第48話 ごめんなさい
がらりと戸が開き、そこから二人の女性がパジャマ姿で現れた。
しかし僕としては針のむしろと言うべきか、ちくちくとした非難めいた視線を受けており、こうして冷や汗をかいている。
精巧な人形じみた美しさをもつエルフの少女……彼女から冷たい瞳を向けられているのには理由がある。
なぜかというと、つい先ほど僕は――少女のよだれを指で拭いてしまったのだ。
本当にうかつだった。
その時はそうすべきだと感じたが、時間を置いてみるとやりすぎていたと思える。あれは普段の僕なら決してしない行為であり、なぜそんな事をしたのか今でもよく分からない。
「座りなさい」
「はい」
そのように冷たい声で命じられればもう逆らえない。
つい、と少女の指先からベッドを指差され、そして僕はいたたまれない気持ちと共に座る。
ベッドはぎしりと音を立て、小柄だというのに妙な迫力をしたマリーから見下ろされた。
薄紫色の瞳は、こうしてそばで見るとやはり綺麗だと思わせる。冷たいものではあるものの、それでも見とれてしまい視線を外すことさえ許されない。
彼女の後ろには黒髪の女性ウリドラがいて、にんまりとした表情で椅子へと腰掛けた。タオルで髪を拭きながら、きっと僕らのやりとりをたっぷり楽しむ気なのだろう。
ちょっと……いや、だいぶ怖いかな。
彼女から嫌われたりしなければ良いのだけれど。
などと考えているときに少女の手は伸ばされ、むにゃりと頬を摘まれる。反対側も同じようにされ、左右へつねられたものの、同時に僕はほんの少しだけほっとしていた。
温かく小さな手に触れられると、マリーがそばにいるように感じられたのだ。
「反省、してますね?」
「ふぁい」
どうにかコクリと頷くと、ほんの少しだけ少女からの気配は柔らかくなる。
のしりと当たり前のようにひざの上へとまたがられ、お風呂上りの柔らかいお尻に乗られてしまう。
左右へ頬をつねられ、すぐ上から薄紫色の瞳から睨まれるともう僕は身動きさえも封じられる。
「どこがいけない事だったのか、言ってみなさい」
と、そのとき少女から僕の頬は開放された。
どうやら弁明の場を与えてくれたらしい。
「あ……ええと、やりすぎました。デリカシーが足りなかったと反省してます」
そう言った途端、またむぎゅりと頬を摘まれる。
今度はもっと強めなもので、肘をついてベッドへ押し倒されるほどマリーからの迫力は強まった。アメシスト色の瞳はきゅっと細められ、湯上りのせいで色づいた唇は開かれる。
「いいえ、あなたは反省するべき所を分かっていないわ。私が怒っているのは違うところ。百年以上生きている私を、いつまでも子供のように扱っていることよ」
言っている意味がわかるかしら、という風に頬をムギムギと摘ままれる。
視界いっぱいに少女の顔があり、そこにはほんの少しの怒り、苛立ち、そして恥ずかしさを浮かばせていた。
つまり彼女はこう言っているのだ。
子ども扱いはやめて、と。
「この世界ではあなたしか私のことを知らないの。だからね、他の人はよいけれど、あなただけはちゃんと私を見ていてちょうだい」
お願い、と少女は瞳で囁いてきた。
小さな外見であり、感受性が豊かなせいで子供のように見てしまいがちだ。しかし少女は外見通りの年齢では無いし、様々な苦労をして年を重ねてきたエルフである。
ようやく僕は己の誤りに気づき、返事として少女の背へと手を伸ばす。ぴくりと反応を一つし、それでもマリーは抗わず、ゆっくりと身体を重ねてくれた。
白く綺麗な髪がさらりと零れ落ち、頬をくすぐる。
すぐ近くにある長い耳へと僕は囁きかけた。
「うン、ごめんね……すこし過保護だったよ。僕らは一緒に過ごすのだし、どちらの世界でも肩を並べるべきだ」
