第137話 有給休暇のありがたさ
伸びをひとつする。
やはり身体は重く、だらりと無気力な伸びになった。
「んー……、やっぱり会社は休もうか。でも月曜に有休を使うと、何か言われそうで嫌だな」
月曜に休むと、まるで週末に遊びすぎてしまったみたいだ。
会社勤めに慣れたせいで、そんなところを僕は気にしてしまう。ただ、月曜に休んだことはあまり無いし、そもそも有休をほとんど使わないので睨まれはしないだろうけど。
最近、職場でも少し変わってきた気がする。明るくなったとか、話しやすくなったと同僚からよく言われる。
元々、生活するため仕方なく働いていたのだし、あまり話しかけるタイプでは無かった。しかしエルフや竜、それに賑やかな人たちと夢の中で過ごすうち、小さな影響があったのかもしれない。
まあ、悪いことでは無いか。
そう思い直し、ざぶざぶと顔を洗うことにした。あまり熱も無いようだし、もし平気そうならそのまま出勤してしまおう。駄目なら午後半休でも取ればいい。
やはりぬるい水道で顔を流しても、あまり気分はスッキリしない。
うーん、顔色はそう悪くないんだけどな。洗面所の鏡を見ると、やはり眠そうな顔が映っている。
そして後ろからシャーリーが、ぽーっとした顔で覗き込んでいた。
ふわんとした半透明な姿は相変わらずで、どこか熱に浮かされたような顔をしている。鏡越しに視線を合わせても、どこか焦点の合わない様子だ。
ああそうか、僕は日本だと25歳という大人だからね。急に10歳くらい年をとったよう見えるのか。
向こうでも、子供らしくない落ち着いた口調の時もあるけど、この姿を見るのは初めてだ……し……。
「んんんっっ!?」
ちょっと待て。
ちょっとだけ待とうか。まず落ち着かせて欲しい。
この歯ブラシや洗面台がある通り、僕がいるのは日本のマンションだ。それは間違いない。しかし、幽霊である彼女が家にいるのも、どうやら見間違いでは無いようだ。
「え、あれ、ん? どういう事かな?」
僕の戸惑いにようやく我に返ったらしく気づいたらしく、鏡越しに彼女は小首を傾げてきた。
両手の指で肩をきゅっと握り、そして口元だけ隠して僕を見つめてくる。いや、しかし、まさか…………!
なるほど、れっきとした純度100%のお化け。
それがいま、僕の部屋にいるわけか。
お化けなんていない、そう考えていた人たちはどう思うだろう。まるでサンタクロースから「おはよう」と挨拶をされたような気分だ。
落ち着け、まずは深呼吸だカズヒホ。
どうしてシャーリーがここにいるのか考えろ。
ふと思い出したのは、夢の世界で眠りについた時のことだ。彼女の膝を枕に、僕は眠ったのだが……。
「ひょっとして、僕が眠りにつく時にくっついて来たのかな?」
ためらいがちに、こくんと頷かれた。
ゆっくり振り返ると、そこには青空色の綺麗な瞳が待っており、ぱちっと瞬きをする様子はどこか小動物を思わせる。
そして何か悪いことをしたと感じたのか、彼女はみるみる眉尻を落としてしまう。
「あ、いや、注意していなかった僕が悪いんだよ。ほら、それくらい君は安心できるからね」
日本と夢の世界を行き来できることは内緒だったのに、僕はシャーリーの前で無防備過ぎた。当たり前だけど僕らのことを言いふらさないだろうし、友人として遊び回った仲でもあるからね。
ほっと安堵の息を漏らすシャーリーを見て、僕は密かに決意する。よし分かった、今日は会社を休もう、と。
先ほどから身体が重いのは、恐らく彼女に取り憑かれているからだろう。違ったら嬉しいけど、たぶんそうだ。
もしそんな状態で会社にいけば、さらなる混沌が待っている……かもしれない。
