第324話 猫の匂い交換会はこちらです
砂国アリライだと、太陽が高いあいだはずっと休み、思い思いに軽食を摂るという習慣がある。
怠けているわけでもなんでもなく、日差しがあまりにも強いせいだ。
いくら冒険心に富んだ僕であっても、砂漠で干からびたいとは思わない。一面の雪景色であれば別だけど、暑いのはちょっと苦手かな。
ただし、二本足ですっくと立ち、しきりに鼻を動かす猫族はそこの出身だ。砂漠に猫がいることに驚くかもしれないけれど、幻想世界には変わった風習や種族がいる。だから旅をするのはとても楽しい。
砂国出身の彼は、日本でお昼どきを過ごすのは当然初めてだ。見慣れない風習や料理をたくさん楽しんでくれるといいな。
そう思い、彼のふかふかな毛皮を後ろから撫でた。
彼は少しだけ驚き、見上げてくる。その仕草はやはり猫にそっくりだ。すぐに目当ての品に視線を戻すところも。
軽くお腹を満たすというのはどちらの国もそう変わらない時間の過ごしかただが、しかし本日に至っては、ラップをめくった途端に少女が「わあっ!」と歓声を上げた通り、豪勢な昼食になりそうだ。
鮮やかな赤身に白い模様が入り、鮮度を感じさせる照りにミュイは目を丸くする。
お寿司というのを初めて目にしたはずだけど、僕らよりもずっと鋭敏な彼は、ひくひく鼻を動かして、ごくっと喉を鳴らす。
あらら、テーブルの端に両手をのせたまま微動だにしなくなっちゃった。その背伸びした姿勢と、ピンと伸びた尻尾がどうしてもね、獲物を狙う悪戯猫にしか見えないなぁ。
しゅたっと彼の目の前に降り立った黒猫も同様だが、彼女の場合は本物の悪戯猫だ。
普段でも食に関してウリドラは弱いけれど、特にアレがまずい。赤身に美しい白い模様がついた、いわゆる中トロというものの味わい深さを魔導竜は知ってしまった。
だからミュイの邪魔をするよう目の前に立ち、すんすんすんと嗅ぐ。普通の猫ではないと僕らは知っているので、そんな様子を叱りはしない。
「だめよ、ウリドラ。みんなが席につくまで大人しくしなさい」
ただ一人、エルフ族のマリーを除いては、と言うべきだったか。
たとえ正体が魔導竜と知っていても、彼女は物おじせず黒猫を宙に抱え上げる。そして空いていた椅子にゆっくりと腰掛けた。
なーう、という抗議の鳴き声を聞いても少女は知らんぷりだ。
バンザイの格好に吊るされた黒猫は、やや不機嫌そうな顔つきだったが、金色の瞳をお寿司から少女に移す。
もしかしたら扱いに慣れているのは、実はウリドラのほうだったかもしれない。ふすんと諦めたような息をひとつ吐き、そしておとなしく少女のお腹に腰掛けた。なーうという鳴き声は「まったくもう」と言っているかのようだった。
不思議なことに二人はとても仲が良い。気高いエルフ族、そして凶暴な魔導竜という組み合わせでありながら、まるで生来の姉妹であるかのようだ。
結果としてテーブルの端っこには二匹の瞳が爛々と輝くことになり、それを見つめる夫妻の表情は緩んだ。緩みきった。
「くーっ、可愛いなぁ! うちも猫を飼いたいっ!」
「だめですよ徹さんっ、そんなことを口にしたらっ! 私たちは共働きだから面倒が見られな……ああーっ、いますぐにでもお持ち帰りしたいっ!」
悶々と考え込む様子は、どうしたら猫が飼えるのかを考え込んでいるようだ。
環境が許せばすぐにでも飼うのだろうけど、あの二匹は厳密にいうと猫じゃないからね。
さて、お茶と小皿を置いたら昼食の時間……と考えていたときにふと思い出す。
先ほどマリーが問いかけてきた「この世界で最も大事な教え」の答えはまだ分からないが、守るべき教えについては分かっているつもりだ。
ひょいとミュイを持ち上げて、彼に優しく笑いかける。本物の猫より少しは重いかなと思える程度であり、みょーんと伸びる胴体もそっくりだった。
「お食事の前に手を水で洗おうか」
「手をデスか? ちゃんと舐めマシタよ」
そう言い、両手……いや、ここは足先か。にゅっとピンク色の肉球を広げられて、僕もまた「可愛いな」と思う。
