第320話 真理の時間です①
指先で形の良い鼻をこする女性は、名をシャーリーという。
蜂蜜色の髪を左右に揺らして彼女は周囲に目を向ける。どうやら先ほどのくしゃみが誰かに聞かれていないか気になったらしい。
幸いなことに誰もおらず、ほっとシャーリーは胸を撫でおろす。
青色をたくさん使ったステンドグラス調の窓がとても綺麗だったから、しばらくここに留まっていたせいで身体が冷えたのだろう。
そう考えたらしく、青空色の瞳を明るい通路に向けて歩きだす。
広間には立派な椅子があるけれど、ついつい窓辺に寄りたくなる。賑やかさを増しつつある雑踏が見下ろせるし、その向こうには美しい海が見える。
朝日の差し込む瞬間がとても綺麗なせいで、ついつい早起きしてしまうのも最近の日課だったりする。
神殿が第三階層において最も高いところに建てられたのは、この景色を楽しむためではなかろうか。
そのようなことを思いつつシャーリーは歩いてゆく。以前は気にもしなかったが、どうやら人というのは運動しないといけないらしい。
ひょんなことから肉体を授かってからというもの、手足の使いかたや食事の摂りかたまでひとつずつ学んでいる。
だから普通に暮らしているだけで忙しいのだが、シャーリーの歩調は軽やかだ。
この通路もどちらかというとお散歩用にこしらえた節があり、歩くたび窓の向こうにまったく異なる風景が広がる。
階層主のころも、よくこうしてウロついていたものだ。束縛が解かれても本質は大きく変わらず、膝まであるコート姿でシャーリーは本日も機嫌良さそうな足取りで歩き始める。
かつての死神はもういない。
あの日、あのとき、救いの手を少年が差し出して、シャーリーが握り返したとき、己の在りかたが決定的なまでに変わった
くすっと笑ったのは、ずっと前に聞いた言葉を思い出したからだ。
『シャーリー、僕らの冒険の旅は長く苦しいもの……というよりは、楽しんでばかりだ』
だから騙されたと思って、この手を取って欲しい。そんな怪しい誘いかたをされて、信じるのはきっとシャーリーくらいだろう。
だけど結果的にあの言葉は真実だった。それが分かったからこそ、シャーリーの歩調は軽やかなのだろう。
神となり、この世界から離れなくてはいけないとき、世界で一番大好きな友達が私を呼び止めてくれた。
そのときを思い出したシャーリーは、宝物に触れるように己の胸を抱きしめる。
うーん、こんなに幸せでいいのでしょうか。
ウリドラのただ一緒にいたいという願いがあまりにも強くて、嬉しくて、私はついついエグリニィとスキップしてしまいました。
ひょっとしたら、バンザイもしたかもしれません。女神になったというのにお恥ずかしいです。などと新人女神は考える。
木製のドアをくぐると、明るい木漏れ日が差し込んできた。
この花壇はトカゲであるエグリニィのお気に入りだ。好物の虫が多くおり、適度にジメついており、日なたぼっこもできる。
もうひとつ、シャーリーがお出かけするときに必ずここを通るのもお気に入りな理由だろう。
やはりというべきか、神殿から一歩出たときに「きゅい」と鳴き声がする。
右と左に目をやったとき、彼は肩にピョンと乗ってきた。
それが「おはよー!」という元気な挨拶のように思えて、シャーリーはクスリと笑う。
お、は、よ、と唇を動かすと彼は目を輝かす。それは冬眠から目覚めたばかりのときに太陽を眺めたような表情だった。
実際はこれから本格的な冬を迎えるのだが、彼の心境はさほど変わらなかったろう。
さて、肩に真っ白いトカゲを乗せたシャーリーは、いつものようにお散歩する。
普段と異なるのは一番のお友達、魔導竜がいないことだろう。なんでも果ての地まで出向いているらしく、戻るのはもう幾日かはかかりそうだ。
と、神殿から外に出て、屋根つきの通路を歩いていたとき、人の話し声が聞こえてきた。
「この国の恩恵を受けている以上、多少なりともシャーリー様を信仰すべきだ。そんなことも分からないのか!」
「だからといって祖国の神をないがしろにはできんよ。俺らは信仰を変える気はない」
うっ、込み入ったお話のようだ。
私の名が聞こえて、思わずそそくさと柱の影に身を隠す。人の身になったとはいえ、声を荒げる人たちはやっぱり怖い。