なら仕方ないね。大量に余っている有給休暇という手札を、行使することにしようか。
その前に皆へ説明をしないといけないけど……あ、さっきの様子だとウリドラはたぶんこの事に気付いてたな。
タオルで顔を拭いてから、僕はリビングへ戻ることにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「はい、申し訳ありません。体調を崩してしまいまして……はい、はい……」
深々と頭を下げ、それからピッと電話を切った。
幸いなことに急ぎの仕事は無かったので、部長は快く承諾してくれた。まあ、元気の無い声だったので、たぶん信じてくれたと思う。
くるりと振り返ると、マリーはどこか浮き浮きとした表情で、ウリドラはまだ眠いのか欠伸をし、そして……ああ、シャーリーは僕の背中にいるんだった。
戸惑い気味にマリーは唇を開いた。
「それで、大丈夫なのかしら、会社をお休みして」
「あんまり良くは無いけど、今日ばかりは仕方が無いかな。じゃあ折角の有給休暇を祝って食事にしようか、みんな」
そう言い、皆をテーブルに招く。
昨夜の野菜天ぷらも余っていたので、天丼風の味付けをして皿に並べている。それから温泉卵と海苔、そしてお味噌汁という手軽な組み合わせだ。
お休みが嬉しいのか「やった」と呟いてマリーは立ち上がり、それから軽い足取りで脇の下へ抱きついてきた。のしっと触れた身体は温かく、それから薄紫色の瞳を僕の背後……シャーリーへと向ける。
「私たちの部屋へようこそ、シャーリー。んふ、あなたのおかげで得をしてしまったわ」
んー?とシャーリーは不思議そうに天井を見上げ、それから微笑み返す。言葉の意味は分からずとも、少女の楽しげな雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
僕としても休日を喜んでもらえるのは素直に嬉しいね。
ぎこりと椅子を引き、それぞれに座る。
黒髪の女性、ウリドラも僕を覗き込みながら席についた。
「先に言うておくが、その状態はいわゆる憑依されている状態じゃ。たいした害は無いが、体力を吸われるからこまめに栄養を取るのじゃぞ」
「ああ、そういう状態なんだ。……といっても、憑依されたことなんて無いから、ぜんぜん理解できてないけどね」
まあ、それでも分かることはいくつかある。
ウリドラの言う通り疲れやすいこと、身体が重いこと、そして……。
いただきますの挨拶をし、ぱくりと甘だれの付いた野菜天を食すと、意外にも味がとても薄いことに気づいた。
「あれ、薄いな。味付けを失敗したかな?」
「そうかしら、私にはちょうど良いし、とても美味しいのに」
もくもくと頬張るマリーは、味に満足しているらしい。
みりんと醤油、そして砂糖の味付けをしたたれは、甘みが衣に絡んでご飯がとても進む。やはりウリドラは「くふうう、白米は堪らぬのうう!」と凄い勢いで食してゆく。
――となると僕の味覚がおかしいのか?
もぐりともう一口食べ、そこでようやく気づく。とくっ、とくっと僕のものとは異なる小鳥のような心音、そしてふわあっと胸から溢れる高揚感。
んん? まさかこれはひょっとして……。
「うむ、味覚も共有しておるぞ。シャーリーが味わえば、そのぶんおぬしの味覚は薄くなる。しかし彼女の体力もつくので、身体はずっと楽になるはずじゃ」
ウリドラはお行儀悪くお箸をピッと向け、そう教えてくれた。
あ、そういう事か。どおりで味を感じられないと思ったよ。なるほど、その代わりに先ほどから感じているのは、シャーリーの「美味しい!」という感覚か。
ちらりと振り返ると、口元を肩に隠して上目遣いする彼女がいた。
申し訳なさそうな表情は、僕を気遣ってのものかな?
