第246話 幻想世界の祝勝会①
僕、マリー、ウリドラが、揃って見つめている先には、魔物図鑑を手にする女性がいる。
彼女は第二階層で猛威を振るった元階層主であり、そして今は女神見習いという変わった立場にあるシャーリーだ。かつては「死神」と呼ばれていたのに、水色のもこもことした可愛らしいパジャマを着ている。
周囲は薄暗い間接照明に包まれた部屋であり、僕らの部屋であり、壁を見上げればもう就寝しなければならない時間だ。
焼き鳥屋で夕食を楽しみ、これから皆と眠りにつこうと考えている。
さて、その注目を集めている彼女は、むむむと眉間に可愛らしい皺を浮かべて集中していた。見守る僕らとしては邪魔になりそうで声をかけられない。心の中ではエルフさんも応援しているらしく、そうと分かるほど僕の腕をぎゅっと掴んでいた。
と、最初の変化が訪れる。
彼女のパジャマ、そして蜂蜜色のウェーブがかった髪が少しだけ無重力のようにふわりと浮く。
そこからはあっという間で、身体の輪郭がブレたかと思えば、そのままふわりと女性の身体は浮いた。
思わず「おっ!」と声が出てしまう。派手に光るような演出なんて無いけれど、色彩や布に至るまでの全てが半透明となり、重力からの束縛を失くす様子などあまりお目にかかれない。
僕とマリーは好奇心を覚えて、思わずシャーリーに向けて手を伸ばした。
「わあ、見えるのに触れないわ! どこかで聞いたけれど、見えるということは光を反射しているのであって、存在しないことは物理的にあり得ないそうよ」
「ん、そう聞くと不思議だね。これはつまり物質では無いのか。うーん、気になる」
などと髪の毛などを触っていると、彼女の青空色の瞳はわずかに横へ逸れ、そして僕の指先にはかすかな感触が伝わってくる。それはさらさらの髪であり、とても触り心地の良いものだった。
どうしてシャーリーがじっと動かないのか不思議だけど、僕にとってはその感触のほうが不思議だ。霊体であっても集中すれば感触も与えられるのだろうか、と調べてしまう。
だから頭の上を撫でているうち、ゆっくり彼女の頬が染まってゆく変化になど気づけない。
あれっ、どうしてウリドラが「あざといのう」という顔をしているのかな。
それはともかく、何となく僕にも分かってきた。生身を持ったシャーリーは、自在に存在を変えられるらしい。霊体と生身を切り替えるには簡単な儀式が必要で、手にした魔物図鑑がその役割を担っているのだろう。
開かれたページを眺め、なぜか僕はまるで見当違いのことを呟いた。
「少し前に報告があったね。宝物殿から不思議なものが見つかったって」
「ええ、確か魔物を制御する部屋があったそうね。古代の技術は難解で、活用できなさそうだってドゥーラが嘆いていたわ」
第三層を制覇した僕らとアリライ国の精鋭たちは、数え切れぬ魔石や財宝を手にしている。鑑定途中ではあるけれど、これは国の景気にまで影響をする額であり、発見当初は誰しもが浮かれていたほどだ。
そして先ほどの「不思議なもの」についての情報が、司令役であるドゥーラから伝えられた。重要な情報ではあったが、彼女は「どちらにしてもあなた達は気づくだろうから」という前置きで、マリーへと鍵を手渡しながら教えてくれたのだ。
なんでも宝物殿のさらに奥、巧妙に隠ぺいされた部屋には魔物図鑑と思わしきものを手にする像があったらしい。
もちろん僕は目にしたことはない。だけどシャーリーが開いたままの図鑑にはそれらしきスケッチが描かれており、おかげで突飛な発想に至れた。
「うむ、古代人は魔物制御の特性を持つシャーリーに目をつけ、魔術の英知により力の一部を模造した。そもそも霊体を物理的に模倣したのは愚策じゃが、わしらにとっては都合が良い」
