【番外編】冬の日の小さな異変
お話の途中ですが番外編です
「……ん?」
朝、僕はちょっとした異変を感じた。
いつも通りの朝なのに、今日はなんだか違う気がする。そう思うけれど、まだ正体はわからない。はて、なんだろうこれは。
異変はもうひとつあった。布団を開けると冷気が押し寄せてきたので、慌ててすぐに閉じたのだ。
おかしいな、いつもだったら火とかげが部屋を暖めているはずなのに。
そう思いつつ暖炉に目をやると、炭の欠片しか残されていない。わざわざ青森から香木を取り寄せていたのだが、すっかり食べ尽くしてしまったらしい。
火とかげにも好みがあり、特にリンゴの樹はお気に入りだ。とはいえ実際に燃やすわけじゃなくって、スナック感覚で食んでいる。だからガスや灯油代より安いというか安すぎるのだが、いつもそこにいると考えてはいけないね。
人も精霊も気まぐれだし、思い通りにいかないことが数多い。とはいえ火とかげの飼い主は僕のすぐ隣で眠りこけており、目覚めの時はまだ先らしい。
暖炉は諦めて、僕はベッドから出ることにした。
「今朝はずいぶん冷えるな。東京でここまでとなると……おっ」
思わず驚きの声が漏れる。
すぐそこ、窓の外が真っ白だったからだ。
思わず何歩か進んで、僕は白いカーテンを開く。朝方であり、空は曇っているのに、なぜか光り輝いて見えた。
「そっか、雪か。どうりでいつもと違うように感じるわけだ」
外が静かなせいだろう。そう口にすると普段より響いて感じた。
だいぶ曇ったガラスを指でぬぐい、僕は白く塗りつぶされようとする江東区の街並みを見渡す。吐き出した息で、窓ガラスはもう少しだけ曇った。
やっぱり綺麗だよね、雪って。
雲が落ちてきたように上空は白くけぶっており、しんしんと降り積もるごとに音が消えてゆく。
呆けてしまうのは仕方ない。そして「いいものを見た」と思うのも東京住まいなら仕方ないだろう。これほどの大雪はそう目にすることがないのだ。
もうひとつ、僕を嬉しい気持ちにさせることが起こる。それはわずかな振動とともに着信メッセージを伝えるスマホであり、画面に映ったものを見て、自然と僕の口元はほころぶ。
「うん、仕事はお休みか。たまの大雪に感謝しないといけないね」
先ほど寒さに文句を言っていたことも忘れて、僕は浮かれるような歩調で歩きだす。
まずは温かい飲みものを淹れよう。甘いココアがいい。そして窓辺に立ち、特別な景色を楽しむのだ。
エルフ族のマリアーベルが目を覚ますのは、ココアの甘い香りが漂うころだった。
目をこすり、可愛らしさと無縁な声で「さぶっ」と漏らす。そして僕と同じように暖炉に目をやり、憎たらしいものを見るような表情になった。
「……だめね、気まぐれな精霊は。いざというときに、ぜんぜん仕事をしてくれないなんて悲しいわ」
ぶつぶつ文句を言いながら、彼女は身を起こしたものの布団から出る気配はない。
「おはよう、マリー。たまには寒さを感じるのもいいものだよ。温かい上着はいる?」
「お願い、持ってきてくれるかしら。自然と動物は大好きだけど、こう寒いと私はずっとずっとベッドから出られないわ。いつの日か私はエルフ族からベッド族に変わってしま……」
ふと少女の言葉は途切れる。
先ほどの困り果てた表情は放心に近いものに変わり、とても綺麗な紫色の瞳で窓の外を見つめていた。
いいよね、雪って。
たびたび起こることじゃないけれど、だからこそ特別感があって、僕みたいな大人でもそう感じる。
厚く積もった雪は十センチほどだろうか。
それは東京都江東区を真っ白に染めて、さらなる追撃のように空から舞い降りる。雪の少ない地方に住んでいたマリーにとっては、驚きの光景かもしれない。
わあ、と漏らす彼女の瞳はきらきらに輝いており、もっとそばで見たくなる。とびきりの宝石を愛でる宝石商も同じ気持ちなのだろうか。
ことんとマグカップをテーブルに置き、そんな彼女のそばに近づく。そしてベッドに腰掛けながら僕は囁く。
「大雪だから、今日のお仕事はお休みなんだ」
そのときの気持ちがうまく言い表せない。
