入学
母さんの家に到着すると、由梨のボディガードは「よろしくお願いしますね」と言って帰っていった。
「ただいまー」
家に入ると、母さんが吹っ飛んできた。
「由梨ちゃん! 大丈夫だった?」
由梨は苦笑いして頷いた。
「はぁ〜、どうなるかと思ったわー」
母さんが、よっぽど由梨のことを心配していたのか、どっと息を吐く。
「お姉ちゃん、もうしばらくここにいていいよね?」
「え、何言ってんの? いいに決まってるじゃない」
「ふっ、さすが母さん」
「どこがおかしいのよー!」
「いや、何でもないけど」
やっぱりこの気楽さが俺には合っている。きっと由梨にも。
「優奈、そういえば高校入るとしても勉強大丈夫なのか?」
「え、優奈?」
母さんが不思議そうに見てきた。
「うん。本名は優奈って言うの。嘘ついててごめんなさい。でも、ここでは由梨がいいな」
「じゃあ私は今まで通り由梨ちゃんって呼ぶわー」
「え、じゃあ俺も」
「そっちの方が聞き慣れてるから。勉強は大丈夫だよー。一応、高校の理系文系全ての教科、中二くらいで何訊かれてもすぐ答えられるくらい勉強したからね」
「え、じゃあ余弦定理は?」
「aの二乗イコールbの二乗たすcの二乗たす……」
俺は言葉の途中で手を振って遮った。
「もういいもういい」
「え、まだ途中じゃん」
「そんだけパッと言えれば証拠になってるわ。じゃあ、俺は寝てくる」
「あ、そうそう。羚弥、学校からどうしてますかって連絡来たけど、サボりましたって言っといたわよー」
「は!? 何言ってんだよ母さん!」
母さんは爆笑しながら「冗談だって」と言った。
「はぁ、おやすみ」
二人の「おやすみ」という言葉を聞いて、俺は部屋に行った。
ゴォォォォ
何かの音がしていた。聞き覚えはあるが、どの音なのか特定できない。
「手出せ」
いつかの夢で聞いた、殴る蹴るなどの行為を平気でする、非情な少年の声がそう言った。いったい何をする気なのだろうか。良い予感はしない。
「嫌だ!」
非情な少年と一緒にいた、殴られた側の少年の声がそう反抗した。この状況は……前の夢と妙に重なる。
「大丈夫だ、一瞬だから」
「だってそれ……」
手に何かをする気なのだろうか。この状況なら、何か酷いことをするのは間違いない。「それ」とは何なのだろうか。最初から変わらず鳴り続ける、勢いのある音が気にかかる。
「お前、学校で『俺』って言ったよな? 俺がいなけりゃ何やってもいいと思ったか?」
「ごめんなさい……」
くだらないことで怒られてるんだな。一人称なんか人それぞれだろうに。
「ダメに決まってんだろ」
「ああ! 離せ離せ! 離してください!!」
腕を掴まれたのか?
「熱い熱い!」
な!? 熱い! なぜだ! 俺の腕まで熱い! そうか! あの音は……ガスバーナーだったんだ!
「うわぁぁ!!!」
熱い! ああぁぁぁあ!
