第34話 秩父めぐり旅情編①
ちゅんっ、ちゅんっ……。
朝を迎えると、部屋はまだ薄暗い時間だった。
天気予報によると今日は一日中晴れるらしい。僕にとっては何年ぶりかの国内旅行で、のんびりと景色を楽しめることだろう。
ふと、ひどく柔らかなものに包まれていることに気がついた。
むにゃりとした感触と、ぽかぽかと温かい人肌のもの……。少しだけ汗ばんでおり、何故かもっと嗅ぎたくなる匂いをしている。
――なんだろう、これ。
ぼやんとした思考で考えるものの、エルフの少女を抱きしめているとは思いづらい。
ほんの少しだけ甘い香りを漂わせる、すべすべとした感触のもの。ひどく触れ心地がよく、その正体を知ろうとゆっくり瞳を開く。
あ、なんだろう、綺麗な色の……。
ぎっし、と僕は凍りつく。それはもう漫画のように硬直したのは、この柔らかくて温かいものの正体にようやく気づいたからだ。
慌てて身を離そうとしたのだが、するりと女性の腕に絡みつかれてしまう。
吸い付くような肌と言えばよいのか。首筋に巻き付いた腕はやわらかく、思わずゾクリとするほどに艶かしい。さらに奥へと顔を埋めることになり、布団の中では同じように艶かしい脚からも巻きつかれる。
ぎゅううー、と全身を黒髪美女から抱きしめられてしまった。
そ、そうだった……昨日は魔導竜とも一緒にあの洞窟で寝たのだから、こうなる事も予測をしておくべきだった。いつものんびり目覚めていたから忘れていたけど、初めて日本に来た者は裸なのだった……!
「あっ、ちょっと、なにしてるのっ! ねえっ、ちょっと……!」
背後にいるらしき少女へと「んーんー」と声にならない声で救いを求めるが、美女は寝ぼけていても竜としての怪力を持ち合わせている。がっしりと全身を拘束され、逃れようと身を動かすとひどく女性的な艶かしい声を魔導竜は漏らす。
そのような声になどまるっきり免疫のない僕ら二人は、顔を真っ赤にして互いに見たことのない表情を浮かべた。
「んーんーんーー!(ま、マリー、どうしよう、詰んだかもしれない)」
「やぁだっ、諦めないでっ! いったん布団をどかすから!」
「んんんーーーーっ!(ダメダメっ、それは絶対駄目だっ!)」
ばさっ!
布団がめくられて全てが太陽の光に包まれると、ちょっとした惨事が僕の身に起きた。
ぐうぐうと気持ちよさそうに美女は寝息を響かせ、ふとそれが止まる。
仰向けに寝ていた彼女は己の身体を見下ろし、さして興味無さそうな表情を浮かべてからムクリと身体を起こす。んーーっ、と大きな伸びをすると背中の筋肉は健康的に盛り上がり、それから窓の外の光景を見て瞳を大きく開いた。
「おおっ、これが現の世界! ふむ、ふむ、万物の形態がまるで異なる。時間の流れも……ははあ、それでカズヒホの姿形も成長しておるのか。おおよそ予測通りじゃが実物を見ると……いやはや驚かされるのう」
からからと笑いながら何やら言っているが、僕にとってはそれどころじゃない。こちらの様子に気がついたらしき魔導竜は、呆れたような声を発した。
「ほれ、二人して何をしておる。仲良きことは結構じゃがなぁ……そのように朝っぱらから抱き合うと、今のわしにとっては目の毒であるぞ」
あ、そういえば旦那さんは遊び歩いているんだっけ。なんて魔導竜の家庭事情は詳しくないのでコメントは差し控えよう。
対するエルフの少女は赤い顔をし、ふすんっと鼻息をひとつ放つ。可愛らしく眉を釣り上げた表情をしているが僕には見ることは許されない。上半身を起こし、正面から少女のお腹に抱えられている格好なので、僕は耳まで真っ赤にしているのだ。
「どっ、どっちが目の毒ですかっ! はっ、はやくそこの服を着てくださいっ!」
しっかと頭を抱きしめられているけれど、できれば離してくれると助かるかな。少女の柔らかいお腹に顔を押し付けているのも、けっこう刺激が強いと気がついて欲しいんだ。
んー? と竜人は小首を傾げ、それから近くに用意してあった服へと目を向ける。ぴらりと興味なさそうに衣服をつまみ、それから「仕方ないのぅ」とボヤいてから、のろのろと着替えてくれた。
おかげでようやく少女から解放され、新鮮な酸素を肺へ送ることが出来た。
ああー、朝からびっくりした……。
などという安堵はまだ早かったらしい。
「こっち側はどうするのじゃ。まるで収まらぬぞー」
お尻をこちらへ向けられると、ぶうと吹き出しそうになった。
ズボンは尻尾にひっかかり、桃のような形をしたお尻が半ばまで見えて……ぱちんと少女から目をふさがれてしまった。
当たり前だけどキッチンは壁向きに設置されているので、振り向かないという条件付きで僕は解放された。
そういうわけで予定通りおにぎりをせっせとこしらえている最中だが、どれくらい必要なのかは予測しづらい。まあ僕はおにぎり作りに集中し、二人のガールズトークを聞くとしよう。
どうやら魔導竜はマリーにも言葉が伝わるよう共用語を使っているらしい。いままでも僕の部屋にはエルフ語、日本語と流れていたが、本日から3つ目の言語が流れることになる。
そう考えると僕も器用だなと思うよ。どうしてこれで英語などを覚えていないのかと不思議になる。
おにぎりを海苔に包んでいるとき、背後からマリーの声が響いた。
「あっ、尻尾と角が……! 本当に変質できるんですね」
「そう言うたであろう。馴染みのない言葉と思うが、わしの尻尾や角は魔粒子というもので純粋なエネルギーに近しいのだ。ふむ、せっかく用意してくれて悪いが、動きやすい服に変質させてもらおう」
……あれー、ここは日本だよね?