くるんと振り返る彼女は輝くような表情で、寒ささえ忘れて飛びついてきたんだ。
「きゃあ、やったー!」
寝起きの身体はとても温かく、そしてキャラメルをかけたポップコーンのような香りがした。
背中や頭をなでなでしてくるのはなぜなのか。分からないけれど、スマホでお休みを告げられたときよりもずっと嬉しい気持ちになったのは確かだ。
ほんの少し離れた彼女は、視界いっぱいに愛らしい顔を覗かせた。
「やったやった! 寝ている場合じゃないし、雪に感謝しないといけないわ。だけどお休みを満喫する前に、まず火とかげを迎えましょう」
それには僕も賛成だ。すっかり暖炉の良さを知ってしまい、エアコンなどでは満足できない身体になってしまった。
もうひとつ、ベッドから起きるなり手を繋いできた彼女もそうだ。目を合わせると彼女は綺麗な笑みを浮かべて、にぎにぎと幾度か握ってくる。
ずっと独り身だったけど、こうなるともうエルフさん無しでは生きていけないな。割と本気でそう思うよ。
玄関に置いていた薪を少女は手に取り、その背後ではたくさんの雪が舞い落ちる。
この調子ではまだ積もるだろうし、朝のニュースが気になるところだ。いや、仕事は休みなのだから大して気にしなくていいか。
火とかげを迎える儀式は、あまり幻想的な感じじゃない。暖炉の灰を綺麗にして、耐熱ガラスを雑巾で拭く。そして好物である薪を置くと、長くその場で過ごしてもらえる環境が整う。
儀式というよりは生きもの係みたいな感じだね。そんなボヤきが聞こえたのか、少女はくるんと振り返って雪のように白い髪を揺らす。
「あら、そんなの精霊術に限った話じゃないわ。どれほど魔力があろうとも環境をきちんと整えなければ、思っていた通りの結果は得られないものよ。あなたのお仕事だって同じじゃないかしら」
広げたビニール袋で灰を受け取り、ぎゅっと縛りながら僕はうなずく。
ふむふむ、どんなものでも基礎は大事らしい。ただ、今日ばかりはお仕事のことを忘れたいなぁ。
燃えるゴミと燃えないゴミという分類はあるけれど、灰はどちらになるのだろう。燃えたゴミという分類はないので、仕方なく燃えないゴミとして扱った。
さて、準備が整えばあとはたやすい。彼女は地元のアレクセイ地方だけでなくアリライ国でも高名になりつつある精霊魔術師だ。
くるくる指を回すと、それだけで手のひらサイズの珍獣……ではなく、丸々とした火とかげが天井からデンと降ってくる。
だいぶ慣れたけれど、この東京で精霊が現れるのはとても不思議だ。少女が手にした薪にのそのそ近づいて、気づけば暖炉のなかに誘導されているというのは……精霊術というよりも生きもの係に近いかな、やっぱり。
ゴウと火の音がして、部屋は暖色に染められる。部屋はだんだんと暖かくなり、温かいココアを口にして、飲み終えるころには寒さがだいぶ遠ざかる。
艶のある唇で、ほうと少女は息を吐いた。
「善は急げ、ね。一廣さん、早く支度なさい」
少女が椅子から立ち上がり、そう言ってきたことに僕は驚く。
「え? 仕事は休みだよ?」
「だからこそよ。せっかくの雪なのだから、朝食の前に少しだけお散歩しましょう」
散歩する気で満々な表情で告げられて、僕はまたも目を丸くする。寒がりなはずの彼女だが、今日に関しては別らしい。
朝の七時だと告げる時計、そして窓の向こうに目をやり、無駄だと分かりつつ僕は口を開く。
「滑って危ないし、せめて雪が止んでからのほうがいいんじゃない?」
「だめよ、行くの。この街の人口がとても多いのは私も知っているし、出発が遅れたら人の足跡だらけになってしまうの。もしそうなったら悲しいわ。あなたもきっと後悔するでしょうね。だから今すぐ出発しましょう」
やはり反論は無駄だったと悟り、僕も椅子から立ち上がる。せめて彼女が滑って転ばないように、サポートしやすい服を選ばないと。
早く早くと急かされて、お休みのはずなのに普段より慌ただしいお着替えだ。手に取るのはスーツではなく私服だから、気分的にはずっと楽だけど。
暖かいマフラーで首元まで覆ってやり、そのあいだに彼女は可愛らしいニット帽を被る。