「やめろぉぉ!!」
「羚弥君! 大丈夫!?」
目を開けると由梨と母さんが俺の顔を覗いていた。
「はぁ、はぁ……いや、酷い夢を見た……」
「そう……ひどくうなされてたよ?」
由梨が心配そうな顔で俺の顔を覗き込む。
「ただの夢だ。母さんも由梨も、心配しなくていいよ」
「羚弥……無理しないでね?」
「ああ。ありがとう、母さん」
「じゃ、朝食作りに行くわ。由梨ちゃんも手伝ってねー」
「う、うん」
二人が部屋を出ていくのを見届けた後、俺は黙って自分の熱かった腕の部分を見た。そこには、大きな火傷の古傷があった。
「バカな……」
あの少年の声は……俺なのだろうか。だとしたら、あのガスバーナーを持った男の声はいったい……
俺はしばらく、その古傷を黙って見つめていた。
「ご飯できたよー」
母さんの声が聞こえて、俺は食卓へ向かった。
既に母さんも由梨も椅子に座っていて、食べる準備は万全のようだった。
俺も席に座ると、母さんの「いただきまーす」で食べ始めた。
「今日は土曜日かー。何しようかなー」
相変わらず呑気な母さんに、すかさず俺が突っ込みを入れる。
「いかにも休みだーって感じで言ってるけど、母さんにとっては全ての日が休みのようなもんだろ」
「まー、そうなんだけどねー。由梨ちゃん何かやりたいことない?」
話が由梨に振られたことで、俺は『そうか、休みか』と思い直した。
もし、あの夢の少年が俺なら、夢について調べれば、俺の記憶について何かが分かるかもしれない。
「普通の人って休みは何するの?」
図書館にでも行ってみるか。
「え、ドライブとか、買い物とか? 私もそんなに普通の人じゃないからねー。いっつも休みだから何して過ごせばいいか分からなくなることが時々あるよ」
母さんが笑いながらそう言ったところで、俺は話を切り出した。
「ねえ、母さん。今日図書館行ってくるわ」
「え、珍しい。勉強でもするの?」
「まあね」
「うわー、雪でも降るんじゃないかしら」
サラッといじってくる母さんに「失礼だぞ!」と言って、俺は席を立った。
「ごちそうさまでした」
「気をつけて行ってくるんだよ」
「うん、ありがとう」
それから俺は、洗顔や歯磨きなどを済ませ、財布と鍵を持って家を出た。
図書館は電車で三駅ほどの場所にあり、着くまでにそう時間はかからなかった。
とにかく夢に関する論文や評論などを洗い出し、気になったところはじっくり見たりして、可能な限り調べ尽くした。
それで分かったことがいくつかある。レム睡眠だと夢を見るなどはどうでもいいこととして、気になったことは、「夢の内容は潜在意識と密接に関係している」ということ。そして、似たようなことではあるが、「海馬という脳の一部が、寝ている際に記憶を整理するのだが、その時にその一部を適当に合成したのが夢である」ということだ。
もしそれが本当であるなら、俺の場合は無くなったはずの記憶を、潜在意識から整理して蘇らせているのではないだろうか。
全てが正しい事実とは断言できないが、少なくとも母さんが出てきた時の夢は、完全に事実だ。
あの時、俺は記憶を失くして自分が何をしたらよいか分からず、一週間ほど公園の水だけを飲んで生きていた。そして、このままこういう生活をしていくんだなと思うと絶望して、自殺しようかな、と店の屋上駐車場から身を乗り出していた時に、母さんから抱きしめられたのだ。
その時の夢で感じた温かさは、母さんの体温だ。それが完全な事実だから、他の夢もそうでないかと疑ってしまうのだ。
「死ね」と何度も言っていた夢が最も気になる。あの時の声は、俺なのだろうか。俺だとしたら、いったいどれほどの恨みを持っていたのか、そしてそれは誰なのか。
そう思うと、思い出すのが少し恐ろしくなった。
お姉ちゃんが夕食にロールキャベツを作るらしくて、最近料理に興味が出てきた私は手伝うことにした。
まだ料理の技術的な手伝いはできないけど、お姉ちゃんが楽しそうに料理しているのを見て、自分もそういう気分になるのが好きだった。