一歩進んだウリドラは、黒いネグリジェで身を包んでいる。女性的な美しさをする太ももを惜しげもなく晒し、幾何学的な模様をする刺繍で飾っていた。
「使わないのならば有効活用をせねばな。人が持っても厄災にしかならぬのであれば、シャーリーが美味いものをその舌で味わったほうが良い」
それから同色の瞳で「じゃろう?」とシャーリーに笑いかける。
ぱたんと魔物図鑑を閉じた彼女は、その言葉に大きくうなずいた。
その確信した顔つきは、きっと先ほどまで日本の誇る焼き鳥を食したおかげで――あれっ、「古代」とか「英知」とか聞こえたけど、食事を楽しむだけに使って良かったのかな――まあ細かいことは気にしないでおこう。
つまり、シャーリーは霊体と生身の切り替えもできるようになった。
これまでも集中をすれば生身のようになれていたけれど、彼女の表情を見るにずっと楽で、さらに味わいまで楽しめるようになったのは大きいらしい。
まあ、シャーリーの美味しい顔を見れるのなら古代の英知を使い潰しても別に気にならないかな。
魔物を自在に使役するなんて、おそらくは凄まじい力として古代人の目に映っただろう。しかし最終的には食事を美味しく楽しむ為に活用されるのだから、時代の流れというのは分からないものだ。
戦争などの歴史をひも解くと、人を殺すためだった道具たちは、時が経つと人々の生活へ役立つように変化をしている。
最終的に落ち着く形は、現実世界でも幻想世界でも大きく変わらないのかもしれない。
そう思いながら、ふわりと舞い上がり、僕の肩を掴むシャーリーを見あげる。
「その姿なら、二度寝しなくても皆を運べるから良いね」
「知っているのよ。あなたは二度寝でも三度寝でも全然平気だってことに。ごろんと横になるだけで眠れるなんて、世の中の不眠症な人に分けてあげたらどうかしら」
いやいや、分けれるなら分けてあげたいし、ついでに眠そうな顔もどうにかしてくれないかなぁ。そう答えたのにマリアーベルから「それは気持ち悪いから嫌」と、ばっさり切って捨てられた。
おかしいな、眠そうな顔をどうにかしてやりたいと常々言われていた記憶があるんだけど。
と、指先を少女から握られる。
そして引き寄せられる先は、僕の愛する眠り心地のとても良いベッド。
ふかふかの布団を彼女は開いて、そのまま身を滑り込ませる。その間もずっと指は握られており、いらっしゃいと招かれた。
ちゃんと干した布団は、肌への触れ心地がとても良い。
秋の後半ともなるとマリーの素足が少しだけ冷たい。冷え性なのかなと思いながら彼女の足に触れて温めていると、僕の腕は枕にされ、長いまつ毛でゆっくりと瞬きをする紫水晶の瞳が待っている。
少しだけ冷たい指先で鼻をすりすりと撫でられ、覗き込む瞳は楽しげなものへ変わった。
「こう見えて、あなたの顔には愛着があるの。寝坊助さんの顔が好きな人だって、世の中に一人くらいはいるものよ」
そう囁き、変わり者のエルフさんは、のしりと身体を預けてくる。
間接照明はもう少し暗くなり、それは彼女が顔を近づける仕草によるものだ。吐息ごと触れ合い、そっと互いの背中へ手を伸ばす。
布団のなかではもっと温かくなろうとつま先が触れてくる。
重ねられた胸はわずかに女の子としての柔らかさを伝え、高鳴りさえも伝えてくる。と、薄目を開けたマリーは、小さく呻いた。
「う……」
視線を追って振り向くと、そこにはまじまじと覗き込むシャーリーがおり、まったく同じ仕草で僕らは瞬きをした。
「前にも伝えたかな。人はこうやって好きな人に挨拶をするんだよ。本当は誰にも見られていない時に、だけどね」
お休み前の挨拶くらいは見逃してくれると嬉しいな。そう笑いかけると、意思が通じたのか「理解しました」と指先でOKマークを見せてくれた。
その僕らに向けて、背後からたしなめるような声がかけられる。
