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第54話 ようこそ、僕らのマンションへ

 

 まだ薄暗いマンションで、ぼんやりと僕は目を覚ます。


 今朝はスズメの声は聞こえずに、その代わり、しとしとと小雨が降り注いでいた。

 カーテンから漏れる光はいつもより薄暗く、ち、ち、と小さな鳴き声が聞こえてくる。どうやらスズメ達はベランダで雨宿りをしているようだ。


 先ほどまで幻想世界の迷宮で遊んでいたのに、目覚めるとまるで夢の出来事だったように思える。けれど、あれは現実だったと示すよう毛布からは白くさらさらの髪、そして長い耳が覗いていた。


 にゅうと白い手が伸ばされ、僕の肩をつかむ。

 両肩を押さえつけるようにして、半妖精のエルフは目覚めた。


 寝ぼけた彼女はピンピンと耳を揺すり、そして白く長いまつ毛でこちらを覗きこむ。

 まだ幼い外見ではあるが、ほっそりとした首筋には少女特有の色気がある。絹のように手触りの良さそうな肌を震わせ、くありと可愛らしい欠伸を漏らした。


 おはよう、と囁かれると、やはり彼女は幻想世界の住人なのだなと思い知らされる。アメシスト色の瞳が開かれると、決まって僕はその美しい色に見とれてしまうのだ。


「おはよう、マリー。よく眠れたかい?」

「ええと……あなたと居たら、いつでもぐっすり眠らされてしまうわ。それと、いつの間に朝の挨拶は日本語になったのかしら」


 少しだけ目を見開いてしまう。ところどころアクセントは怪しいものの、少女はほぼ完璧な日本語を使っていたのだ。この世界へと迷い込んでから、まだ一ヶ月程度だというのに。