どうやら僕は、やっと過保護だと認めることが出来たらしい。
守るべき人であることに変わりは無いけれど、行き過ぎれば嫌な思いをさせてしまうことに気づいたのだ。
満足げにコクリと頷かれる気配があり、返事代わりにマリーの手も僕の背中へと回される。そして僕らは仲直りをするように身体を寄せ合った。
ほっそりとした腰と、柔らかくふっくらとした感触が腕のなかにある。
ふわりと柑橘系の香りが漂うのは、きっとボディークリームを使ってみたのだろう。
ゆっくりと少女は身を起こし、すぐ近くから覗き込まれる。見とれるような笑顔と共に囁いてくれた。
「分かってくれたなら許してあげる。特別ですからね」
そう言う笑顔はひどく印象的で、しばらく忘れることはできなそうだ。
ようやく開けた視界にはウリドラが覗き込んでおり、音を立てずに拍手で祝福をしてくれていた。気恥ずかしさはあるものの、きっと彼女も僕らの仲直りを後押ししてくれたのだろう。
さて、シフォンケーキを二人に楽しんでもらおうかな。
これにはもちろん「ごめんなさい」の意味も含まれているけれど、きっと言わずとも二人には伝わるだろう。
皿に小分けにされたケーキには、紅茶葉の粒々とした模様がある。それぞれのカップにはロイヤルミルクティーが注がれており、もうだいぶ暗くなりだした部屋で遅めの間食を楽しむ。
ズズ、と茶をすすり黒髪のウリドラは子供のように相好を崩した。
「んーーっ! ほどよく甘く、それでいてミルクのコクがあるのう。はあ、ここまで香り高いと茶への認識が変わりかねぬ」
「待ってちょうだい、シフォンも良く合うわ! ふああっ、ふわっふわで、紅茶と一緒だととろりと溶けて……ああ、もう、香りで駄目になりそう」
フォークを口にいれたまま、マリーは満面の笑みで頭を左右に振っていた。
食事であればガツガツといただくウリドラだが、おやつとなれば事情は変わるらしい。大事そうに口へ入れ、たっぷりと甘さを楽しんだ後にミルクティーと共に流し込む。
どちらからも茶葉の良質な匂いが溢れ、んふーっと鼻を通る香りを堪能しているようだ。
「舌に合うようで良かったよ。たまに思うけど、たぶん二人とも味覚が鋭いんだろうね。やっぱり幻想世界の住人は鋭敏なのかなぁ」
「あら、贅沢に慣れさせているのは、いったいどこの誰なのかしら? ただエルフや竜というのは、たしかに鋭敏かもしれないわ。感覚的なところが鋭いと言われているの」
ふむふむ、やはりそういう物なのか。
紅茶で流し込んだウリドラは眉間へ少しだけ皺を寄せる。髪の毛はもうだいぶ乾いているらしい。
「というよりも精霊界などに属しておる者は、人間よりもずっと多感なのである。ほれ、あらぬ物が見える者は、周囲の者とどこか違うじゃろ」
「ううん、オカルト的なことなのかな? なんとなく想像はできるけど」
などと伝えてくる顔もシフォンを食べると、にまーっと表情を緩ませる。
やあ、綺麗な女性たちが嬉しそうに目を細めていると、こうして眺めているだけで幸せな気持ちになるね。日曜日はもうすぐ終わってしまうけれど、おかげで元気に月曜を迎えられそうだ。
「それで、おぬしらは週末の二日が休みということかのう? それにしてはこのカレンダーとやらは、あちこちに赤い数字があるではないか」
ウリドラは小さな卓上カレンダーの存在に気づいたらしく、つんつんと指でつついていた。どうやら5月のカレンダーにある赤い数字が気になっているようだ。
「うん、祝日――国が定めた特別な日は休日になるよ。だから今週は火曜日まで働けば、あとはもうゴールデンウィークでお休みになるんだ」
憲法記念日、みどりの日、こどもの日、そして土日を含めると5連休が待っているわけだ。