動物の足先は、外国で「ポー」などと呼ばれており、響きの通りどこか愛らしい。
そのせいなのだろうか。すっと横から伸びてきた手が彼の足を握る。
「ミュイちゃん、きれいきれいしましょ」
うわー、すごい笑顔だ。
満面の笑みを浮かべるマリーは、よほど肉球の感触がお気に召したらしく、むにむにと何度も握っていた。
「? どうしてまた洗うのデス? お二人はアリライにいたときもそうデシタね」
「うーん、風習といえば風習なのかな。この国はとても綺麗好きだから、初めて訪れるミュイからは不思議に見えるだろうね」
そう答えながら僕らは脱衣所に向かう。
手を洗うのは清潔にするためなんだけど、そうしなかったときにどう悪いことが起こるのかは僕にも分からない。いつも洗っているからね。
おっと、前足を泡立たせてやり、洗っているエルフさんの場合はちょっと事情が違うかな。あの表情を見るに、楽しんでいるのは丸わかりだ。
正面にあった鏡を見て、ぱちくりとまばたきする様子も愛らしい。これでは夫妻が飼いたがるわけだ。
もちろん彼は愛玩動物ではない。魔石を自然と扱える希少な種族なのだが、ふと僕は思い出す。
「そういえば同じ猫族の子がいたね。仲良くできそうかな」
「うーん、どうでしょう。ただ、久しぶりに匂いを交換できて嬉しかったデス」
はて、匂いの交換とはなんだろう。仲の良い猫同士がじゃれあっているアレに近いのだろうか。
猫族同士がしていた習慣を僕らはあまり知らない。たった一匹で彼は暮らしていたし、目にする機会はなかったからね。
懐かしいものを思い出すようなミュイの表情を見るに、同族との触れあいは好印象のようだった。
「カズヒホ様もやってみマス?」
「え、なにを……ああ、匂いの交換か。じゃあお願いしようかな」
せっかく彼が提案してくれたんだ。断ってはもったいない。そう思い、猫族の手招きに応じてフローリングに膝をつく。
すると彼は躊躇せず、前足を僕の胸に置く。そして、ぐりっと頭を擦りつけてきた。
うわあー、と僕は声にならない声を上げる。彼の毛並みはふかふかで、それが顎先から後頭部にかけてまんべんなく擦られるのだ。
二度三度と繰り返して、今度は逆側で同じことをしてくる。
線になるまで細められた目といい、クルルと喉の奥で鳴く様子といい、なぜか分からないが僕は幸せな気持ちになった。首に温かい息が幾度も当たるからだろうか。
いや、これは正直たまらないぞ。お日様の匂いがして、このままお昼寝をしたくなるほどだ。
なにごとも経験だ。僕も同じように顔を擦りつけてみると、ぷすっという機嫌の良さそうな鼻息が耳に当たった。
しかし、こんなことをしてはエルフ族の子が羨ましがらないわけがない。
ふと視線に気づいて見上げると、そこには眉がハの字になり、口をぽっかり開けるという悲痛そうな表情のマリーがいた。なんて顔をしているの。
すうっと薄紫色の瞳が細められる。そして膝をつくとミュイがいる反対側から少女の顔が迫った。
「だめよ。そんな素敵なことを独り占めしたらだめ。絶対に許されないわ。ねえ、そうでしょう? 頭のいいあなたなら分かるわよね?」
ぽそぽそとした小さくとも迫力ある声で囁かれて、僕はウッと呻く。必死なあまり本人は気づいていないようだが、あまりにも距離が近いんだ。
長く同棲しているのだから多少は慣れるんじゃないかと思うよね? いやいや、ぜんぜん慣れないよ。
いつも思うことだけど、彼女は美術品のように整った顔立ちで表情をくるくる変える。だから僕は呼吸を忘れるくらい動揺してしまうのだが、彼女は彼女でまったく異なる思惑があるんだよね。
それはつまり愛らしい猫族を独占したがっているということで、じーっと見つめてくる瞳は、どうやって僕を排除しようか算段しているように見えた。
「あなたも知っているでしょう。エルフ族は動物と自然を心から愛しているの」
「そ、そうだね」
本当に好きならあえて自分で口にするだろうか、という疑問はひとまず忘れて僕はうなずく。
「だから私はエルフ族の代表としてミュイちゃんと仲良くしなければいけないし、きちんとした挨拶があるのなら私もすべきなの。分かるでしょう?」