「日本語を掴んだ感じ、する?」

「んふ、するわ。感覚的に言葉を発せられるようになったの。前は単語をひとつひとつ頭の中で翻訳していたのに、ぱしっと全てが繋がったみたい」


 そう言いながら、もそもそと身体の上へと少女は乗ってくる。胸の上に両手で頬杖をつき、とても軽い身体を重ねてきた。

 見上げればまだ朝の6時半。昨夜は少々早めに寝床へついたので、こうしてまどろむ時間を楽しめる。


「それなら田舎へ帰省するときも困らなそうだ。今日、明日と仕事が終わったらお出かけだからね」

「もうっ、楽しみすぎて困るわっ。アニメを見たせいで田舎という言葉だけでウキウキしてしまうのよ」


 にまにまと笑みを浮かべ、溢れる感情をそのままに抱きついてくる。

 ほっそりとした身体の線、そしてわずかな柔らかみも伝わると僕としては困らされる。ぱたぱたと足はベッドを叩き、可愛らしさについ腰を抱いてしまった。

 幸い腕を跳ね除けられることはなく、マリーは胸へ頬を押し付けて夢見るような瞳を浮かべている。


「予習がてら、出発前にまた一緒に見ようか。そういえば、ウリドラは今夜は寝床に戻るらしいよ」

「ええ、眠りかけていたときに聞いていたわ。いつも賑やかで楽しかったのに。となるとゴールデンウィークは大体あなたと二人きりになるのかしら」


 ぽつりと呟く少女に「そうなるね」と答えると、珍しくマリーは薄紫色の瞳を揺らしだす。困ったようにうろうろと彷徨い、そして上目使いに見つめてくる。

 触れ合っている身体からは熱が伝わり、気のせいか少女自身の甘い匂いが強まるように感じられた。


「ふ、ふーん。楽しみ過ぎて困ってしまうから、今夜はなるべく残業しないでね」

「分かりました。なるべく期待に応えます」


 まあ、そればかりは部長や会社の方々にお願いしたいところだ。

 とはいえ連休の間というのは仕事もそれほど多くはない。中には有休を入れて休んでいる者もいるくらいだ。


 むくりと少女は身を起こし、手を引かれるままに僕も起き上がる。

 もう5月とはいえ雨が降れば空気は肌寒い。テーブルに腰掛けるエルフは、ベランダで休んでいるスズメ達をじいっと眺めていた。

 僕はというと、そのエルフさんを横目で見ながら朝食作りを始めている。


「ずいぶん湿気があるのねぇ。日本はよく雨が降るのかしら」

「来月くらいには梅雨というのがあってね、その時はもっとジメジメするよ。たぶん降水量は多いほうじゃないかな」


 卵を椀に落としながら、ぼんやりと少女の言葉を考える

 日本にはダムがたくさんあるのだし、水不足には昔から悩まされていただろう。雨の多い印象だけれど、貯水という面で問題があるのかな。

 まあ元から狭い国土だし、山を下って海へと一気に流れ出てしまうのかもしれない。


 などと考えていたときだ。


「あッ! 見て、見て見て、カズヒホッ! はやく!」


 慌てた声に振り向くと、テーブルの上に何かがあった。

 何かというのは白くもやもやとしたもので、濃い煙がそこへ漂っているような印象だ。

 なんだろう、あれは……。


「せっ、精霊っ! 精霊っ、出せたのっ!」

「せいれい……精霊っ!?」


 切り分けたパンをぽちゃりと卵液のはいった皿に落とし、僕は素っ頓狂な声を上げた。

 ぽかんと開けた口を閉じることは難しい。なにしろ東京の江東区で、エルフは妖精を呼び出したのだ。

 いや、今はきっと呼び出している最中なのだろう。ふわふわとした煙はゆっくりと宙を漂い、そして形をより鮮明にさせてゆく。


 ちゃぷんっ。


 涼し気な水音を響かせ、そこには金魚くらいの大きさをした淡い群青色の魚が現れた。

 いやあー……これは凍りつくよ。幻想世界では見慣れた存在だとしても、この日本でお目にかかる時が来るなんて。


 窓の外にはコンクリート色の建物が広がっており、現実感をこれ以上なく伝えてくる。しかし、尾びれで宙を蹴ると霧状の水が撒かれ、ふわりと水の精霊ウンディーネは1LDKのなかを泳ぐ。

 その現実感と幻想感のギャップには、思わずクラリとさせられた。


「……こ、これは。いや、驚いたね。幻覚でも見ている気になるよ」


 そのような声をようやく出すことができた。

 テーブルへ近づくと、その青い魚はちょんちょんとマリーの指を突ついている。まるで餌を与えられているかのように。

 真ん丸の瞳がこちらを向くと、やはりエルフは頬を上気させていた。


「ほら、試しに日本語で呼びかけてみたの。ずっと彼らから相手にされていなかったのは、言葉というより感情を正しく伝えられていなかったせいかもしれないわ」

「え、精霊って日本語なの?」


 ううん、と少女は首を横へ振る。

 彼女の説明によると、どうやらこういう理由があったらしい。


 幻想世界では、精霊というのは万物の根源とされているものだ。草木から動物、果ては人工物にまで宿り、あらゆる束縛を受けない自由な存在と言われている。

 しかし実は彼らも影響を受けているものがある。例えば、山が豊かであれば行動は活発になり、洪水が起きれば水の精霊は人の目で見えるほどになるほどだ。

 いわば「地域の特性」というものを精霊は取り込んでいるらしい。


「この日本というのは人間が多いでしょう。たぶん、そのせいで日本語という影響を受けていると推測するわ。正しくは日本語というよりも感情の表し方ね」


 はあ、という力無い声しか出せない。

 疑おうにも目の前には精霊がいるのだし、もう頷くことしか出来ないけれど。


「信じられないけど、こうして見たらもう信じるしか無いね。僕も触っても平気?」


 どうぞ、と少女から身振りをされる。

 半透明がかった淡い群青をしているものの魚は反対側が透けて見える。

 ゆっくり指を近づけてみると、物怖じしないらしくつんつんと魚から突かれた。指先についた水はひんやりとしており、つい匂いを嗅いでみると清らかな香りがした。


「気になるなあ。こちら側の世界にも技能スキルレベルがあるのかな」

「気になるわねぇ。たぶんこの世界に来るとき、私はレベル1のような存在だと思うの」


 ふんふん、と頷きながら隣に座り……かけたところで朝食作りの途中だったことを思い出す。常識を覆すような出来事だというのに会社への準備を優先してしまうのは、さすが日本人だと言うしか無いね。

