第138話 大正浪漫の日本庭園①
ハンドルを切り、ゆっくりと駐車場から路上に出る。
すると不思議なことに、怖い、怖い、という感情が胸に伝わってくる。もちろん僕は運転に慣れているし、怖がる要素は何もない。
つまりこの感情は僕ではなく、身体へ同居している人の感情だ。どうやら僕は可愛らしいお化けに憑依されているらしい。
「シャーリー、怖がらなくて大丈夫だよ。これは車というもので、向こうの世界の馬みたいな存在だからね」
「そうよ、一廣はおっとりしてるから速度もゆっくりだし、あくびが出るほど安全運転なの。ええと、どれをかけようかしら」
あれ、マリーも最初のころは、僕の腕にしがみついて悲鳴を上げていた気がするのに。そのような記憶はとっくに無くしたらしく、少女はどの音楽CDをかけようか吟味しているところだ。
ようやく選び終えたらしく、一枚の円盤は吸い込まれてゆく。
時計は朝の9時を示しており、窓には綺麗な青空、そしてギラついた太陽が見える。鳴り始めた音楽は、かつて少女らと見た映画のものだ。
軽快なドラム、そしてピアノによる旋律は、思わず足踏みをしたくなる。ただし、車は安全運転だけどね。
「あ、だいぶ前に見た映画だね。気に入ったのかい?」
「もちろん、私はあの監督のファンですもの。あー、私も魔法使いなのに、どうして空を飛べないのかしら」
そう言い、頬を膨らませてから少女は助手席へもたれかかる。
ただの冗談かと思ったけれど、頬杖をつき窓を見上げる様子は、どうやら本気のようだ。向こうの世界では魔術だけでなく精霊まで操れるというのに、空を飛びたくて仕方ないのは不思議なものだ。
「いやぁ、僕らだって空を飛べる魔石をもらったじゃない」
「もちろん、ルンちゃんは凄く良かったわ。ただ、私の魔術でも飛んでみたいの。ふわーっと飛べたら、きっと楽しいでしょうし」
その言葉に後部座席から身を起こし、覗き込んでくるのは魔導竜ウリドラだ。
彼女は久方ぶりの訪問という事で、先ほどまで本格的な夏を迎えた日本を興味深く眺めていた。
「ふ、ふ、魔術で飛びたいならわしが教えてやろう。圧力に潰れないよう多重結界を組み、疾風のように空を飛翔するのじゃ」
「ええーっ、そんな現実的なのは嫌よ。もっとこうファンタジーな感じがいいの」
うーん、エルフ族のマリーは十分に幻想の領域だと思うんだけどな。
明るい音楽につられるよう会話は軽快で、くすくすという笑い声が車内に響く。どうやらシャーリーも明るい雰囲気に負け、車を怖がるどころではなくなったらしい。
「まあ、こういう風に僕らは日本で過ごしているし、賑やかさはあまり向こうと変わらないだろうね。もちろんシャーリーにも楽しんで貰うつもりだから覚悟するんだよ」
ふわりと踊る透明な髪に気づき、バックミラーを眺めると彼女が現れていた。そっと僕の肩を掴んでいるのは相変わらずだけど、その表情は明るいものだ。
こくりと頷いてくる様子は「楽しみにしてます」という意味なのかな。
そういうわけで、僕らの乗る車は賑やかに錦糸町駅を通り過ぎ、街道をまっすぐ進む。平日の昼前という時間帯のせいかトラックが多く、途中のコンビニで買った飲物やアイスなどを食べていると、江戸川の堤防が見えてくる。
マリーから、あーんと差し出されたソフトクリームを食べてみると……うん、やっぱり味はしないね。まあ、代わりに憑依しているシャーリーが味覚を楽しめているのだから良しとしよう。
それと胸の奥から「信じられないくらい美味しい」という感動が伝わってくるので、僕としても楽しめるようだ。
どうやら感情が高ぶるとつい外に出てしまうらしく、ぶるると両手をわななかせ「んんーーっ!」と口を引き結ぶ。その子供のような仕草に、2人は明るく笑った。
「シャーリー、これは牛のお乳から出来ているのよ。砂糖を入れて冷やすと出来上がるの。それと彼のおじいさまは牛を飼っているわ」
どうやら日本通になりつつあるマリーは、誇らしげに彼女へと教えてくれる。もちろんアイスは西洋から伝わったものだけどね。
へええ、と尊敬する目で見られたけれど……いやいや、僕は何もしていないから。というよりも「アイスクリーム凄い」「牛の乳すごい」「飼ってるおじいさん偉い」「カズヒホすげえ」って繋がっているのかい?