森を愛するエルフ族は、あっという間に雪国育ちのような服装に変わり、にっこりと視界いっぱいに微笑む。
「じゃあ出発ー! 行きましょう、あなた」
靴を履き、玄関から出るまぎわ、じゃれつくよう腕に抱きつきながらそう言われる。息が届くくらいの距離だ。単なる恋人ではない響きに感じられて、僕の胸は高鳴った。
透明なビニール傘を手に取って、僕らは真っ白な江東区に足を踏み入れる。そこはもう雪国だった。トンネルを抜ける必要さえない。
もしかしたら今日は記録的な大雪になるかもしれないぞ。
気象予報はだいたい正確だけど、雪や台風などに関しては警戒を呼びかける意味か、やや大袈裟に言うような気がする。だからいつも話半分で聞いているんだけど、今日に関しては耳を傾けておけば良かった。
雪は音もなく降り積もり、普段よりもずっと静けさに包まれている。街がまるで無人になってしまったかのようだ。
だけど、ふうふうと息を吐く音がする。僕ではなく、すぐ隣を歩く子は、真っ白い息を吐いていた。
「残念、誰の足跡もないと思ったのに」
息を整えながら、ゆっくりとした口調でそう言う。静かなぶん、彼女の澄んだ声だけが耳に響いた。
「ん、足跡でいっぱいだ。僕らよりも早起きな人がたくさんいたんだね」
「こういう日こそ家でのんびり過ごせばいいのに。日本人の勤勉さと勤労意欲には呆れるわ」
車も通らないような裏道だから、人の姿もあまりない。だいぶ離れたところを、えっちらおっちらと危なっかしい足取りで進むサラリーマンの男性が見えるくらいだ。
誰の足跡もない新雪を夢見ていたようだけど、横顔を見るにそう不機嫌ではなさそうだ。肌が白いぶん頬の赤さが目立ち、それ以上に薄紫色の瞳は鮮やかだ。
その瞳をどこかに向けて、数秒の間も置かずに彼女は笑いかけてきた。
「見て、ついに目当ての場所を見つけたわ」
息を弾ませて少女はそう言う。しかし僕としては目が点になる思いだ。
少女が指を向けた先は、よく一緒に散歩する河川敷公園がある。確かに足跡のひとつもない。しかしそれは偶然ではないだろう。こんもりと丸みを帯びて積もった雪を見て、一人残らず回れ右をしたのだ。
「……え、まさかここを歩くの?」
「なに怖気づいているの。あなた、確か北国に向かうとき私にこう言ったわよね。白と青しか色彩のない世界に僕だけがいる。そういうのに憧れないかな、って」
言ったっけ?
ああ、いや、言ったか。エルフの里で別れる前に、そう言った気がしないでもない。
「ええと、楽しめるのは夢の世界だからであって……」
「夢だろうと現実だろうと雪は雪。ただモンスターがいないだけよ。さあ、行きましょう。私は日本も面白くて大好きなの。あなたも同じ思いをなさい」
そう言い、少女は腕に抱きついてくる。おっとっと、大変なことになりそうだ。もはや回れ右をする選択肢は残されていないだろう。
河川沿いの散歩道に入るには、数段ほどのわずかな階段がある。普段なら気にもせず歩いていたが、しかし今は厚い雪に覆われている。一歩だけ踏み込むとやはり、ずぼっと足首から脛まで埋まった。
ずぼっ、ギュッ、グゴゴ。
形容しがたい音だ。氷の結晶を押しつぶして、僕らの足元で奇妙な音を立てる。
長靴を用意しておけば良かったと後悔するが、グゴ、ギュゴ、という足音と共に僕らはもう歩き始めてしまった。
「あっ、るきっ、づらっ、いっ! わっ!」
ぎゅっと僕の手を思いきり握りながら、エルフさんはそう言う。すでに余裕はなく、埋まってしまう足元を凝視していた。
そりゃあねえ、大雪だもの。これほどになると、かんじきを履かなければ大変だ。
しかしマリーの歩みは止まらない。美少女らしからぬガニ股になりつつも、先ほど見かけたサラリーマンより遅い歩調で、えっちらおっちらと歩む。
普段の散歩とはまるで違う。
気の利いた会話のひとつもできないし、時折どさどさと雪の塊が樹木から落ちてくる。頭にかぶったら冷たくて大変だし、散歩道というよりはどこかのアトラクションに迷い込んだ気分だ。
しかしマリーにしがみつかれながら雪煙を見上げると、なぜか懐かしい気持ちが込み上げる。