「煮物はね、結構時間かかるけど、かければかけるほど美味しくなるものなんだよー」
「なるほどー」
お姉ちゃんがキャベツの下のほうに切り込みを入れ、芯を取ったかと思うと、あらかじめ水を沸騰させていた鍋に、丸ごと入れた。
「こうするとね、葉っぱが一枚一枚剥がれやすくなるんだよー」
「大胆な料理だ……」
少し時間がかかるということで、最近気になっていたことを質問することにした。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
「一回羚弥君を抱きしめた時からかな、なんか羚弥君を見るたびに胸が締め付けられるというか、ドキドキしてね、苦しいんだよね。病気なのかな?」
「可愛いねー。それはね、恋だね!」
お姉ちゃんはピースサインをしながら、決めゼリフのようにそう言った。
「恋か……男性恐怖症なのに好きな人ができるなんて……」
「逆に今まで恋したことなかったの?」
「いじめばっかりでそういう気分にもなれなかったんだと思う」
「なるほどねー」
キャベツをひっくり返しながら、お姉ちゃんは少し目を細めた。
「何かあったら何でも言うんだよ?」
「うん。お姉ちゃんほどいい人は他にいないし、言われなくても頼りにしてるよ」
お姉ちゃんは笑いながら「そっか」と言った。
「実は私も男性恐怖症気味なんだよねー」
「え!?」
お姉ちゃんの突然の発言に驚いて、思わず大きな声を出してしまった。
「私さ、呑気に見えるでしょ?」
「う、うん」
「これね、今は完全にこういうキャラになってるけど、何年か前にワザと意識して定着させたんだよー」
「何で?」
「大好きだった人がいたんだけどね、その人が付き合って数ヶ月くらいの時かな、メールを送ってきたんだ。それにはね、知らない女の人の名前と、結婚しようって文字が書かれてて、後で間違いメールだったことを知ったの。ずっと騙されてたんだって思うと怖くなって、それから男性と目を合わせられなくなったり、酷い時には手が少し震えたりしてたんだー。そういうのをバレないようにしようと、呑気キャラを作ることを決めて、今までそれを通してたの」
だから結婚も……
「羚弥が来てから本当にそういうのは無くなってきたんだけど、まだ付き合うとかそういうのは考えたくないかな。あ、ごめんね、突然こんな話しちゃって」
「いや、大丈夫。お姉ちゃんも大変だったんだね」
「うん。さ! そろそろキャベツの葉っぱ剥がすよー」
お姉ちゃんの笑顔も今は切なく見えた。
羚弥君が帰ってきた時には既に夕食を作り終えていた。
その際に、何気なく彼に「何調べたの?」と訊いてみたけど、彼は「ちょっとな」と答えるだけで、本当の答えを教えてくれる様子はなかった。
夕食中も彼は深く考えている様子で、お姉ちゃんが何かを話さないと空気が壊れてしまいそうだった。
私は部屋に戻るとベットに仰向けになった。そして、ぼんやりと蛍光灯を眺めた。
『実は私も男性恐怖症気味なんだよねー』
お姉ちゃんの言葉が頭の中で再生された。まさかお姉ちゃんもそうだったなんて思ってもいなかった。あの口調の裏に、こんな秘密があるなんて誰が予想できただろうか。それに、羚弥君のことも少し気になる。なぜ生みの親の元ではなく、お姉ちゃんのところにいるのだろう。
……考えてもいい理由が思いつかない。お姉ちゃんのことを「母さん」って呼んでる以上、生みの親に対して彼が良い印象を抱いている可能性はゼロに近いはずだから。
お姉ちゃんに羚弥君のことを少し訊いてみよう。そう思い立って、私は部屋を出た。
「母さん」
「なに?」
お姉ちゃんのところに行くと、羚弥君と話していた。
「俺……思い出すのが少し怖くなったよ」
聞くつもりはなかったけど、今の羚弥君の発言が少し気になって立ち止まってしまった。
「え、何で?」
「もしかしたら、思い出したら俺が俺じゃなくなる気がするんだ」
「羚弥が悪い人なわけないじゃーん。心配しなくても大丈夫だってー」