「いやいや、せっかく日本に来たんだし、僕の分もたくさん味わって欲しいよ。さあ、どんどん食べようか」
ぱっと彼女は表情を明るくしてくれた。
言葉が通じずとも、彼女の表情はとても素直なので、何を考えているのかすぐに分かる。
食べるたびに、おいしい、おいしい、と胸の奥から感動に似たものが湧き上がり、お米粒ひとつでも丁寧に噛んでゆく。
このもちもちとした感触、それにたっぷりの甘みがたまらないらしい。
それから彼女は黄色い天ぷらをひとくち食べると、昇天するよう頬を赤くし、眉をハの字にさせていた。ほっくりとした触感といい、野菜独特の甘みといい、日本の伝統的な味付けをどうやら気に入ってくれたようだ。
「ああ、これはかぼちゃって言うんだよ。野菜のひとつで、マリーと一緒に畑を作ろうかって話をしていたんだ」
「そうそう、そうなの。このかぼちゃって、とても甘くて美味しいでしょう? だから、もし良ければシャーリーの森に植えられないかなって思っていたのよ」
もしも成功したら、かぼちゃを食べ放題になるからね。
たくさん収穫する時を思ってか、シャーリーからほわほわとした雰囲気が漂ってくる。そして握りこぶしを作り、こくっこくっと力強く頷いてくれた。
頬を赤くさせている様子といい、美味しいものを食べるとどこか子供っぽくなるのは不思議だね。
それと森の主から了承を受けたマリーも、ぱっと顔を明るくさせる。おかげで「やったあ」と両手をあげる可愛らしいエルフさんを眺めることができた。
上機嫌でルンルンと足を振り、それから僕に手を向けてくる。同じように手をあげると、ぱちんと良い音がリビングに響いた。
「へえ、完全に憑依したら他の人にも見えないのか」
「そうみたいね。ふうん、霊体というより私の精神体と同じ幽体なのかしら」
ひょこりと再びリビングへ現れたシャーリーは、知的好奇心の強いマリーにつんつん突つかれてしまった。まあ僕には霊体と幽体の違いなんて分からないけどね。
ともかく、姿を隠せるなら出掛けるという選択肢も出てくるわけだ。そういうわけで本日の遊び先を決めようか。
日本にはいくつもの娯楽があるけれど、今回はシャーリーの興味を示していた和風庭園が大きな候補だ。
「みんなは庭園に行く予定だったよね。庭といえば和風のほかに洋風の本格ガーデンもあるけれど、どっちが良いかな」
「よくテレビで見かけるガーデニングね。あれは春と秋が綺麗らしいわ」
皆の会話をシャーリーはきょときょと眺め、そして同時にわくわくとした感情を芽生えさせている。自然への関心が強い彼女は、新たな扉が目の前に現れたよう感じてるかもしれない。
ならば、これは是非とも彼女を楽しませないといけないね。
「うーん、それじゃあ間を取って、和風と洋風の混じった館を見に行くというのはどうかな?」
「ふむ! それは良い! しかし日本人はなにかと文化を混ぜて楽しみたがるのう」
ウリドラからの突っ込みは、甘んじて受けるしかないね。
まあ、ミーハーなんだよ日本人は。
和洋折衷をしたがるし、それがまた新たな文化を創ってしまうのは面白いところだけど。食もそうだし、西洋の服をアレンジして、あらたな流行を海外にもたらすのも日常茶飯事だ。
ずずっと日本茶をすすると、おいしい、と感情が漏れてくる。
うん、確かに食事をしたらだいぶ身体が楽になったな。これではズル休みかもしれないけれど、今回ばかりは深く考えることをやめようか。
「それじゃあ着替えたら出発しよう。せっかくシャーリーが来たんだから、ゆっくり話せる車のほうが良さそうだね」
「ええ、そうしましょ。コンビニでジュースを買って、それから音楽を聴きながら遊びに行くの。んふふ、平日なのに楽しみになってきたわ」
やあ、それは僕の台詞だよ。
たっぷりと皆で平日を過ごせるのなら、たまにはズル休みも……いやいや、さっきまで具合は悪かったんだからズルではないと思おうか。
そういうわけで僕らはお休みを満喫すべく、準備を開始することにした。
ただひとつ気がかりなのは、僕はどうやってトイレに行けば良いのか、という事だね。