子供のころは、よくこんな景色を見た。それが当たり前だと思っていたけれど、東京に移り住むと雪かきすることさえなくなった。
ほうと吐く息も、空から舞い落ちるものも真っ白だ。手を繋いだ彼女の髪もそうだし、ついでに今日はお休みだ。
そんな浮かれた気持ちが見透かされたのか、見上げてくる少女は唇に笑みを浮かべた。
「私が偉い人でも絶対に同じことを言うわ。こんな素敵な日に働いてはいけません、ということね」
うーん、休みになったのは交通機関が麻痺しそうだからだと思うけど、目元までニット帽をかぶったエルフさんがあまりにも愛らしくて僕は言葉を飲み込む。
「うん、感謝しないといけないね。雪に、会社に、それと散歩のお誘いをしてくれたマリーに」
美しい薄紫色の瞳が見開かれて、にまーっと嬉しそうな笑みに変わる。
でしょう、と彼女は言い、毛糸の手袋越しに幾度か握ってくる。ただそれだけで、胸の奥がくすぐったい気持ちになったのはなぜだろう。
「これはエルフさんに、せめてものお礼をしないといけないな。火トカゲの温めた部屋が待っているし、朝っぱらからお風呂を堪能してもらうのはどうだろう」
「あら、いいわね。お風呂上がりにはどんな嬉しいことが待っているの?」
ほうと白い息を吐きながらも少女の瞳は輝く。
「そうだねぇ、温かいミルクを注いだマグカップ、それと硬めのクッキーを用意しようか。素朴な甘さと歯ごたえが楽しめるし、それに気を取られているあいだにアニメを流し始めてもいい。うん、今日はエルフさんを骨抜きにしてあげたい気分だね」
指をひとつずつ折り、エルフさんにしてあげたいことをあえてネタバレしてみる。すると、きらっきらに少女の瞳は輝いた。
もぎゅもぎゅとその場で足踏みしてから、おほんと咳払いをマリーはした。
「わっ、悪くはないわね! きゅ、及第点といったところかしら。さすがはカズヒホとだけ言っておくわ」
その胸元に指先を当てるポーズと、頬を垂れる冷や汗はなんだろう。勝ち負けを争う会話だったかな。
でもなぜかそんな表情を見ると僕は嬉しくなる。僕をじっと見つめてくれるからだろうか。それとも早く帰りたそうに手を引いてきたからだろうか。
分からないけれど、胸の奥がウキウキしていることは悟られないようにしよう。
「ん、たまには東方のお菓子もいいかもしれない。月餅というのは餡にクルミやナッツといった香ばしい木の実を練りこんでいてね、その上品な甘さがホットミルクで溶けると口の中いっぱいに幸せが……」
話している最中にマリーはぎゅうっと腕に抱きつき、なぜか「あああああ」と口にする。
「あ、あなたって美味しそうに言う達人ね。言っておきますけれど、あなたに屈したわけではないの。この世界のお菓子がただ美味しいだけ。平和な上に甘いお菓子がたくさんあるだなんて反則にもほどがあるわ」
ぴっぴっと指先を幾度も向けてから少女の足は回れ右した。
もくろみ通り、だれの足跡もない道を歩いたけれど、すぐそこには猫の足跡が点々と残されている。きっと僕らよりも早起きして、真っ白い世界に驚きつつ朝の散歩を楽しんだに違いない。
雪を鼻に乗せて、マリアーベルが笑いかけてきた。
ただそれだけで僕も笑みを浮かべてしまう。
ひょっとしたら甘やかされているのは僕のほうなのでは? そう思えるくらいマリアーベルは真っ白い世界で輝かしく見えた。
ん、これも懐かしい。
湿った靴下を脱ぎ、椅子の背にかけて乾かすなんていつ以来だろう。
もちろん暖炉なんてしゃれたものは子供のころになかったけれど、耐熱ガラスの向こうにいるのは火とかげだ。おーいと手を振ってくる様子に、思わずくすりと笑う。
彼のすぐ近くに僕はしゃがみこんだ。
「僕は北国育ちだけど、別に寒さに強いわけじゃないんだ。青森に移り住んだのは小学上級生のころだったし」
ハテナ、と火とかげは首を傾ける。両手に持った薪をぺろぺろと舐めて、またゴマ粒みたいな目で見つめてきた。
こうして見るぶんには可愛いんだけど、エルフ族が言うには危険な精霊らしい。子供のようにウロウロと歩き回り、山火事を起こしかねない。だから耐熱ガラスは開けられないんだ、ごめんね。