振り向かない約束だけど、どうもファンタジー世界の会話が気になって仕方ない。おにぎりなんかを作っている場合なのだろうかと小首を傾げてしまうよ。
「ええと、マリー、尻尾と角はどうなったの?」
「あ、あー、凄い……本当に洋服になっちゃった。あっ、大丈夫よ、ぜんぜん見えなくなったわ」
そ、そう。なら良かったよ。
ここが江東区であることを忘れてしまいそうだけど、とりあえず旅行をキャンセルせずに済んだのは助かる。今日の小旅行はマリーも楽しみにしていたからね。
さて、おにぎりについては具の種類を多めに用意することにした。うめぼし、昆布、ふりかけ、ツナマヨ、おかかとなるべく味に飽きない配慮をしている。
少女から許しを得たので振り向くと、壁にある時計は6時半になろうとしていた。移動は3時間ちょっとと考えているので、ぼちぼち出発する時間か。
「よし、それじゃあ出発しようか。みんな忘れ物は無いね?」
「「おーー!」」
窓の外を眺めていた二人は、わっと元気に駆け寄ってきた。
それでは秩父方面に行きましょうか、魔導竜さん、エルフさん。
手早くアルミホイルに包み、それから水筒を持って僕らは慌しく玄関へと向かう。がちゃりと扉を開くと外はずいぶんと明るく、ぽかぽかとした春の陽気を楽しめることだろう。
外に出ると歯磨きをしながらゴミ捨てをしている男性が目に入った。寝癖をつけてはいるが、その男性とは一度食事に行ったことがある。同じマンションに住む一条夫妻の旦那さんだ。
「おはようございます、徹さん」
「ああ、おはよ……んうっ?」
るんるんと鼻歌交じりの妖精じみた少女マリー、そしてすらりとした長い足を見せ付ける美女、魔導竜を見て徹さんは完全フリーズした。
「あ、おはようございます、リョコウに行ってきます」
マリーはぺこりと丁寧に頭を下げ、そして黒髪美女はひらひらと手を振る。
「げほげほっ! 行って、らっしゃい……」
つられたように手をふりふりとし、徹さんは送り出してくれた。
駐車場はすぐそこで、いつものように助手席にはマリーを、そして後部座席には客人である魔導竜を案内する。
そういえばマリーを初めて車に乗せたときには随分と怯えていたことを思い出す。しかし流石は魔導竜と言うべきか、きょろりと車内を見渡すだけでおおよその把握をしたらしい。
どすんと席へと腰を降ろし、そしてバックミラー越しに鷹揚に頷かれる。
さて、普段は音楽をかけないけれど、記念すべき初旅行となれば意外にも僕のテンションも高いらしい。用意していたCDのスイッチを押すと、懐メロにも近しい昭和の音楽が流れ始める。
日本旅にこそぴったりの曲であり、今でもテレビに流れることもあるものだ。
「わっ、雰囲気が出るわっ! んー、このしっとりとした雰囲気が日本って感じ!」
「え、もうそこまで分かるの? まあとりあえず日本めぐりの旅、第一弾に出発しようか」
「「いえーい!」」
うわ、女性が2人揃うとノリがいいなあ。
女性ボーカルによる独特の雰囲気が車内へと満ち、そして車はゆっくりと駐車場を後にした。




