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第13話 猫ちゃんですよ、エルフさん

 僕は寝起きにテレビを付けないようにしている。

 眠りから覚め、その遊び終わった余韻にもう少しだけ漬かりたい……というのが理由だったりする。身体をリラックスさせ、そしてゆっくりと温かいものを飲む。それからようやくいつもの日常へと戻るのだ。


 しかし今、僕の習慣は崩れ去りつつある。

 目覚めれば隣には幻想世界の住人であるエルフがおり、僕が「何か温かいものを淹れようか」と尋ねると「あら、うれしいわ」と答えてくれる。まるでまだ夢が終わっていないようであり、不思議と日本という国まで楽しみになりつつある。


 さて、もう外はだいぶ明るいが、朝食を用意するには少しはやい。

 今日はせっかくの休日なのだし、のんびりとした時間を楽しむべくベッドから起き上がり、そしてキッチンで牛乳を温めることにした。


 少し子供っぽいけどホットミルクって美味しいよね。

 はちみつを入れるか砂糖にするか悩んだけど、今回はなんとなく前者にしておこう。向こうで甘いものといえば果実くらいで、蜂蜜はやや高級品にあたる。だからたぶん彼女も気に入ってくれるだろう。


 チンと電子レンジが鳴り、それから二つのマグカップを持ってベッドルーム――といっても間仕切りがあるだけなんだけど――に移動する。

 エルフの少女はベッドの端に座り、静かに外を眺めていた。絵画をみるような、という表現はあるが、まさにこれがそうだと感じさせられる。

 いま声をかけてしまうとこの絵が消えてしまうのでは……という思いをし、少しだけ喉がつまるのを覚えた。


「……はい、熱いから気をつけて」

「あら、ありがとう。ごめんなさい、すこし気が抜けていたみたい」

「ううん、さっきはびっくりしたからね。気が落ち着くから飲んでみて」


 ほわんと優しい香りが立ち、薄紫色の瞳は興味深そうにカップを覗き込む。ちびりと試しに舐めてみると、ぱっと顔を明るくさせた。


「わぁ、本当ね、少しだけ甘くて美味しい。それに驚くほど臭みが無いのね。これは何の乳なのかしら?」

「牛だよ。マリーの住む辺りだと少ないけれど、これから増えて行くんじゃないかな」


 そう言いつつベッドの隣へと腰掛ける。どうやら彼女はこの窓からベランダに止まっている雀を眺めていたらしい。ちゅんちゅんと鳴きながら、ぱっと彼らは飛んでいった。

 すぐ隣から彼女は僕を見上げてくる。


「ねえ、お休みって仕事が無くなったという事なの?」

「あー……。ええとね、日雇いじゃなくて、仕えているという表現が近いかな。週に2日は休みをもらえているんだよ」


 きっと彼女の頭の中には、僕の主人がいると考えているだろう。まあ社長や上司がそれにあたるかもしれないけど……少しずれている気もするかな。日本の社会構造などはまた先々で教えるとしようか。


 どうやらホットミルクを気に入ってくれたらしく、ちびちびと美味しそうに飲んでくれる。僕も同じようにミルクを飲むと、いつもしていた習慣がもう少しだけ贅沢になったような気がした。


「良かったら後で図書館に行かない? 一般に開放されている書物庫に近いところがあってね、きっと日本語の勉強になると思うよ」

「ふうん、もちろん構わないわ。でも会話を優先したほうが良いと思うけれど?」

「そうなんだけどね。もしも日本語で興味があるものが見つかれば、きっと覚えるのも早くなるんじゃないかなって」


 ふむふむ、とエルフは納得してうなずいてくれた。

 僕の場合、マリーと会話できるようになりたいなーというのがエルフ語を覚える原動力だったと思う。……なんて、綺麗な瞳で見上げてくる彼女に伝えるのは気恥ずかしい。

 ただ好奇心や興味といった感情はとても強くて、そのような情報ならぐんぐんと身につくはずだ。


 ホットミルクを飲みきる頃には彼女もすっかりと落ち着いて、それから簡単な朝食を済ませると外に出ることにした。




 困ったことにマンションから外へ出ると、少しだけ彼女は身を硬くする。

 耳をニット帽に隠していても、まるで別世界の容姿をしているのだ。人々から好奇の目で見られ、そして原理の分からないだろう車が往来しているのだから仕方ない。


「そんな顔をしなくても大丈夫よ。エルフなのに人間の国で過ごす時もあるのよ。それに、いつもと違ってカズヒホも一緒にいてくれるでしょう?」

「うん、もちろん。手を繋いでもいいかな?」


 そう言うと、少しだけ恥ずかしそうにマリーはこくりと頷いてくる。

 大人と少女という体格差ではあるが、僕らはたぶんずっと近い距離にあると思う。指を絡めるといつもより彼女の指は細く感じられ、そして「行きましょう」と囁かれる。なんて事はないただそれだけで、僕の足が軽くなるのを覚えた。


「うん、少し回って河川敷沿いに歩いて行こうか。車もあるけれど、休みだしマリーとゆっくり歩きたいからさ」

「あらお上手だこと。あなたはいつも女の子にそんな事を……言ってなさそうね。その眠そうな目では、きっと相手も欠伸を漏らしてしまうわ」


 えっ、僕ってそこまで眠そうな顔をしているの?