どう、この完璧な理屈はと言わんばかりに鼻をフンスと少女は鳴らす。う、うん、どうして自信たっぷりなのかな。いや、もちろん交代する気だけど。
そんな彼女に、まだ僕の肩にあごを乗せていたままのミュイは、不思議そうな顔つきで見つめた。
「マリーさんはなんと言っているんデス?」
「匂いの交換をマリーもしたがっているんだよ。エルフ族は礼儀をとても大事にするからね。そういったことを決しておろそかにしないくらい……」
「お願いお願い、次は私の番なの! にゃごにゃご獣人語で相談していないで、はやくそこを代わって頂戴!」
にゃごにゃごってなに? そう問いかけたかったけど、両手の指先でひっきりなしに引っ張られると、くすぐったいやら可愛いやらで困ってしまう。
僕としてはそんなエルフさんと匂いの交換っこをしたいくらいなんだけどね。などと口にしては変な目で見られてしまうか。
おほんと僕は咳をして、二人の邪魔をしないように立ち上がった。
猫族とエルフ族がちょこんとフローリングに座り、正面から見つめあう。
長耳が上下に揺れるほど楽しみにしているマリーと、それを見てやや腰が引けたミュイというのは不思議な絵だ。まあね、ただの挨拶だというのにこんな笑顔を浮かべられたら戸惑うよね。
「ふわあーっ! あったかーい! どんぐりの匂いがする!」
すりっと互いの頬をこすり合わせると、少女はそんな声を漏らす。
唇は自然と笑みの形に代わり、そこからクフフとたまらなそうな含み笑いが溢れてくる。
お互いの目が線になるまで細められているから、なんだかこちらまでほんわかとした気分になってしまうぞ。うーん、可愛いなあ。思わず頭を撫でくり回したくなる。
なんて思っていたら、戸口からそっと覗く人がいた。
なかなか帰ってこない僕らに声をかけようとしたのかもしれない。それは眼鏡を光らせる薫子さんであり、はわわわ、とひっきりなしに口を開閉させている。
そして僕と視線が合い、なんですかあれは、可愛いが凝縮されてますよ、と言わんばかりに握り拳を振り回していた。
まあまあ、エルフ族は自然と動物が大好きらしいからしょうがないよね。
どうやら猫族にとって挨拶の流れはきちんと決まっているらしく、右頬で2回、左頬で2回と繰り返して、ごろろと喉を鳴らす。
それでエルフさんは完全ノックアウトされたらしく、とろけそうな表情でぼんやりと天井を見上げた。
「しやわせ……♡」
あらら、脱力しきっちゃって。
まあ仕方ないか。猫好きのエルフさんにとって、幸せのフルコースを味わったのだし。
「とまあ、猫族の挨拶はこんな感じデス。もちろんいつもはしまセンよ? ボクのために膝を折らせるのは失礼でしょうし……」
「はいはい! 次は私もお願いします!」
シュビッと手を挙げる薫子さんと、その後ろで「じゃあ私も」と恐る恐る手を挙げる夫妻には、さすがにびっくりしただろうね。ミュイは目がまんまるになるくらい見開いていた。
昼食で中トロを味わうのはかなり贅沢な部類だろう。罪作りと言われてもおかしくない。
箸でつまれたお寿司は鮮度を示すように照りがあり、ゆっくりと運ばれる先には大きく開いたエルフさんの口が待ち受ける。
はぐっと噛めば、これぞまさに贅沢だという表情を少女は浮かべた。んーっ、と呻いてもいた。
溶けるようだと人々は口にする。その表現は、噛むまでもなくネタとシャリが混ざりあうからこそだろう。
魚の風味に加えて、中トロならではの適度な脂身が口内に溢れかえる。
むふっ、という感じの笑みをマリーはこぼして、きらきらと輝く瞳で見つめてきた。
「……私が間違っていたわ」
「え、なにが?」
「この国で一番大事にする教えは、中トロを楽しめということだったのね」
ど、どうかなぁ。そんな真顔で言われると反論しづらいけど、たぶん絶対に間違っているんじゃないかなぁ。
つい先ほど、この国で一番大事なことは「ネタバレ厳禁」だと彼女は言っていた。
頭の上にハートマークが浮かんでいそうな表情だし、やっぱり反論しづらい。