そっと覗いてみると、そこにはアリライの民族衣装に袖を通す男性と、白い鎧姿のカルティナが対峙していた。
以前、命を救ったおかげだろうか。
魔装と呼ばれるものを従えるカルティナは、高い忠誠心と信仰心を持ち合わせることになり、そのせいでアリライ国から避難してきた者たちとぶつかる傾向があった。
頭の痛い問題である。
女神として見て見ぬフリをするのはどうかと思うが、やっぱり怖いものは怖い。武力ではなく、感情的に争うのを見るのはあまり好きではなかった。
そう考えていると、男性は白髪混じりの頭をぼりぼり掻いた。
「あんたが敬いたい気持ちは分かる。現人神として接することのできる存在なんて俺は他に知らないからな。だが、俺たちも大事にしたいものがある」
うんうんと思わずシャーリーはうなずく。
神様というのは特別な存在らしいけど、なってみて初めて分かることもある。それは人が好きだということだ。
魔導竜が言うには、人に恋をしないと神にはなれないそうだ。これまで恋などという感情をシャーリーは知らなかったが、思わず思い浮かべた男性の姿に、しゅうと頭から煙が出そうなほど意識するようになったのは確かだ。
誰にも言えないけれど、あの眠そうな顔がいい。
他の人と違って怖くないし、なんだか可愛いとさえ思う。だから階層主だったころは、あちこち連れ回したような気がする。
おほん、という男の咳払いに、ハッとシャーリーの意識が戻る。
「つまりな、あんたと同じくらいアリライ神を敬う気持ちがあるんだ。カルティナさんなら痛いくらい分かるだろう」
うんうんとまたもシャーリーはうなずく。
アリライ神が人々から愛されていると分かり、胸の奥が温かくなる思いだった。同じ神様として誇りに思うし、あの男性を応援したい気持ちでいっぱいだ。
その意思、その思い、素晴らしいと思います!
などと言っているかのように、シャーリーは指先を「グッド」の意味の形にして彼を褒め称える。
「分からんな。守護を受けておきながら、シャーリー様をないがしろにするその気持ちが私には分からん」
しかし、そのきっぱりとした否定の言葉に、シャーリーは心の底からびっくりした。なおもカルティナがつらつらと述べる様子に、あんぐりと口を開きもした。
「女神様は偉大な方だ。心優しく、それと同時にとても繊細な方でもある。お前のその言動によって傷つく様子が私には分かるぞ。ああ、なんということだ」
まったく分かっていないじゃないですか!
そう言いたそうな表情を女神様は浮かべた。
カルティナはとても信心深いのだが、それはとってもありがたいのだが……たまにすごく面倒な人だなとシャーリーは思う。
「へえー、そんなことまであんたには分かっちまうのか」
「うむ、もちろんだ。我が主が嘆き、悲しんでいることがはっきり伝わってくるぞ」
嘆いていないし、悲しんでもいませんっ!
あまりにも的外れ過ぎて、はわわわとシャーリーは口を動かした。
なぜカルティナは勘違いしているのだろう。そもそも神を信仰するのは自由なのだ。
選ぶも選ばないも人にゆだねられており、それを不快になど決して思わない。むしろあのようにアリライの国神に厚い信仰心を見せてくれるほうがずっと好ましい。
負けてはいけませんと励ますようにシャーリーは拳を振り上げる。カルティナに文句を言う勇気は私にはないが、彼に負けて欲しくない。
その思いが通じたのか、年配の彼は深々と呆れの息を吐く。
「これだけの加護をする方だ。確かに偉大なのだろう。しかし俺はうさんくさいと思っている」
「なっ、なんだと……? もう一度言ってみろ貴様アッ!」
「何度でも言うさ。あんたの信じる神はうさんくさいとな。幾人もの厚い信仰心を持った同胞が、この神殿に訪れてから改宗している。きっと洗脳などの怪しい術を使っているに違いな……」
がんばれっ、がんばれっ、と拳を振る女性がいたことに彼はようやく気づく。
目が合うなりシャーリーはハッとして、おそらく恥ずかしい思いをしたのだろう。そそくさと木陰に隠れる様子は、どこか森のリスを思い起こす。
そうっと再び覗いてきた彼女の顔は、やはり赤く染まっていた。