そう伝えるとマリーは、もぐもぐと咀嚼をしながらカレンダーを覗き込む。赤い数字を指で数え、ごくんっと飲み込んでから僕を見上げてきた。
「ええっ、だ、だって……そうしたら5日もお休みになってしまうわよ!」
「うん、そうなるね。せっかくの連休だからさ、前に言っていた僕の田舎へ招待したいんだけど……覚えてるかな?」
うあっ!と少女は甲高い声を上げた。
どうやら少女はアニメの影響を多大に受けたせいで、日本の緑にかこまれた田舎風景というものにあこがれているらしい。だったらもう連れて行ってあげたくなるよね。
マリーは立ち上がったままじっと動けず、はああ、はああ、と不思議な呼吸をしていた。頬はゆっくりと赤く染まり、薄紫色の瞳はまばたきすることを忘れたように真ん丸させている。
どうしたんだろうと眺めていると、すぐにどすんと抱きついてきた。椅子が少し斜めになるほど強い力で、ほっそりとした小さな身体をあわてて抱きとめる。
そしてぱっと身を離すと、きらきらとした笑顔を見せてくれた。
「行く行くっ! どうしましょう、すごく楽しみなの! ええと、あの、ありがとう!」
「ふふ、なら良かった。といっても何も無いところだけどね。たぶんコンビニも無いよ」
そう言いながら、近くにあったカバンから封筒を取り出した。中からは新幹線「はやぶさ」の切符が入っており、それをテーブルへと乗せる。
チケット代は高いけど、ぜひともエルフさんには新幹線という乗り物を教えてあげたいからね。ついでに駅弁なども食べて、のんびりと東北への旅行を楽しみたいところだ。
そこまで考えて、ようやく重大なことに気がついた。うっかりとしたことに、チケットは2枚しか無いのだ。
「あ、あの、ウリドラ、さん……ごめん、予約していたのはずっと前で……二人分しか予約して無いんだ」
「ふうむ? 構わぬぞ。元から予定をしておったなら仕方なかろう。未来を読むことなど人には出来ぬことじゃからな」
どうやらスイーツで上機嫌らしく、ウリドラは鷹揚に頷いてくれたことにほっとする。
ああ、怒られなくて良かった。やっぱり魔導竜さんは大人だなぁ。
よいしょとマリーは膝の上へと腰掛け、先ほどのチケットをぴらぴらと眺めた。
「ねえねえ、シンカンセンって何かしら? いつもの車とは違うものなの?」
「うん、前に乗った電車よりも早い乗り物で……ああ、実際に見たほうが早いかな」
そう言ってスマホで検索をし、新幹線の様子を映し出す。
動画サイトに上がっている映像は、新幹線「はやぶさ」の独特のシルエット、それから猛スピードで疾走する様子を映し出す。
「うっわ……! はやっ! ええーー……これ、まさか乗れるのっ!?」
「もちろん。せっかくチケットを取ったんだし、マリーは窓際の特等席さ」
スマホの画面、そして僕の顔を交互に見つめてくる少女がなんとなく可愛らしい。
そのときボソリとウリドラの声が響いた。
「わしも……」
「うん?」
「乗りたいのう……」
はしゃいでいた僕らは、ぴたりと動きを止めた。覗き込んでいた魔導竜は消え去りそうな儚い笑みを浮かべ、つううと涙をこぼしていたのだ。
え、ちょっと待って。さっき大人っぽく「構わぬぞ」と言っていたよね?
などと言うこともできずウリドラを見つめるていると、こらえきれず「うぐっ」と嗚咽を漏らしてしまう。
「ホ、ほら、そのうちまた旅行するから。次は一緒に乗ろうよ!」
思わず声を裏返らせ、ひくりと頬を引きつらせてしまったよ。
竜はじっとチケットを見つめており、感情豊かなせいでいま何を考えているか手に取るように分かる。チケットは2枚。そしてマリーの席は確定している。では、僕の席は……?