「違うんだよ!」
突然羚弥君が大声を出して、私はビクッとなった。お姉ちゃんも驚いた様子だった。
「誰かを異常なまでに恨んでるかもしれないんだ……ごめん、ちょっと風に当たってくる」
「き、気をつけて……」
私は思わず立ちすくんでしまった。
寝るのが怖くなった。だからこうして外に出て、ただただ空を眺めている。
空は曇っていた。まるで内にある怖ろしいものを隠そうとしているように。きっと、俺の内にあるものも今の空と同じで、黒いものなのだろう。
季節外れの冷たく乾いた風が俺をすり抜けていった。こうしてこんな風を浴びるのも懐かしい気がする。
母さんに会う前は、試食を探し回ったり、コンビニのゴミ箱を漁ったりして、こんな風を浴びながら冷たいコンクリートに寝っ転がっていた。
今はそんなこともなく、幸せな毎日が続いているが、記憶が戻ったらもしかしたらこんな日々も消えて無くなるのかもしれない。
「全部気のせいだったらいいのになー」
声に出してみたものの、夢の不自然さからしてそうは思えないのが現実だ。
「はぁ……」
いずれまた、俺は眠ってしまうだろう。そしてまた夢を見て、日に日に記憶が戻っていくのだろう。どうしたら夢を見ないで済むのか……
「あ!」
俺は先ほど調べた、どうでもいいこととして忘れ去ろうとしたことを思い出した。
『レム睡眠だと夢を見るなら、ノンレム睡眠になればいいんじゃないか!』
俺は早速調べようと、家に走って戻っていった。
「ふぁ……あ、おかえりー」
家に帰ると母さんがあくびをしながらそう言ってくれた。
「ただいま」
「少しは落ち着いた? もう二時だよ。由梨ちゃんも寝ちゃったし、さっさとお風呂とか済ませちゃいな」
もうそんな時間になってたのか。
「分かった。そういえば母さん、何でこんな時間まで起きてんの?」
「え、いや……心配だったから……」
「それは……ごめんなさい」
もしかして、由梨にも心配かけちゃったかな。明日謝っておこう。
「いいのいいのー。ま、早いうちに寝るんだよー」
「分かった」
母さんはまたあくびをして、自分の部屋に向かっていった。
すぐに携帯でノンレム睡眠について調べようと思ったが、母さんの親切をドブに捨てるのも悪いと思い、とりあえず風呂に入ることにした。
「ふー」
身体をサッと洗って、早速湯船に浸かった俺は、全身の力を抜いて後方に仰け反った。お湯が適温で気持ちがいい。目が疲れているのか、少し風呂場の電気が眩しく感じる。
「やべ……眠くなってきた」
眠気を取るためにお湯を顔にかけようと思ったが、まぶたが重くなってきて、それをしようにもできなかった。そして、意識が途切れた。
ザーーー
どこからか聞こえるシャワーの音。その音は少し距離があって、大きさは小さなものだった。が、その音が鳴っている最中、同じ方向から不自然な音が鳴った。
ドダダン
相変わらずシャワー音は鳴っている。間も無くして男性の声が聞こえた。
「大丈夫か!?」
ガララララララ
扉を開ける音がして、ドタバタと慌てているような音が聞こえる。何があったのだろうか。
「おい! 聞こえるか! 大丈夫か!」
シャワー音が消えた。この時点で、誰かがシャワーの最中に倒れたんだろうと予測がついた。
ピ ピ ピ
何かの音が三回鳴った。
「救急です。妻がシャワーを浴びている最中、突然倒れました。場所は……」
内容から、すぐに先ほどの三回鳴った音は電話の音だと分かった。それからすぐに救急車の音が近づいてきて、白い光が辺りを包んでいった。
「はっ!」
目覚めると生温い水があって、身体が小刻みに震えていた。急いで身体を温め、洗い、風呂掃除をしてから出てくる。
まだ四時を回った程度の時刻で、誰も起きてはいなかった。
俺は自分の部屋に戻り、ベットに仰向けになりながら、先ほど見た夢について整理していた。
