第32話 二回目のアニメ鑑賞ですよ
ちらりと時計を見れば、もう夜の9時になろうとしている。
僕の視線につられるように、エルフの少女もそれを見上げると腰までの銀髪がさらりと揺れた。いくぶんかお風呂で火照っていた身体は落ち着き、いまは互いにテーブルへと腰掛けている。
きょとりとこちらを振り向いた薄紫の瞳は、日本人からかけ離れた幻想的な色をしていた。それどころか耳はやや後ろへと向かって長く伸びており、人類からもまったく異なる存在なのだと分かる。
彼女は空色の可愛らしいパジャマを着ており、何かを期待するような瞳で僕を見つめていた。
いや、それは僕も同じだろう。彼女と同じくらい何かを期待し、そして何か合図があったわけでもなく顔を寄せ合う。
テーブルの上で僕らは吐息が混ざるほどの距離となり、互いの手は同じ場所……テーブルにあった一枚のレンタルビデオへと乗せられた。
彼女と共にすぐ夢の世界へ旅立っても良いのだが、せっかくの金曜の夜だ。となれば多少夜更かしをしてでも映画を観たくなるものだろう。
青色のパジャマを着たエルフさんは、いそいそとベッドへ腰掛ける。それを追うように隣へ腰を落とすと、にこりという笑みがすぐそばにあった。
そういえば少女はいつも僕を見ている気がする。……いや、もしかしたら僕も同じように見続けているのだろうか。
まあ、見飽きるなんて出来ないほど綺麗な子だからね。
どうやら僕は世話をするのが好きらしく、少女は世話をされるのが好きらしい。
腰の後ろへとクッションを当てると嬉しそうに微笑まれ、紅を塗らずとも鮮やかな唇からは真珠のような歯が覗く。愛らしい表情を見せつけ少女は唇を開かせた。
「別のアニメ作品だなんて楽しみだわ。それにしてもどうして金曜の夜は映画を見るのかしら」
「うん、たぶんだけど僕の場合は週末のワクワク感を高めたいのかもしれない。そういうの分かるかな?」
「ええ、分かるわ。週末前夜というのは特別なのでしょう? 私だってもう大人だというのに子供みたいにはしゃいでしまいそう」
んっ? 大人、なのかな……?
子供のように足をパタパタさせているし、外見や内面、それに行動もまるっきり幼いけれど……ま、まあ黙っておこうか。
「さて、マリアーベルお嬢様。そろそろ開演をしてよろしいでしょうか?」
「ええ構わないわ。あなたも今夜は特別に私の隣へ腰掛けることを許してあげましょう。週末という喜ばしい日なのですから」
おや、だいぶ楽しんでくれているらしい。
先ほどよりも彼女は身を寄せて、ぴたりと肩を当ててくる。パジャマからはうっすらとした鎖骨が覗いており、お風呂上がりの香り、そしてわずかに女の子特有の甘い匂いがして僕の頭をクラリとさせる。
春用のパジャマはやや厚みに乏しく、瑞々しい感触が伝わりやすいせいもある。
さて、照明をダウンライトだけにすると部屋の色彩は薄れてゆく。僕ら、そしてテレビだけが存在することとなり、その本格的な雰囲気に少女はパチパチと拍手をしてからアニメは始まる。
真っ青な画面が広がった。青空よりも強いその色は、薄暗い室内を染めてしまう。
この始まりの瞬間が一番好きかもしれない。物語の表紙を開き、そして目の前には僕らの知らない世界が広がってゆく瞬間が。
今回は、少しばかり緊張感のある始まり方だったろう。
登場したヒロインは沈んだ表情をしており、辺りは僕らの部屋のように暗い。
古き良きと言うべきか、解説の少ないかわりに感情面へと訴えるアニメだ。このヒロインと周囲の動きだけで、エルフ語で解説せずともどのような状況か少女にも伝わる。
ヒロインの置かれた状況にマリーは身を強ばらせ、思わず僕の袖を掴む。やがてヒロインを狙う影が動き……そして事故は起きた。
「あっ……!」
ばっと身を起こすほど少女は驚き、そして食い入るよう画面を見つめていた。
事故は終わりではない。ここが始まりなのだと告げるように映画のタイトルが現れ、その演出に少女は瞳を輝かせた。
「わっ、鳥肌が立って……本当に絵物語の世界だわ。このあいだもそうだったけれど、音楽がすごく綺麗で胸が締め付けられるよう」
ああ、それにはまったくの同感だ。子供のころから何度となく聞いたものだけど、たぶん胸を打つのは流れた回数のせいじゃないとは思う。しかしその感情を言葉にするには難しい。
「たぶん、そうね……物語が含まれているわ。音楽の中には言葉や文字ではない物語があって、だからきっと忘れられないの」
ぽすんと僕の胸へと頭を乗せ、物語に魅了される子供のように画面を見つめていた。
さて、エルフは少しだけ驚かされたろう。あれほど緊張する始まり方だったというのに、主人公が現れると雰囲気をガラリと変えてしまうのだ。
少年にしてはエネルギーに溢れており、それに手を引かれるよう少女も笑みを増やしてゆく。まるで初めて笑い方を知ったかのようであり、その愛らしい表情にマリーは頬を緩ませる。
前作と同じように――いや、こちらのほうが古い作品だったか――魅力的なキャラクターで溢れてゆき、不可思議な乗り物など人の想像力をとことん刺激してくる作品だ。