うん、その構図だと完全におじいさんの方が格上だね。
「でもシャーリーの森にも動物はいるよね。ならお乳もいただけるんじゃないかな?」
「ふうむ、あそこの森は汚染されておらぬからな。味も楽しめるやもしれぬが、まだ殺生を避けるようにのう」
その何気ないウリドラの言葉に、ぱちくりと僕らは目を見開く。マリーも助手席から振り返り、友人であり師である彼女へと問いかける。
「え、汚染って何のことかしら?」
「適切な日本語が無いのでそう言うたが、造語で良いならば魔素決壊と表現するのう。かつて構築されていた古代の魔世界は砕かれ、その残滓が世界を覆っておる。ほれ、耐え切れぬほど臭い肉を食うたであろう」
思わぬ形で古代世界を紐解かれ、僕らは唖然とさせられた。
あの世界を堪能したい僕にとって、そして世界の理を知りたがっているマリーにとって、非常に興味深い物語だ。
ぱちりと瞬きをするマリーと目を合わせ、それから魔導竜へと問いかける。
「できれば教えてくれないかな、ウリドラ。あの世界は一体……」
「ふうむ、すぐに教えても構わぬが、それはあの古代迷宮にも残されておる。古文を調べ、おぬしらの目で確かめたほうが楽しめるじゃろう」
ああ、そう言われると僕らは弱いね。
謎の眠る古代迷宮。それを踏破したとき、古代の秘密を僕らは知ることが出来る。あの世界で誰も知らない物語を、僕らは紐解くことが許されるのだ。
あの水の匂いのするオアシスのずっと地下、魔石の眠る古代迷宮はなぜ生まれたのか。そして今、なぜ門を開いて活動を始めたのか。
初めて扉を開いたあの日、確かに古代の息吹を感じた。その先を、古代の物語を僕らは知りたくて堪らない。魔の時代、夜の時代、そこで一体なにがあったのだろう。
ちらりと少女へ視線を送ると、やはり全身からやる気を漲らせている。いや、たぶん僕も同じ表情をしているかな。
ぺたりと小さな手から腕に触れられると、夏の気温のせいか、少女の手は温かく感じられた。
「ねえ一廣、一緒に頑張って古代迷宮を踏破しましょう」
「うん、そうしよう。ただ、どちらにしろ僕らは迷宮に挑戦していただろうけどね」
がしりと少女と手を組むと、意外にも力強いものだった。
それはそうか、彼女は幾つもの独自魔術を覚え、そして魔導竜を師匠にしている女性なのだから。
これ以上なく頼もしい相棒に、決して迷宮踏破は無理ではないと僕は感じた。
ただ一人、そんな光景を眺めていたシャーリーは、なぜか寂しい感情を覚えていた。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、どこか遠い世界のように思えてしまう。
その理由に、彼女はまだ気づけない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
バタンと扉を閉じ、皆と駐車場を歩き始める。
まだお昼は遠いとはいえ、日光に温められたアスファルトは熱く、降り注ぐ紫外線は刺さるようだ。
夏らしいと思い購入した麦わら帽子、それと白のワンピース姿をしたエルフは軽い足取りで道を歩く。
「わっ、あつーい。やっぱり日本の暑さは湿気があるわねぇ」
「本当じゃなあ。アリライ国のほうが暑いが、向こうは乾いておるからさほど気にならぬ」
答えるウリドラはやはり薄着で、タンクトップとホットパンツ、それに膝までのブーツだ。彼女の肌にも汗が浮いており、日差しを受けてわずかに輝く。
むわりとした気温、それにあちこちから響くセミの声はいかにもな夏景色だと思える。暑い暑いと皆の声を聞きながら、ゆったりとした坂を上ってゆく。ここは江戸川の河川敷にある駐車場で、すぐに犬の散歩やウォーキングを楽しめる道が待っている。
あちこち植えてある樹木は日陰を提供し、そしてもう少し歩くと江戸川のゆったりとした流れが右手に見えてきた。陽光にきらきらと輝く様子へ、エルフ族の少女は薄紫色の瞳を細める。
「わ、川だわ。このあたりは緑も多いのね」
うーん、暑さは変わらないけれど、遠くに水辺が見えると気のせいか涼しく感じられるね。整備された土地というのは珍しいのか、憑依しているシャーリーもトクトクと心音を揺らしているようだ。
「暑いだろうけど、ここをもう少し歩くと目的地に着くからね」
「ふうむ、この暑さこそ夏という感じがして良いのう。おぬしも地下迷宮や部屋にこもらず、もう少し陽を浴びたほうが良いぞ」
そう言うウリドラは、強い日差しさえ気持ち良いのか伸びをしながら歩く。とはいえ彼女もまた地下を住まいとしており、真っ白い肌をしているのだから説得力はあまり感じないね。
そのとき、辺りを眺めていたマリーが戻ってくると、いつものように僕の手を握ってきた。少しだけ汗ばんだ指と絡み合い、ぴたりとすぐ隣を歩き出す。
白いワンピースは陽を受けて輝き、透き通るような白い肌をした手足を晒している。麦わら帽子を乗せ、見上げてきた少女の顔は楽しげに輝いていた。
「ねえねえ、これからどこに向かうのかしら?」
「うん、近所に日本庭園はいくつかあるけれど、今日は大正浪漫を感じられる所かな」
そう言い、指差した先には「山本亭」という道を知らせる看板がかけられていた。
ここは葛飾区の有形文化財であり、大正の雰囲気を色濃く残している場所だと聞く。もちろん僕も初めて訪れる場所なので、彼女らと一緒に楽しむとしよう。
道なりに歩いてゆくと、レンガ造りの古風な塀が見えて来た。ゆったりとしたカーブは敷地の外を舐めるように作られており、山本亭なる敷地の広さを感じさせるものだ。
やがて倉を思わせる趣のある入口が見え、彼女らは歓声を上げた。
それでは幻想世界の住人たちに、日本文化財を見ていただきましょうか。
ジーーという暑苦しいはずのセミの声が、なぜか懐かしい音色に変わった気がした。