救急車を呼んだ男性は、妻が倒れたと言っていた。そして、その声、音と共に距離は少し離れているようで、身近に体験しているというよりは、客観的に見ているといった方が当てはまる。この夢はいったい何を意味しているのだろうか。
俺はふと、調べようとしていたノンレム睡眠のことについて思い出した。ただ、調べる気にはなれなかった。今の夢は、誰かが危ないというような警告な気がして、続きを知らなければならないと直感的に感じたのだ。
「逃げんな」
自分にそう言い聞かせて、皆が起きるまで携帯ゲームをして時間を潰すことにした。
六時頃になると、母さんが起きてきて、朝食を作り始めたようだった。
携帯ゲームにも飽きた俺は、やることもなく、何となくそれを手伝うことにした。
「あ、羚弥。おはよー、って今日は早すぎるんじゃなーい?」
さすがにこの時間に起きてるのは驚くかと思いながら、挨拶を返した。
「たまにはこういう時もあるさ。それより、何か手伝うことない?」
「めっずらしーい。頭でも打ったー?」
「打ってないわ! たまにはこういうのもいいだろー!」
「フフ、じゃあマヨネーズとハム出してー」
今日の朝食はレタスサンドのようで、作り方を知っていた俺は、メインの作業も手伝った。そのおかげか比較的早く終わり、母さんは「助かったわー」と言って、由梨が起きるまでに洗濯なども済ませようと、次の仕事に移った。
そのしばらく後で由梨も起きてきて、それを食べることになった。
「いただきまーす」
母さんのそれに合わせて俺と由梨も食べ始める。
俺は早速、由梨に昨日の件について謝ることにした。
「由梨、昨日はごめんな。なんか心配かけたかもしれない」
「ああ、ううん。びっくりしたし、心配もしたけど、もう羚弥君がここにいるから気にしてないよ」
由梨は笑っていたけど、本当はまだ心配しているように見えた。
「そういえば羚弥君、これは予想だけどさ、昔のこと覚えてなかったりする?」
突然来た突拍子な質問に、そういえば由梨には記憶喪失の話してなかったけな、と思いながらさらっと答えた。
「ああ。記憶喪失なんだ。母さんに引き取ってもらってるのもそういうわけ」
「なるほどね」
「ま、今が楽しいし、過去のことなんて気にしないことにしてるよ」
母さんには分かる、あからさまな嘘を由梨について、彼女を心配させないようにと気遣った。
今までいろいろあった由梨には羽を伸ばせてやりたいという思いが少しだけあったのだ。
ピーンポーン
そんなやり取りをしている時、インターホンが鳴った。
「はーい」
「ごちそうさま」
母さんが出て行くのを見て、またテレビ局かなと思いながら、俺は皿を片付けにいった。
「由梨ちゃーん、いや、優奈ちゃんって呼んだ方がいいかな? お母さん来たよー」
「え!?」
訪ねて来たのがお母さんと聞いて、驚きつつも走って玄関へ向かった。
「いつも優奈がお世話になってます」
「いえいえー。優奈ちゃんが来てからは家の雰囲気も明るくなって、とても楽しく過ごしてますよー。最近は料理に興味があるみたいで、教えてあげてますー」
「料理かー。いいですね……って、え? もしかして、あの真弓さん!?」
「あ、ご存知ですか?」
「いやー、料理界では物凄い有名人ですよね……ちょっと優奈、凄い人にお世話になってるじゃないのー」
玄関でお姉ちゃんとお母さんが話しているのが自然と耳に入ってたけど、お姉ちゃんがお母さんさえも知ってるくらい有名だなんて思ってもいなかった。
「今度私も教えてもらっていいですかね?」
「どうぞどうぞー」
話の区切れがついたところで、私は早速本題に入った。
「ところでお母さん、何の用?」
「あー、そうそう。高校の手続きするためには保護者も必要でしょ? だからそのために来たんだけど、まだ優奈の行きたい高校も分からないし、とりあえず会いに来たんだ」
「おー!」
あまりの嬉しさに、普段より感情が素直になっているような気がした。
「でも、私も場所は知らないんだよね。羚弥君呼んでくる」
そう思って戻ろうとしたけど、話を聞いていたのか、「高校の場所ですよね? 案内しますよ」とそうするまでもなく彼の方からここに来た。