「でも、君のおかげで暖かく過ごせるのは嬉しいな。ありがとう」
精霊というのは不思議で、言葉が通じているのかそうでないかも分からない。そう思っていたのに、彼は得意げというよりも、ドヤァと見下すような視線を向けてきた。
なるほど、これがウザ可愛いというものか。偉そうなのに、薪を大事そうに抱えているものだからつい吹き出してしまう。
「精霊はみんなこういう姿なのかな。もしかしたらだけど、マリアーベルの好みがそうさせているんじゃ……おっと」
もっとのんびり過ごせばいいのに、濡れたままの僕を気づかったのかお風呂場から出てくる音がする。
「さて、美味しいホットミルクのコツはなんだったかな。このあいだ職場で聞いたんだ」
そう漏らして立ち上がる僕を、火とかげはゴマ粒のような目で見つめてくる。いそいそとキッチンに向かう僕を「人間がまたおかしなことをしてら」とでも思っているのだろうか。
分からないが、もうしばらくして僕と彼は振り返った。
ウサギさんの柄がついたパジャマを着た女の子は、戸口から現れるなりにっこりと子供みたいに笑いかけてくる。
こらえようと思ったけど、やっぱり無理だ。口が勝手に笑みの形になってしまう。いや、どんな偏屈な人でも、あの顔で「ただいま」と言われたら顔がほころぶか。
しんしんと音もなく降り積もる雪は、静けさを街にもたらす。世界がゆっくりと凍りついてゆくかのようだ。
しかし江東区の片隅にあるマンションでは、いつもと変わらぬ楽しい時間が流れたという。
さて、それと時を同じくした古代迷宮第二層である。
暗く静まり返った廊下に灯りが差して、一人の女性が現れた。
大きなあくびを手で隠したのは、かつてここの階層主だったシャーリーだ。
もう片方の手にランプを持ち、元々は死神のような存在だったせいか暗さに怯えることはない。
以前と違い、人の身を得てからというもの様々なことをする必要があった。
ひとつは睡眠だ。他の人と同じように、現人神は温かい寝床に潜りこむ必要がある。
他にも食事やトイレ、適度な運動といったことも必要で、夜遅い時間に一人で歩いていたのはそんな理由があったりする。
と、蜂蜜色の髪を揺らして、彼女は広間に目を向ける。そこには暖炉があって、わずかな残り火が広間を暖めていた。
「……じゃが」
と、そこの椅子に腰掛けた女性がひとりごとを口にする。長い黒髪は見事なまでの美しさでありながら、指先を己のこめかみに当ててうつむいているのはどういうことだろう。はて、落ち込んでいるようにも見えるのだが。
ゆっくりとシャーリーが頭を斜めにさせていたとき、バッと勢いよく彼女は振り返った。
「いつまで経っても向こうで呼ばれないんじゃが! 今ごろあやつらは、美味しいものを食べておるに違いない! わしをのけものにして楽しんでおるのじゃ、きっと!」
その勢いで青空色の瞳はまんまるに見開かれる。
あまりにも悲痛そうな表情だったので、使い魔として北瀬の家に呼ばれないということをシャーリーはすぐに察した。
世界で一番の友達だし、普段であれば慰めていただろう。しかし夜も更けており、くありと大きなあくびを漏らす。大したことではないと分かったのも大きい。
だからシャーリーは後ろから近づき、友人の腕に抱きつくや無理やりにグイと引いて立たせる。
彼女は「お?」と言い、戸惑っているようだが知ったことではない。眠いものは眠いのだ。
この場合、お持ち帰りとでも言うのだろうか。
冷たい寝床を避けるには、暖炉でぬくぬくに温められた魔導竜がぴったりだ。そう考えついたのか、グイグイと強引に腕を引き、寝室までの道を歩きだす。
暗く静まり返った廊下では、尚も魔導竜は不平不満をつらつらと口にして、いかに己が偉いのかを語る。
眠くて仕方ないシャーリーは、はいはいと言うように背中を撫でて、彼女の寝室へとウリドラを引っ張り込む。
折しもこちらの世界でも空から雪が舞い落ちて、景色を白色に染めてゆくようだ。
とはいえ今宵は隣人がいるのだから、朝まで温かく、ぐっすり眠れることだろう。
おやすみなさい、二人とも。