ゴクリ、と僕とマリーの喉は鳴った。
「ホ、ほらっ! カズヒホは嘘をつく人なんかじゃないわ! 次は一緒よ! ねっ!」
「次っていつかのう……わしのことなんて、きっとまた忘れてしまうんじゃろなあ……。ひとりぼっちの魔導竜なぞ、人の子らはどうでも良いのじゃ。そこらの石コロと変わらぬのだ……」
あああ、椅子に体育座りしてしまった。
僕らは顔を青ざめさせ、ぱくぱくと口を動かすことしかできない。
結局、次は連れてゆくという念書を作るまでウリドラは納得せず、その後も「絶対じゃぞ」「絶対じゃぞ」と度々言われることになった。
部屋のなかはダウンライトきりとなり、部屋には厚いカーテンがかけられる。
そんななか布団を払い、エルフの少女はこちらを迎えて待っていた。
来て、と呼ばれているようだ。
光源が乏しいと少女は異なる顔を見せる。美しく整った目鼻、そして色づいた唇、うっすらとした鎖骨から年齢をあやふやにさせてしまう。
ぎしりと音をたて、もぐりこむとすぐにほっそりとした腕に抱かれる。膝を突き出すとやはり少女はいつものように脚を開き、そして互いの太ももの体温を交換しあう。
ふわりと漂う甘い匂いは、少女自身の放つ香りだ。
「…………」
いつになくマリーは無口だった。
じっとこちらを見上げ、そして瞳はわずかに濡れている。
少女から額をおしつけらると、さらさらな髪が触れてくすぐったい。
――ああ、そうか、待っているのかな。
試しに前髪をかきわけると、少女の動きはぴたりと止まった。
まぶたを閉じているのは、きっと僕を待っているのだろう。こうして額へと口付けて、唇の熱を伝わるのを。
ふにゃりとした顔を一つ見せ、それから少女は頭をもぐりこませてしまい、もう表情を見ることはできなくなる。白く綺麗な髪しか覗けないけれど長耳は赤く染まっていた。
「んふ、おやすみなさいっ。迷宮攻略、がんばろうね」
「おやすみなさい、マリー。良い夢を……って、同じ夢を見るんだったね」
くつくつと僕らは笑い、そして睡眠へと向けて体温は高められてゆく。
そしてぎしりと背後からウリドラが滑り込むと、ようやく僕らは布団に包まれた。
薄暗いなか少女は手を伸ばし、そして僕を挟んで指が絡み合う。そんな様子を眺めていると、僕の肩へと黒髪の女性は顎を乗せてきた。
「まったく、ぬしらは可愛いのう。おかげで母性に目覚めつつあるわ」
「おやすみなさい、ウリドラ。さっきはありがとう」
たぶんきっと、あのお風呂場で僕の知らない会話があったのだろう。
となると仲直りをさせてくれた彼女に感謝しないといけない。
「おやすみ、ウリドラ。いろいろとありがとう」
「良いのじゃあ。ほれ、代わりに甘いものも食事も、おぬしらの会話も楽しんだ。ふあ……しかし、ぬしからの眠気はすさまじい。魔法かと思うほどじゃあ」
そう言い、くあっとひとつあくびを漏らし、もぞりと頭の後ろへともぐりこまれる。
布団はぽかぽかと温められ、そしてあっという間に二人は眠りの世界へと吸い込まれた。
長いまつげをじっと見ているうちに、ふと思いつくことがあった。
よだれを拭いてしまった理由が何となく分かったのだ。
彼女はもう、自分が思っているよりずっとそばにいるのだろう。その証拠に、もう隣にいないときを想像できない。
たぶん子供じゃないことも僕は知っていたのだ。
だからこそ、惹かれているのだろう。自分では止められないくらいに。
すう、すう、という寝息に挟まれているうち、いつしか僕の瞳も重くなる。
まだ一緒に過ごしているのは、たったの一ヶ月だというのに。
すうーっ……。
実に眠気を誘う呼吸がマンションの一室へと響いた。