「じゃ、優奈、羚弥君、早速行こうか」
「行ってらっしゃーい」
真弓さんに見送られて、私たちは秋篠高等学校へと出発した。
「あそこです」
しばらく歩いて、羚弥君が指差した方向に学校があった。
「ここかー」
校舎を見ると、いじめのトラウマが若干蘇ってしまう。でも、今までとは違って、期待が何割かを支配していた。
「案外近いわね。そうだ、入る前に事前に連絡しないとね。羚弥君、無いとは思うけど……生徒手帳ある?」
「それはないですけど、遅刻することが多いので、電話番号は知ってますよ」
お母さんは苦笑しながら言われた番号に電話をかけた。
しばらくすると電話が終わって、お母さんは「行こっか」と言った。
「羚弥君、校長室まで案内よろしくね」
「そ、そんなところに……」
校長室なんて行く機会がないから、羚弥君も緊張してきたんだと思う。私も同じく緊張して、スタスタと歩き始めるお母さんを尊敬するほどだった。
校長室は二階にあって、ドアの上にある「校長室」という文字が、そのドアの存在感を強調していた。
お母さんは何も感じないのか、普通にノックして「先ほど連絡した咲森です」と言った。
すぐに「どうぞ」と返事が返ってきて、私たちは羚弥君をその場に残して、そこに入っていった。
「突然お伺いしてすみません」
お母さんがそう言うと、意外と優しそうな校長が笑顔で対応した。
「いえいえ、お気になさらないでください」
お母さんはすぐに本題に入った。
「あの、早速お聞きしたいんですけど、こちらに転入って可能ですかね?」
「前回在籍していた高校や、その時の成績などをこちらがお渡しする資料に書いていただき、試験などをしてから入ることになります」
「実は、訳ありでどこの高校にも入学してなかったんですよね」
厳しい状況だと分かったのか、お母さんの表情が険しくなった。
「そうですか……編入でも転入でもないというわけですね?」
「はい……実は私のせいでこの子がしばらく家出してまして、受験期間ずっと行方不明でどうしようもなかったんです。今は仲直りしたんですけど、やはり高校には入らないと現実的には少し厳しい状況かなと思うんですよね」
「そうですね……」
校長も困った様子を見せた。
「この子成績だけは優秀なんですよ。中学校の成績も五段階判定中、全て五でして、テストはほとんど百点なんですよ。これを見てください」
こうなるのを予想していたのかしていなかったのかは分からなかったけど、あらかじめ持っていたらしい、私の過去の通知表とテストを鞄から取り出した。
「こ、これは素晴らしいですね……」
校長も感心しているようだった。
「それに、既に高校の知識は身につけさせているつもりです。だから、遅れもないと思うんですよね」
校長はしばらく悩んでいる様子を見せ、結論を出した。
「こちら側としても、成績優秀な子は大歓迎なんですよね。裏話を言うと、高校の評判が上がると言いますか。そこでですが、この前の定期テストの問題を今解いていただいて、その点数によって決めたいと思います。既に高校の知識は身についてるんですよね?」
見かけと裏腹に腹黒いなと思って私は思わず苦笑してしまった。でも、確実に入れるなと確信もした。
「ぜひやらせてください」
私の意思表示を示したことにより、校長は「分かりました」と言って部屋を出ていった。
長くなりそうだからとお母さんが羚弥君を帰らせ、その直後に校長が問題用紙を持って戻ってきた。
「筆記用具もこちらで用意しました。準備ができたらいつでも始めてください。一枚につき制限時間は四十五分ですが、終わったら次々と他のテストに手をつけてもいいですよ」
「分かりました」
こうして、お母さんと校長が見守る中、私の戦いは始まった。
現代文、古典、数学、世界史、化学、生物、英語と七教科も受けることになったけど、休憩を挟まずに次々と解いていき、二時間半ほどで全ての問題を解き終えた。