 震災があっても歩いて会社へ行くような国民性なのだから仕方無い。


「前にもそう言っていたね。となるとウリドラも同じ扱いなのかな」

「彼女の場合は伝説級レジェンドの竜族だからレベル1でも出来ることが多いのだと思うわ。というよりも、そもそもレベルという概念があるのか謎ねぇ」


 うんうんと唸る彼女に分析を任せ、僕はフライパンに火をかけてから卵にひたしたパンを焼く。

 砂糖を混ぜているせいで、じゅわっと音を立てて甘い匂いが広がった。


「考えているところ悪いけど、紅茶は何がいいかな?」

「うーん、この世界でもレベルの高い人がいるのかしら……あ、レモンが嬉しいわ。酸っぱいのは苦手だったのに、柑橘系の香りが最近好きになってきたの」


 そう答えると、ようやく部屋へ漂う甘い香りに少女は気づいたらしい。

 どうやら知識欲よりも食欲が勝るらしく、調理をしている僕のすぐ隣へとやってくる。いつもと異なるのは、水の精霊を後ろに連れていることか。


「んーー、甘い香り。パンを焼いているの?」

「もうすぐ出来上がるからね。これは卵を吸わせてから焼いているんだ」


 へえ、と興味深そうに覗いてくるが蓋をして蒸らさないと。かぽりと閉じると匂いは薄れ、その間に紅茶を用意する。

 お皿へ移し、ついでにバナナなどもテーブルに並べたら朝食は完成だ。いそいそと座る彼女の正面へと腰掛け、そして両手を合わせる。


「いただきますーー」


 待ちきれないようフォークを掴み、少女はぷすりとフォークを突き刺した。

 メイプルシロップをかけたフレンチトーストは、噛むとふかりと千切れてしまう。ほかほかのせいで卵の甘みが引き立てられ、噛めばじゅわりとバターが溢れる。

 ひとくち食べたとたん、エルフさんは「むふっ」と笑みを浮かべ、ぱたぱたとテーブルの下からは足踏みが聞こえてきた。


「んああっ……! ふわっふわ、甘さが染みだして……! ちょっと、やめてちょうだい。朝からすごく美味しいなんて、本気で日本に住みたくなるわ」

「うん、住んでいいよ。というよりも、ここは僕とマリーの家だと思っているけれど?」


 そう言うと、フォークを唇に入れたまま薄紫色の瞳を丸くさせる。

 もぐっ、と口内のものをゆっくりと咀嚼し、そして上目使いで見つめてきた。


「い、いいの? 住んじゃおうかな。ねえ、ここに住んでも平気? あなたのお邪魔じゃないかしら?」

「まさか。というよりも、ええと、住んで欲しいかな」


 気恥ずかしさはあるものの、そう感じているのは事実だ。

 彼女が来てからというもの毎日が楽しく、それは日本も夢の世界も同じこと。食事に、温泉旅行に、迷宮に、たくさんの遊びを教えてもらっている。

 いや、それ以上に純粋にこう思うのだ。ずっと一緒に居て欲しいと。


 少女はフォークを皿へ置き、そしてこちらへと手を伸ばした。

 当たり前のようにそれを受け止めると、互いの指はテーブルの上で絡んだ。白く細い彼女の指は温かく、ジンとこちらへと体温を伝えてくる。

 見れば色素の薄い肌は赤く染まっていた。


「で、では、こちらに住まわせていただきます。私の家は今日から江東区になりました」

「ようこそ、僕らのマンションへ。そちらの可愛らしい精霊さんも」


 宙で漂う精霊は、尾びれを揺らして水滴を撒く。

 ふふ、と互いに笑みを浮かべると彼女の親指がゴシゴシと僕の手を撫でてくる。それが何故か無性に嬉しく、僕らは口を開けて笑った。


 この日を境に、エルフ族のマリアーベルは江東区に家を構えることになったらしい。


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