以前のアニメが子供向けだったとしたら今回のものはジェットコースターと言っていい。何しろ少年は小さな身体に見合わぬエネルギーを持ち合わせ、危険な状況になっても気にせず突き進む。
「ひゃっ、あっ、ああっ!?」
このような演出に免疫など無いマリーは、もう完全に僕へとしがみついていた。木登りをするような体勢で、どくどくと少女は胸を揺らしている。
「ああ、もう、この子はもうすこし落ち着いてくれないのかしら……あっ、あっ、じっとしてなさい!」
そのとき、少年の足場がごっそりと無くなってしまい……。
ヒロインとまったく同じ反応をマリーはした。口元は強張り、ぎゅうっと全身で僕へと抱きついて息さえ出来ない。
ほおうっ、という安堵の息さえもぴったりとシンクロしており……申し訳ないけれどね、微笑ましくて頬が緩んでしまうよ。
ジェットコースターという表現は、派手な演出だけでなく物語にも及んでいる。今までも緩急の差は激しかったが、佳境ともなるとさらなる演出が待っていた。
ぴったりと密着しきった少女からも緊張の気配が伝わってきて、もうすでに抱き枕にされている気分だ。柔らかな身体を押し当てられると男性として苦悩するところはあるが、どうにか要所だけをナレーションのように解説する。
食い入るよう見つめる少女は、やがて物語の終焉を見た。
それは見事に悪者たちの思惑を破壊するもので、待っていたのは暖かいものであり、そして神秘的なものだった。
「はああーー……っ」
安堵の息を漏らした少女をいたわるよう、優しい音楽が部屋に流れる。
少女の頭はずり落ち、ころんと僕の太ももの上へと乗る。薄紫色の瞳はやや放心しており、それでいて口元には笑みが浮かんでいるという何とも形容しづらい表情だ。
「どうだった、マリー?」
「ええ、申し訳ないけれど日本最高と言いたくなるほどよ。まるで財宝を見つけたように、何かを得た思いをしているもの」
ああ、その気持ちは分かるな。
ごろりと少女が寝返りをうつと、真下から見上げられる格好になる。まだ部屋の照明をつけるには少女は物語の中にいる。こちらに戻ってくるまでもう少し待ってあげようか。
「そうね……前の作品よりとても派手で、うまく言えないけれど……やっぱり素敵だった。人も乗り物も、一生懸命な男の子もあなたみたいで、すごく可愛かったの」
「ええ、そうかなあ。僕には一生懸命っていう言葉は似合わないと思うけど?」
答えると、くつくつといかにも可笑しそうに少女は笑う。
それから指先を伸ばし、ちょんと僕の鼻を押してきた。
「どうかしらー。あなたは気の抜けた顔をしているけれど、私からは違って見えるものよ。ただ、そうね……ひとつだけわがままを言っても良いかしら?」
口調は楽しげに、けれど瞳は澄んだ色をしている。
やはり大人なのかもしれないと思ったのは、彼女の本当の望みを聞ける機会がそれほど多くないと気づいたからだ。ならばあの少年のように、僕も少女の手を引くべきだ。
「気にせず言ってごらん」
思っていたよりも優しい声が出てしまい、二人して目を見開くことになった。
ああ、違うんだと言い訳をしかけたが、それは少女の指先に止められる。人差し指から唇へと触れられ、そしてマリーは僕と同じくらい優しい声で囁いてきた。
「私、あなたと冒険をして見知らぬ世界に行きたいわ。あの地下迷宮だってそう。映画を見たせいで、好奇心が止まらないの」
「分かったよ、マリー。僕が必ず君を連れてゆく。見知らぬ世界を堪能するのなら、もちろん釣りスキルは必須だけど付いてきてくれるよね?」
少女はにこりと笑い、そして首筋へと抱きついてくる。それから「絶対に嫌っ!」と嬉しそうな声で拒絶されてしまった。僕も笑い、そして華奢な身体を抱きしめてしまう。
柔らかく温かい、エルフである少女の存在感に僕の胸さえも高まるのを感じていた。
その日、もう一つの物語も終わった。
布団のなかにはまるで眠りについたような体温が伝わり、少女の瞳も半ばほど夢の中へと沈んでいるのが分かる。
絵本の主人公である黒猫は、ついに数々のおかしな出来事にあいつつも目的地へたどり着いたのだ。何日も眠りによって中断されていた物語だけに、あと少しだけと少女は無理をして起きていたらしい。
おしまい、と囁くと少女の瞳はこちらを向いた。
やはり瞳は眠たげで、嬉しそうに微笑んでからとろとろと綺麗な瞳を閉じてゆく。
夢の世界へと旅だった彼女を見送り、そして絵本は閉じられた。
枕元にはいつものようにお弁当が並んでいるが、今夜はその中に2つほど少女の物が混じっている。
エルフが初めて日本でお買い物をした桃味のジュース。そして店員さんからもらった飴玉の袋だ。
まったく、微笑ましさに僕の頬は崩壊してしまいそうだよ。
音を立てないよう静かに絵本を置き、そして布団を肩までかける。
少女の温かさは僕にまで眠気を伝染させ、あくびを漏らす間もなく柔らかな手足は抱きついてくる。彼女はことあるごとに「あなたは私を眠くさせるわ」と言っているが、一体どちらがと思わせるよ。
むにゃりと頬を押しつぶして乗せる少女に、もう一度だけ僕は微笑んだ。
おやすみなさい、エルフさん。明日は温泉だからね。