久しぶりの感覚だったから、疲れたというよりは、楽しかったという感覚が大きかった。
「終わりました」
そう言った時、校長が「早い」と呟いたのが聞こえて、少し誇らしげな気分になった。
「それでは解答致しますので、もうしばらくお待ちください」
そう言って校長は再び出ていった。
「どうだったの?」
お母さんがそう聞いてきて、私は「余裕!」とピースサインを見せた。
「さすがね」
お母さんも自慢気な表情で笑っていた。
それから数十分間お母さんと雑談していると、校長が戻ってきた。
「いやー、お見事です。全て満点でした!」
「やった!」
私は嬉しくてガッツポーズをした。
「異例ではありますが、入学を認めます。制服と教科書は後日購入していただくことになりますが、それまで教科書は我々が代用のものを貸出しして、制服についてはしばらくはスーツのようなもので大丈夫です。その条件であれば明日からでも来ていただいて構いませんので、これからよろしくお願いします」
校長は深々と頭を下げた。
「こちらこそ無理言って申し訳ありませんでした。本当にありがとうございました」
私もお母さんに続いて頭を下げた。
「いろいろお渡ししたいプリントが沢山ありますので、職員室まで寄っていただけますか? そこで担任教師の紹介もするので」
「分かりました」
こうして私たちは職員室へ向かった。
「プリントはこちらです」
そう言って校長が大量のプリントをお母さんに手渡した。
「そして、こちらが優奈さんの在籍するクラス、一年一組担任となる、担当教科は数学の、山辺和也先生です」
「よろしくお願いします」
校長の紹介に続いて、三十代くらいの男性が頭を下げた。
「これからお世話になる咲森優奈です。よろしくお願いします」
私も頭を下げると、山辺先生は笑顔を見せた。
「優奈さんか。これから頑張れよ」
「はい!」
正直に言えば、男性というだけで少し怖かったけど、誤魔化すために返事を元気にした。
「それではお疲れ様でした。お帰りいただいても構いません。では、私はこれで失礼します」
校長が出ていき、私たちも帰ることにした。
「失礼しました」
最後にそう言ってその場を後にした。
お姉ちゃんの家に帰ってきた時には午後六時を回っていた。
それからすぐに、お母さんがしばらくはこっちに来れなくなるということで、渡されたプリントの保護者が書く欄を全て埋めていき、それが終わるとお姉ちゃんに挨拶してから「おじゃましました」と言って帰っていった。
「さて、入学パーティーでも開くかー!」
私が高校に入学できると知って、お姉ちゃんが大袈裟にはしゃぎ始めた。羚弥君も乗り気のようで、「おめでとう」と言ってくれた。
「ケーキ作っちゃうよー!」
「ありがとー」
「さて、俺も手伝おっと」
お姉ちゃんと羚弥君がキッチンに向かう中、私は『ついに学校かー』と思って複雑な気持ちになっていた。
楽しみな気持ちと不安な気持ちが入り混じって、つい落ち着かなくなる。
頑張ろう。そう心に決めて、私は「手伝うー!」とお姉ちゃんたちを追いかけていった。
二十三時を回り、俺は寝る体制に入った。
徐々にパーティーが楽しかったという気持ちから、どんな夢を見るのだろうという気持ちに変わっていく。
考えたって仕方がないのに、夢を見るのが不安で、かつ興味があって、恐ろしくて。どうしても意識がそっちにいってしまう。
ふと、普通の夢ってどんな夢なんだろうと思った。
空を飛んでいるのか、戦場にいるのか。それとも友達や漫画のキャラクターなんかと一緒にいたりするのだろうか。
それだったらどんなに楽だろう。いつもこんな思いをしなくていいのに……
次第に何も考えられなくなって、抵抗する間も無く睡魔に呑み込まれていった。
今回の夢はいつもと違っていた。感覚がある。何かを持って回している。
それが皿で、今自分は皿洗いをしているんだと気がついたのはすぐ後のことだった。
しかし、なぜか手が痙攣して、皿を落としてしまった。
ガシャン!