ふと気づいたのは、慣れない箸に悪戦苦闘しているミュイだ。
どうにか肉球のあいだに挟もうとしているけれど、そもそも猫の手で箸を扱えるのかは僕にも分からない。
人相が悪くなるほど眉間に皺を刻む様子は、かなり集中しているようだ。
「ミュイ、箸が苦手なら手を使っていいんじゃない? さっき洗ったばかりだしね」
そう言うと彼はぱちりと瞳を開き、見上げてくる。
「良いのデスか? お行儀が悪いと思うのデスが」
「ん、大丈夫かな。お寿司はもともと手でつかんで食べる料理なんだし」
というよりも初日に箸を使わせるほうが心苦しい。せっかくの料理なのだから楽しんで欲しいというのが正直なところだ。
彼は生真面目なところがある。たぶんアリライ国に住み始めたときから作法をきちんと守っていたのだろう。
素手で食事することに気が引けている様子だが、食欲に背を押されてか、おずおずとミュイは手を伸ばす。
中トロのお寿司を手に取って、彼はくるんと僕を見つめてきた。
「ただ、お二人からお弁当をいただくときもありマスし、この国の料理の美味しさは知ってマス。魚は好物ですが、そこまで驚きはしないと思いマスよ」
などと笑顔でもぐもぐしているマリーを見ながら彼は言う。
分かるよ、分かる。そう思う気持ちはね。
ただ、隣で悶えているエルフさんもそうだけど、お寿司というものが世界中に店を構えることになったのは理由がある。
もぐり、とひとくち噛んだところで彼の動きは止まった。
もしも言葉にするなら「は?」が正しいと思う。
あっさりと噛みちぎれるネタは世界でも高級食材として知られており、だからこそマリーと同じくらい……いや、猫族の舌だからなのか。それ以上に瞳がきらきらに輝いた。
「~~~……っ!!」
両手で毛むくじゃらの口を押さえて、ようやくと言うべきか、もう我慢できなかったと言うべきか、もぐもぐもぐと口が勝手に動きだす。
すると中トロの味わいが一気に押し寄せて、鼻腔を抜けてゆく息さえも香ばしいと気づくだろう。
いつまでも噛んでいたい。そう思えるほど美味しいのだが、お腹はそれ以上に栄養を欲している。ごくんと飲み込むその瞬間、ミュイの背中から尻尾までの毛が一斉に逆立った。
両手で口元を押さえたまま、もぐもぐしている姿はどこか愛らしい。一条夫妻じゃないけれど、こうして毎日のように一緒に食事したくなるほどだ。
目が線になるまで細めたミュイは、ほうっと安堵のような息を吐いた。
「……はぁー、もー、ちょっと信じられマセンよ。なんデスか、これは。甘いと感じるくらい優しい味わいデシタ」
「食べやすいよね、中トロって。だから嫌いな人があまりいないんだ。もっと魚らしい味わいが好きなら白身を試したらどうかな」
まあ、僕が好きなのはサラダ軍艦巻きだけど。安いし美味しいから気兼ねなくパクパク食べられる。
そう思い、箸を進めていると、僕の手元に視線が集まった気がした。
「……どうして一廣さんは、そこの軍艦巻きを大事そうにしているのかしら。まるで私たちから隠すかのように」
「えっ、いや、そんなことはないよ?」
当たり前だけど、サラダ軍艦には刻んだカニカマ程度しか魚介類が入っていない。だから勧めるのは気が引けるし、僕くらいしか食べないだろうと考えていた。
せっかくの機会なんだから他の美味しいものを食べればいいのに。
そう思いはするけれど、テーブルの上を自由気ままに歩き、なーうと鳴く黒猫は僕の言葉など聞きはしないだろう。
ズイと美人顔の猫がアップとなり、また将来の妻であるマリアーベルもすっくと立ち上がる。据わった目を見るに……ああ、僕にはもうサラダ軍艦を守ることはできなそうだ。
やがて伸ばされる箸、そして前脚によって獲物はかっさらわれた。
ひとたび目にすれば夢にまで現れるという逸話があるほど美しいエルフ族は、ミュイのように目を線にする。
その理由は口に放り込んだサラダ軍艦の仕業であり、おそらくは海苔の風味、そして口内で混ざって、とろけるような子供向けの風味を楽しんでいるに違いない。
「やだー! これも美味しい!」