とても微笑ましい様子だったが、しかし男は驚く。
朝日を浴びた瞳はまるで青空のような輝きであり、また風にそよがれる蜂蜜色の髪は高価な金細工と錯覚する。それでいて赤く染まった頬を指でなでる仕草は、どこか純朴さが感じ取れた。
なんだあの可愛い生き物は、という表情を男は浮かべる。そして、あれこそが噂に聞く女神だろうと男はすぐに悟った。
これまでに彼が目にしたことはなかったが、周囲の者たちは信じられないほど優しくて可愛いのだと噂していた。
そんな神様がいるものかと彼は考えていたが、しかし実物をこうして目にすると真実であったと言うほかない。
ただ、ひとつだけ男は文句を言いたかった。それは彼らが控えめに言いすぎていた点だ。
実際は「めちゃくちゃ可愛い」と思ったし、もっと言うなら「結婚したい」と心の底から願ってしまう。
特に信じられないのは、真っ赤になった顔を両手で覆いつつ、ちらりと見つめてくることだ。その愛らしさときたらもう……いかん、いつの間にか俺の顔がニヤついている! などと男は思う。
「うぉっほん!」
慌てて男は咳払いをする。バチンと己の頬を叩きもした。
その様子にはさすがのカルティナも驚き、彼に「鼻血が出ているぞ」と心配して言うほどであった。
「……ふっ、危なかった。だが、俺はそうやすやすと屈しはしないぞ」
「な、なんだそのフラグのような発言は。急にどうした、何かに屈しそうだったのか?」
男にとって聞きなれない「フラグ」という言葉を彼女は発する。
なぜかというと、近頃のカルティナは異国の文化を学びつつあるのだ。それは建てられたばかりの国立図書館に、古今東西の書物が収められているからであり、またカオルコという司書のおかげでラインナップのクオリティが高い。
いや、高いなどという言葉では足りない。もはや至高であり芸術だと褒め称えるべきだ。
なにしろあれがまずい。あろうことか男性と男性の恋愛事情を書き綴ったものは、その、決して口にできないが素晴らしいのひとことだ。朝から晩まで読み耽るだけの価値が十分以上にある。対価を求められたなら金貨をばら撒いても構わない。
そのような腐った……いや、高尚な趣味により、異国の文化に慣れつつあるカルティナは「フラグ」などの単語にも通じているのだ。
本来ならば異国の書物を複製するという写本技術に驚くべきだろう。もうひとつ、高い翻訳レベルもそれに準ずる。
当初、カオルコ秘蔵の書物を面白半分でウリドラが翻訳した。製本も魔術の一環だ。
まだまだ娯楽の少ない土地である。カルティナ、そしてダイヤモンド隊の女性陣がそれを面白半分で読み、どハマりしたと言っていいだろう。端的に言って大興奮した。きゃあきゃあと騒ぎもした。
あほらしいと言い、ウリドラはさっさと離れたが、彼女なくして物語の続きは楽しめない。
極上スイーツのような娯楽を知った女性たちはとても飢えており、涙ながらに訴えかけて、ウリドラの雑務をすべて肩代わりするという涙ぐましい交換条件で、ようやく続刊が安定しつつある。
カオルコも問題だ。気まぐれのようにふらりと訪れる不思議な存在で、この国に常駐しているわけではない。
そしてウリドラもまた、この名もなき国にいない。なんでも北の地に赴いて、伝説の鍛治師とやらを探しているそうだが……。
そこまで考えたときに、ぶんぶんとカルティナは頭を振り、余計なことは思考から追い払った。
危ない危ない。
対峙する二人は、そんなことでも考えていそうな様子でお互いに汗をぬぐう。
先に口を開いたのは、年配の男性だった。
「そ、それで、カルティナ殿、信者になると女神様と話すことができるのか? 別に興味などないんだがね」
「いや、彼女は人と話せない。一緒に散歩したり、お買い物をしに行ったりする程度だな。案外とそそっかしくて、私は放っておけないのだ」
そう言い、カルティナは白い歯を見せて「ははは」と笑う。それを陰で聞いているシャーリーは、にこーっとすごく嬉しそうな表情になった。
あれはまずい。あの表情はだめだ。
素足の覗くサンダルで、るんるんと機嫌良さそうに足踏みする様子を見たら、こちらの顔まで勝手に笑顔になろうとする。
男はありとあらゆる表情筋を引き締めて、しばらく仁王像のような表情となった。