不快な音が周りに響く。
「おい! 何割ってんだよ!」
その直後に聞こえた、昨日の夢の男性の声。
「もっと注意しろよ!」
次の瞬間、みぞおちのあたりを激しい衝撃が襲った。そして、身体が浮き、強く頭にも衝撃が襲った。
痛い……激しい痛みが腹と頭にある。手が頭を触り、ヌルッとした触感があった。きっと、血だ。それを目の前に持ってきている。多分夢の中の俺は、手についた赤くべっとりしたものを確認しているんだろう。
もしかして俺は、皿を割っただけでここまで怒られているのだろうか。だとしたら、虐待レベルだ。
「次やったらこれだけじゃ済ませないからな」
最後にそう言い残して、男性の足音が徐々に小さくなっていった。
その直後、いつものように白い光があたりを包み込んでいった。
「羚弥君起きてー」
由梨の声が聞こえて、俺はおもむろに身体を起こした。「サンキュー」と言いつつ、無意識に頭とお腹を触る。
……何ともない。
これで、夢の中の感覚は触覚、聴覚、温度覚となった。まさか触覚まで出てくるとは思わなかったが、百回殴られたり蹴られたりする夢で出てこなくて本当に良かったと心から思う。
いずれは視覚も出てくるのだろうか。そうなれば全てを思い出すのもそう遠くはないだろう。
「羚弥君、ご飯出来たよー!」
「今行く!」
俺はその言葉で我に返って、着替えた後、すぐに食卓へ向かった。
「ついに入学だねー」
朝食中、母さんがニコニコしながら由梨に話しかけた。
「そうだねー。もう既に緊張し始めてる」
母さんの高校時代の制服だという服を身につけている由梨が、不安そうに、でもどこか嬉しそうにそう言う。
「でも、入学っていう言葉が不自然だよな。事情を知らない皆にとっては転入生にしか見えないのに、転入でも編入でもないからって途中からでも入学になるのがさ」
「そんなことはどうでもいいんだよー。男ってのは変なとこに興味がいくのねー」
母さんが冷ややかな目で見てきたので、いつものように反抗した。
「そんなことはない! まあ、でもいざとなったら俺がいるし、頼ってくれよ」
「ありがとう、羚弥君」
初めての登校ということで、俺たちは一緒に行くことにした。
「さて、行くぞ。行ってきます」
「行ってきます!」
「行ってらっしゃーい」
登校中、何気なく思ったことを口にする。
「こうして遅刻せずにいられるのも由梨のおかげだよなー」
「目覚まし時計買わないから起こしてあげてんじゃん!」
「いやー、なんかそれほど重要でもないからいっつも忘れちゃってさー」
「重要!」
「ですよねー」
そういえばなんだかんだで目覚まし買ってなかったな、と一瞬思ったが、次の瞬間には『まあいっか』で全てを片付けてしまう。
「今は由梨がいるからさ」
「う、うん……」
突っ込まれると思ったが、意外にも顔を背けられてしまった。
学校が見えてきた時に、ふと転入生がいきなりクラスに入るのはおかしいから、どうするんだろうと思った。
「由梨は学校に着いたらどうするんだ?」
早速訊いてみたが、由梨もよく分からないようで、首を傾げて答えた。
「うーん、転校する時はいつも必ず職員室に行ってたから、今回もそうする」
「ふーん。頑張れよー」
「うん」
それからすぐに学校へ到着し、職員室まで由梨を送ると、俺は教室へ向かった。
「羚弥おはよう!」
学が異常なテンションで迫ってきた。
「しっしっ」
「ちょっ! 挨拶しただけなのに酷くね!?」
疲れるわーと思いながら鞄を机に置く。
「あのな、大ニュース! 転入生がここに来るらしいぜ!」
「え?」
ガラララララ
学の言う通りだった。扉が開き山辺と一緒に現れたのは、正真正銘、由梨の姿だった。
『まさか俺と同じクラスとは……』
俺は思わず苦笑しながら席に着いた。
山辺が黒板に「咲森優奈」と書いて、教卓に両手を置いた。
「これからこのクラスで一緒に勉強する、咲森優奈さんだ。皆、仲良くしてあげてくれ」
「……よろしくお願いします」
由梨が頭を下げると、男子からも女子からも「可愛い!」という歓声が次々に上がった。
まあ、確かに……
以前まで無かった最後列の窓側の席に由梨が座り、騒がしいホームルームが始まるのだった。




