女性を虜にする顔立ちにより振り返らぬ女性はいない。
落ち着いた笑みと共に囁きかける。
「私も涼みに来たところでね。もし宜しければ隣で休んでも?」
「ええ、どうぞごゆっくりお過ごしください。私はもう戻りますので」
エルフの反応に、少しだけザリーシュの思考は止まった。
彼との時間を過ごすことには価値がある。彼には力があり、その気になれば何でも叶えられるのだから。
しかし少女は立ち上がり、優雅な一礼をして通り過ぎようとしているではないか。
「あ、あー……、そうでは無く、貴女に伝えたい事があるのだ」
咄嗟にそう言うと、少女は怪訝そうに振り返る。
先ほどより距離はせばまり、アメシスト色の瞳、色づいた柔らかそうな唇まで見て取れた。
「先ほど聞いたが、たったの2人で迷宮に挑んでいるとか。貴女のような可憐な女性を、そのように危険な状況へ置く彼のことが気になる」
「彼って……一廣のことでしょうか?」
きょとりとした顔で少女は見上げてくる。
指摘されるなど考えてもいなかったと思える表情は、あの少年は最低限の信頼を勝ち得ているのか。
ならば――たやすい。
「ええ、普通ならば隊長は仲間の安全に気を配るべきだ。しかし彼はそれを放棄している。今まで命の危険を覚えた事もあるのでは?」
たったの2人――あの竜人がいれば3人だったろうが――そのような状況で危機に陥らないわけがない。いくら強力な精霊魔術師であっても、押し寄せる敵を食い止める盾役さえ居ないのだ。
「私であれば貴女をしっかりと守り、そして望むだけ裕福な暮らしを約束するというのに」
どうやら異国にいたエルフにとって、ザリーシュの肩書きは意味が無いらしい。ならばとザリーシュは、今とまるで異なる夢のような生活を想像させることにした。
いくらエルフであろうと女性というものは現実的だ。2つの道を示してやれば「どちらが得か」を真剣に吟味し、少なからず心を揺さぶれる。
このような駆け引きは実に単純明快だ。
天秤にかけさせ、どちらに価値があるのか示すだけで良いのだから。
やはり少女は「うーん」と悩み、困ったように愛玩動物と瞳を交わす。そしてエルフは吸い付きたくなるほど形の良い唇を開いた。
「いいえ、かすり傷さえありません。ふふ、おかしいですね。あなたの隊では怪我人が出たなんて噂を聞いていたものですから」
「あれは……女性として体調を崩していたのに、見抜けなかった私に落ち度がある」
ざくりと切り込まれる感覚があった。
天秤から跳ね除けられたようなこの反応は、ザリーシュの価値を感じ取れなかったのか。全身から漂う清純さはどう見ても生娘のもの。しかしそれと反するような知性を感じさせる。
少々、ザリーシュは戸惑った。
(面倒だな……これだから異国の野蛮人は。仕方ない、じっくり時間をかけるか)
「イブ、あとどれくらいもつ?」
「……ご命令とあらば私の部屋へ案内致しますが、しかし」
「そうしろ」
極秘会話を早々に切り、見上げる少女へと笑みをこぼす。これ以上ない整った顔立ちは、まるでおとぎ話のように映るだろう。ただの森から出てきた娘にとって刺激が強すぎるかもしれない。
「ああ、マリアーベル、貴女と友達になりたいだけなのに。これでは隊長の悪口を言いに来たみたいだ」
「友達……。その、困ります……。間に合ってますから」
間に合っている、とは?