 まあ当然、そんな甲斐性など僕にあるわけもなく、苦い顔をして「そのようで」と呟くのが精々だ。

 木々が増えてくると少し辺りは暗くなる。もう少し進むと河川沿いの遊歩道が現われ、僕らは柵を通って土の道を歩き出す。新しい遊歩道はもっと道が整備されているが、この辺りは土でならしてある程度だ。


「はあー、川までこんなに整備をして……綺麗だけど精霊もすこし元気が無いわねぇ」

「この辺りはねぇ、治水がかなり重要なんだ。昔はたくさん浸水被害があったんだって。確か江戸時代から続いているから……400年くらい治水を頑張っていたんだよ」


 はあ、と驚きと呆れの中間にある顔をマリーは見せる。

 それからまた川を眺め、上流から下流へと見渡す。その顔は、まるでたくましい人間の姿を思い浮かべているかのようだ。


「それで、やっぱり水の精霊も見えるんだね。彼らは何かを言ってたりするのかな?」


 隣の柵へと手をかけて、銀色の横髪を揺らすマリーへと問いかける。


「それがね、やっぱり声までは聞こえないわ。たぶんもっと触れ合わないといけないの。暇なときには私も試してみようかと……」


 そのときぴたりと彼女の声は止まり、僕の反対側をじぃーっと覗き込んでいた。怪訝に思い振り向くと、そこには……。

 木の根元で、にゃあと無く虎柄の猫がいた。首輪がついていて飼い猫だと分かるし、きっと彼も朝の散歩を楽しんでいるのだろう。


「あ、猫だ。そういえば向こうには同じようなのはいないなぁ」

「わあ、小さい。猫っていうのね、あなた」


 にうう、と甘えるように鳴き、しゃがみこむマリーを丸い瞳で見上げてくる。鼻はうっすらとピンク色で、毛並みはいかにも柔らかそうにふわふわとしていた。


「あなたは男の子なの? 名前はなにかしら?」


 薄紫色の瞳を細め、静かに囁く声には半妖精としての雰囲気がある。同年代の子よりもずっと落ち着いているのは、たぶん百年生きたことで備わったものなのだろう。


「ふふ、小さくて可愛いわ。ねえ、猫というのはたくさんいるものなのかしら?」

「うん、このあたりは下町だし、飼っている家も多いんだ。もちろん野良もいるよ」


 マリーはこちらを見ていて気がつかなかったが、猫は伸びを一つし、それから気まぐれに彼女へと寄ってきた。そして差し出されていた白い指へと身を伸ばし、すんすんと匂いを嗅ぎだす。

 遅れてマリーも気がつくと、ピンク色の鼻から嗅がれているという状況に身をこわばらせ、そしてゆっくりと口元を緩ませてゆく。


「わああー……」

「挨拶をしているのかな。まだ触っちゃ駄目だよ。猫はね、触られたいときにはそう主張をするから」


 くすぐったそうにマリーは身をよじり、瞳を輝かせて見つめていた。

 そういえば猫というのは小柄で大人しい人を好むと聞いたかな。マリーはずいぶんと華奢だし、もしそうならば好かれやすいかもしれない。


 やがて猫は、すりっと指先へ頬を押し付けてきた。マリーは無言で僕を見上げ、その瞳は「どうなのっ、触って良いのかしら!?」と尋ねているようだ。ついつい僕も口端をゆるめつつ、こくりと頷き返す。


「猫ちゃん、触りますよー……うわぁ、柔らかい……」


 遠慮がちに撫でていると「もっと触れー」と言わんばかりに猫は頬を押し付けてきた。

 あごの下から首輪の内側へ、白くて華奢な指先がぐりぐりと撫でるといかにも気持ち良さそうに猫は「にゃあ」と鳴く。それから動きは緩慢となり、くるくると猫の喉は鳴り始めた。


 指に伝わるゴロゴロとした震えはたまらなかったらしく、こちらを見上げた彼女の顔は「ひゃああ!」という形をしていた。薄紫色の瞳をこんなに真ん丸にしているのは初めて見るし、子供のように頬を染める表情には正直なところ僕のほうが身悶えそうだった。


 やがて猫はもうすこし調子にのり、彼女の前にごろんと丸いお腹を見せつける。すでに至福だったマリーだったが、さらに溶けてしまいそうなほど頬を緩ませてしまうようだ。


「ふふっ、ここが好きなんでしょう。がおー」


 わしわしと夢中になって猫を撫でているエルフというのはなかなか珍しい。

 僕の頭の中にはマリーの「がおー」という子供っぽい声が繰り返し流れており、どうやらこの子は僕の頬を崩壊させたいのだと分かる。

 ああ、困った。身悶えるのを耐えすぎて身体がプルプルしてきた。


 やがて猫は満足しきったらしく、ひょいっと立ち上がると「にうう」と鳴いて立ち去っていった。名残おしげにエルフはじっと見つめ続け、ようやく立ち上がったのはたっぷり数分後だった。


「はああーー……! 見たっ、いまの子っ? 可愛いったら、もうっ!」


 頬はもう赤く染まっており、まだ撫で足りなかったのか、僕の腕をわしわしと掻きながら弾んだ声を上げてくる。くすぐったく触れてくるものだから僕もつい吹き出してしまった。


「ふふっ、うんうん、可愛いよねぇー。すごく良かったよ」

「ねっ、ねっ、凄かったわよね! はああーー、あの子、また遊んでくれるかしらー……。明日もここに来てみましょう、カズヒホ」


 うん、僕は違うほうを見ていただなんて言えないね。

 猫との出会いの場を大発見したような、そんな誇らしい顔に僕はこっくりとうなずく。そして先ほどより温かくなった手をつなぎ、遊歩道をまた歩き出す。

 彼女は動物からとても好かれるということは、後日知ることになる。


 さて、図書館に行きましょうかエルフさん。


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