「今夜は絵本はお預けじゃぞ。夢の世界の祝勝会に、たっぷりと遅刻をしておるからな。無論、北瀬の献身的な働きぶりには、わしから感謝の言葉を伝えよう」
「ああ、やっぱり屋台で働かされるのか。不思議なことに、その一言で眠さが無くなりそうだよ」
たわけ、と頬を押されてマリー側を向かされる。
彼女にはこだわりがあり、寝つくときにネグリジェでも衣服が邪魔なのだ。そして向いた先のエルフさんも、ベッドの枕元に置かれたものを指先で数えていた。
「醤油もあるし、ソースもあるし、マヨネーズもある。準備はばっちりね」
今度は眠気の無くなる光景がお出ましだ。こんな調味料に囲まれて眠る人は、いったいどんな夢を見るのだろう。
決まっている、きっとたくさんの料理を汗だくで作り、もっと作れとせがまれる夢だろう。もちろん夢の中なのだから僕はひとくちも食べられない。
ぎしりと背後に体重がかかり、今度はウリドラの手足から抱かれる。首筋に息がかかって、わずかにくすぐったい。
抱き枕というものがあるけれど、まるでそれへ任命されたよう彼女は遠慮せず身を重ねた。
「くあっ……! ぬしからは相変わらず眠くなる空気が出ておるのう。まったく、ただの人間のくせに生意気じゃ」
くああ、と再び彼女は欠伸をする。手足から柔らかく絞めつけられ、ぶるりと気持ちよさそうに身体を震わせる。まるっきり抱き枕だけど、目の前の少女もいつの間にやらうつらうつらと船を漕いでいた。今日はたくさん食べて、お酒も飲んだのだから仕方ない。
もうちょっとそばにおいで。
そう抱き寄せると、彼女は抵抗もせずにころんと頭を乗せてきた。そしてすぐに、すぅーっと気持ちよさそうな息をする。
すう、すう、という寝息が耳に心地よい。
幾つもの呼吸に包まれて、それぞれの吐息が触れ合うほどだ。
外では少しだけ風が吹いている。
それを聞きながら、僕もまたまぶたを重くさせてゆく。
幻想世界の住人たちと折り重なるように眠りにつくのは少しだけ変わっている。けれどそれがどこか楽しく、面白く、夢を見るのも楽しみになる。
間接照明はもう少し暗くなる。
柔らかい頬への感触は、一体誰からのものだったのだろう。
ずぶりと埋まり、ふかふかで温かい陽だまりのような感触は何だったのか。
おやすみなさいと囁かれ、僕もまたころんと眠りにつく。
なぜか眠りに入る間際の感覚が、いつもより気持ちよく感じられた。
目覚めたらきっと大騒ぎするだろうけど、それは夢なのだから気にしてはいけないよ。
おやすみなさい、幻想世界のみんな。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
軽やかな楽器の音、そして流れてくる歌声たち。
それは第二階層広間で行われている催し物の調べだった。多くの強敵を倒したばかりとあり、また数え切れぬ財宝によってか熱気を遠くまで伝えている。
息づいた動物たちは不思議そうに騒ぎの輪を遠巻きに眺め、普段とは異なる空気を嗅ぎ取った。
辺りはよく晴れており、それは創造主である彼女の機嫌の良さを表している。
だからここではいつも天気が良く、豊富な水には活力が宿り、次々と子を産み落としてゆく。
数週間前、生命の循環へ加わったばかりの子鹿は、好奇心からほんの少しだけ親から離れ、草藪からひょこりと顔を覗かせる。よく澄んだ瞳をしており、生命力の躍動を示すような色をしていた。
その視界の先には、草花で飾り立てたステージや、楽器を持った人たち、そして飲み食いをして遊ぶ姿が瞳に映る。
その姿は、まるで生きることを楽しもうとしているかのようだ。
小鹿は好奇心から誘われるまま蹄を一歩ずつ前へ進める。
その直後、ダークエルフらしき女性の悲鳴が鳴り響いた。