変な宗教か何かと勘違いされているのだろうか。
それにしても、このどうしようも無い流れに腹が立つ。押しても引いても良い結果に繋がらず、イライラは募るばかりだ。
身分も顔も、地位も権力も持ち合わせ、そして女性への扱いも手馴れているはずなのに。
――ならば、その鈍い心臓に楔を打ち込んでやろう。
腕を掴み、腰を抱き寄せる。
舞踊のように自然と少女の身体はのけぞり、こちらへ艶のある唇を差し出す格好となった。
しかしこの華奢な腰つき、そしてゾクリとするほど手触りの良い肌は……見開かれた瞳はアメシスト色に輝き、宝物にしたいという欲望が湧き上がる。
そう、己だけのものにしたい。盲目的に従わせ、ときおり罰を与えて主人との絆を日に日に高めてやりたい。ぞくぞくと腰を駆け上がる感覚は久しく覚えていないものだ。
「失礼、遠まわしに言い過ぎていた。マリアーベル、貴女をひと目見たときから忘れられない。君の瞳は美しすぎる」
まさか、心臓に楔を打ち込まれたのはこちらなのでは? そう思うほどザリーシュは己の欲望をはっきりと感じ、そして妖精へ口付けしようと距離を狭めてゆく。
ああ、このゆっくりさが良い。トクトクと鳴る心臓は小鳥のように可愛らしく、そして確かにある柔らかな胸の感触、ぐいいーと離れてゆく彼女の顔……ん、離れてゆく?
ごちゅ!と変な音がし、少女の可愛らしいおでこが鼻に減り込んだ。
「おぐーッ!」
思わずエルフを手放し、ぺたりと鼻に触れてしまうほどザリーシュは驚愕した。いや、もちろん痛みは無い。この世界はレベルというものが絶対であり、鼻血などみっともないものを流すわけがない。
「いい加減にしてください、いま衛兵を呼びますので!」
そう怒気も露に、おでこを赤くするエルフから言い放たれた。
まさか、未来の勇者を相手にして衛兵を呼ぼうとするとは。もちろんそのような存在など簡単に潰せる。しかし鋼のような自尊心に傷がつき、しばらくザリーシュは動けなかった。
――ああ、そう。ならば野生の馬へするように、俺がキチンとしつけてやろう。
ふふ、ふ、とザリーシュは静かに笑い、同時にゴウ!と暗い欲望へ火がつくのを自覚した。
さて、彼は気づけなかったが、少女のような外見をしたエルフへ少しだけ心を奪われていたかもしれない。だからこそ彼の欲望はいくら日を空けても消えることなく、ふつふつと燻り続けた。
もうひとつ彼に気づけなかった事がある。愛玩動物である黒猫が、じいっと彼の指輪を見つめていたことに。
親指を除いた計8本の指それぞれにある指輪は、細かな装飾の違いがある。魔導竜ウリドラの使い魔は興味深げに観察をし、ほんの少しだけ瞳を輝かせた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「すみません、もう月曜……ではなく、帰る時間ですので」
「は? あなたね、この私を放って帰るって言いたいわけ? ほら、いいから部屋に連れて行って」
「汚した服は後で必ず弁償します。では、失礼」
突然少年の態度は変わり、なにを言っても反応しなくなった。
まだ夜は始まったばかりであり、たっぷりの胸元を見せたことで先ほどまで顔を赤くさせていたというのに。
思わず肩を掴もうと手を伸ばしたが、すかりと宙を掻くことになった。まるで数歩ほど先へ移動したかのように、鍛え上げたイブを置き去りにする。
あっけに取られているとバルコニーからは当のエルフが現れ、そして手を取り合って階段へと歩き去ってしまうが……。
「あれ、ザリーシュ、様?」
ぽつりと呟いた声は、あっというまに祝賀会の喧騒へと消えてしまった。
そう、サラリーマンである彼にとって出社時間は絶対である。
たとえ震災のときであろうと、ザッザッと列を成して出勤する様子には、ある意味で侍としての風格を感じさせたものだ。
まあ、今は風潮が変わりつつあるけれど……。
ともかく事前に了承を受けていた通り、2台ある馬車のうちひとつを使って戻り、大慌てで就寝することになったわけだ。
もしこれが土曜日であったなら、また異なる物語があったかもしれない。しかし明日の夜には魔導竜ウリドラが戻り、事態は加速してゆくだろう。