かつかつとお皿を鳴らして、一心不乱に食す黒猫も同感らしい。獲物を奪った相手など気にもせず、むしろ僕にお尻を向けたままだ。まあ、もともと彼女の好物はツナマヨなので、舌にバッチリ合うのだろう。
お寿司の良いところは、多種多様な味わいだよね。歯ごたえもそれぞれ異なり、違いを楽しんでいるうちにお腹も膨れる。
お吸い物、そしてお茶でお腹を温めると、やや豪勢な昼食は終わる。エルフさんはいかにも満腹だという風にお腹をさすっていた。
ミュイはというと……あらら、目が線のままで眠たそうだ。
ごろろと喉を鳴らしているし、こういうときは猫にそっくりになるんだな。
そう思っていたら、彼はのったりとした動きで近づいてくる。そして前脚で僕の太もも辺りをふみふみと幾度も踏む。
お昼寝にぴったりの場所と認識されたのか、ごろんっと遠慮なしに丸くなった。
うーん、温かい。猫より少し重いかなと感じる程度なんだけど、眠りを妨げるのは気が引ける。これは……迂闊に動けないぞ。
そんな僕らを見て、くすりと笑うのは薫子さんだ。
「ミュイちゃんはすっかり猫ちゃんですね。北瀬さんのそばだと安心できるのかもしれません」
そう言いながら薫子さんはもう一匹の眠そうな黒猫に手を伸ばす。バンザイの格好で持ち上げられたとき、くああーっとウリドラは大きな欠伸をする。そのまま膝の上に寝かされて、ミュイと同じように丸くなった。ふすんという鼻息も聞こえた。
「うーん、ずっと前に賊から救い出したからですかね。魔石の件があるので、どちらかというと僕のほうが助けられていますけど」
「いいじゃないですか。持ちつ持たれつというのは長いつきあいの秘訣ですよ。ねえ、徹さん」
そう声をかけられた男性は、いかにもという風に大きくうなずいていた。
「いかにも……と言いたいけれど、私の場合、夫婦円満の秘訣は北瀬君から教わったところがあるからなぁ」
「え、なんですかそれは。見ての通り気ままに過ごしていますし、僕らはまだ夫婦ではないですよ」
彼は役所勤めであり、仕事人間だったらしいけど、最近はだいぶ家庭のことを考えるようになったらしい。なぜそう改めたのかは分からないが、すぐ隣から大きなあくびが聞こえてきたので、僕の意識はマリアーベルに向く。
どうしてお腹いっぱいになると眠くなるのだろう。うつらうつらとし始めるマリーにクスリと笑い、僕は「ちょっとごめんね」とミュイに声をかける。
暖炉からは優しい暖かさが届いており、その前に置いたクッションは極上の心地よさをきっと味わえるだろう。
大事なものを扱うように、そっとマリーを抱き上げると羽のような軽さだと気づく。同時に首元に抱きつかれると、なぜか僕はとても幸せな気持ちになる。
むにゃりと耳元に声が聞こえたけれど、お礼なのか文句なのかは分からない。
幾分か体温の高いマリーを運び、そこいらにあった膝掛けを手に取って、クッションに運ぶまでのあいだ、寝ぼけたミュイは僕の足元にしがみついていた。
はて、人をダメにするクッションというのは、エルフ族にも有効だろうか。
そんなことを思いつつ、彼女を横たわらせる。もちろん満腹であろうお腹も温めてあげなくては。上から膝掛けをかけてあげると、マリーの口元がほころんだ。
「……円満が過ぎるね。そこまではさすがに真似できないなぁ」
「ご、ごちそうさまです」
いいっ、と僕は悲鳴をあげそうになる。
「いやいや、これくらいは普通のことですよね? ただ寝かしつけただけですよ」
「普通、かなぁ。北瀬君は眠そうな顔だけど、そういうときに自然と動けるのがすごい」
「わ、私もちょっと憧れますね。さりげない優しさというか、常に優しさ全開なところがいいです」
こ、これはいたたまれないぞ!
褒められているのか笑われているのか分からなくてつらい。席に戻るまでのあいだ眼鏡の向こうからきらきら輝く瞳に見つめられた。
「ああ、ごめんねミュイ」
いかにも眠そうな、もたもたと膝に乗ろうとしていたミュイを迎えると、彼は再び丸くなる。
これ以上に褒められるとつらいので、僕は会話を変えることにした。