そんな彼の心境にまるで気づけないカルティナは、不審そうな顔つきで己の短い髪をくしゃりと掻く。
「まあ、いい。宗教というのは自由だ。私がとやかく言うことではなかったな。さっさと帰れ」
彼と言い争うよりも大事なことを思い出したカルティナは、早々に話を打ち切ろうとした。
最近では保温性のポットもある。店で温かい紅茶を淹れてもらい、そして図書館で楽しむとしよう。そうカルティナが算段しつつ身をひるがえしたとき、彼はカッと目を見開く。
「なぜそこで諦めるんだ!」
「…………え?」
ふりしぼるような大声に、カルティナとシャーリーは驚いた。
諦めるもなにも、自分が改宗を拒んだだけではないか。そう言いたくとも彼の目は真剣であり、心から屈したがっている様子にまた驚く。
そうなると……逆に腰が引けてしまうのは人の性だろう。
釣りというのは逃げようとする魚を釣るのが楽しいのであり、向こうから意気揚々と陸に上がってきたらものすごく気持ち悪い。
カルティナは魔族のようなものだが、そのあたりの感覚は人間とあまり変わらなかった。
「あ、いや、考えてみると入信希望者は多くてだな。無理して入る必要はなかった。いやー、はは、すまないな、時間を取らせてしまって。ではさらばだ」
早口で畳み掛けるように言った。
これならば会話を断ち切れるだろうとカルティナは踏んでいたのだが、敵もさるもの。いや、この場合は味方なのか? 少しばかり複雑な関係になりつつある男は、がしりとカルティナの腕を掴む。
「なぜ急いでいるのだね? まるで私を改宗させたくないようではないか」
「くっ、しつこいな、貴様は!」
あっという間に立場が逆転した。
少しでも腰が引けると相手はつけ込んでくる。まるで実戦さながらの様子だが、実際は単に勧誘がこじれただけである。
また、一方のシャーリーはというと、国神をあっという間に見限ろうとする姿を目の当たりにして、とても複雑な思いだった。
結局、二人は「改宗したいなら窓口まで勝手に行け!」「ああ、そうさせてもらうさ! 明日からよろしくな!」などと喧嘩別れのような権幕で離れることになった。
ちなみに信者になったところで与えられる仕事は一切ないし、特権もとくにない。
シャーリーはそこいらをウロついているので、入信せずとも好きに声をかけてもいいし、一緒に遊んでも構わないのだが、なぜか信者の数は日に日に増えつつあった。
さて、これがアリライ国にとって悩みの種である。
なにしろ戦争の真っ只中である。
老人や子供を新興国に送り出せるのは食料面など様々な点で有益なのだが、はためからは武力とまったく異なる方向でアリライ国を呑み込もうとしているように見える。
もちろんシャーリーやウリドラを始め、そのような意図などまったくない。むしろ勧誘活動などまともにしていないし、一番頑張ったのは神殿を建てたリザードマンたちだろう。
そんな彼らは、ことあるごとに「良い仕事をした」という表情で神殿を眺めているし、参拝に向かう者たちを見て笑顔になっている。
残念ながらリザードマンの表情は極めて分かりづらいため、真顔でじーっと見つめてくる得体のしれない魔物だと思われているらしい。
ただ、シャーリーがテクテク歩いていると、きゃあーという子供たちの笑い声がする。目をやると大きなリザードマンと子供たちが遊んでおり、子供には恐ろしい存在だと思われていないと分かった。
そんな光景を見てなぜか嬉しくなり、シャーリーの歩調はさらに軽くなる。
狭い裏路地はぐねぐねと折れ曲がっており、視界が悪いから誰が現れるか分からない。だから子供たちが「シャーリー様」と言って、駆けてきてくれるところを想像してしまう。
るんるんと浮かれるような歩調になっているのはそのせいだ。
と、ポストや鉢植えなどを眺めていたとき、白いヴェールのように色のついた風が吹き抜けていった。
――……コオウ。
神とは特別な存在だ。
突如として、視界のすべてが黄金色の砂漠に変わっても、シャーリーはさほど動じなかった。
早いものでもう年末ですね。
今年の年末年始は寒くなりそうですが、お身体に気をつけてお過ごしください。
みなさま良いお年を!




