第32話 氷雪の城郭
未だに誤作動を繰り返す優香の思考と、それに乗り気で付き合うライツとの会話に疲れて洋介は空を見上げた。道を作るために切り開かれたからか、木々が邪魔してこない。青く澄み渡った空が、洋介の頭上に広がっていた。
「ん?」
最初はちょっとした違和感だった。陽は高く、周囲の木々の影響で涼しかった。それでも、五月の陽気に変わりない。
それなのに、洋介の頬を撫でる風がヒヤリと冷たかった。
「なんだろ」
妙に気になって、洋介の意識はそちらに吸い寄せられる。しばらく、宙を見つめて考えていた洋介だったが、ライツの叫びが彼を現実に引き戻した。
「ユーカ、ユーカ! どうしたの!?」
「えっ」
二人の方を振り向く洋介。その視界に二人の姿はなく。
「井上さん……?」
視線を下げると、全身を小さく丸めている優香の姿と、大慌てで彼女の肩を全身を使って揺り動かしているライツの姿があった。
「あ、あれ」
優香は自分の体に起こった変調を理解できていない。とにかく、体中に寒気が走った。今も、全身は震えて熱を求めている。こうして、しゃがみこんで自分の体で温めておかないと脳まで凍りついてしまいそうだ。
(いや、何を呆けてるんだ。僕は)
洋介は混乱しそうだった己を何とか奮い立たせて、優香と同じ目線になるように膝を曲げる。慌てたところで、自分もおかしくなるだけだ。洋介は、走り出しそうな心を何とか抑え込んで、事態を観察することに力を注ぐ。
リップなど使わなくても血色の良かった優香の唇が血の気がなくなって、青くなっている。体を小刻みに震わせて、視線はずっと下の方を向いて必死に耐えているようだ。
そして、ライツは何か感じ取ったのか周囲を警戒して唸っている。こういう、険しい表情をする彼女を前にも見た時もある。
(その時は確か。あいつが、僕をどうにかしようとして失敗したんだっけな)
それに何より、自分は何も気づかずに優香の様子に気づくまで安穏としていた。その事実から、洋介は一つの仮説を思いつく。
「結界、か」
結界、それは魔法や魔術の類で自身の心の有様を現実の世界へと表出させる技法。その効果は様々で術者の心によって大きく様変わりする。
洋介は、知っている。実際の結界がどんなものか。そして、自分は何故かそういったものに耐性があるということを、身をもって知っているのだ。
(何故か……って、理由はちょっとだけ聞いたけどさ。桔梗も変な置き土産してくれたよ。まさか、僕がやたら変な事態に巻き込まれるって想像してたんじゃ……、いや、してるか)
さすがに、まだ比較的短い人生の中で、結界の中で過ごすなんて経験を二度もするとは、洋介には思いもよらなかった。そして、結界という術を使ったことすらある人間は、下手をしたら現代の世で自分しかいないのではないかとすら洋介は思う。
だから、そんな稀有な経験と幼馴染の加護が支えてくれているから、洋介は平常でいられた。それがなければ、とっくに発狂して優香と共倒れである。
だからこそ、若干ではあるが、洋介にも対処する知識がある。念の為、色々と聞いていたのだが役に立つとは思わなかった。
「井上さん、ちょっといいかな」
洋介は優香の両肩に手を置く。それに、気づかないほどに彼女は体を硬直させていた。
おそらく、優香にも少しではあるが耐性がある。あと、彼女の意思の強さが結界の効果の侵攻を遅らせている。
だったら、その意思を強める方向に持っていこう。洋介は、できうる限り落ち着いた声で優香に語りかける。
「井上さん、井上さん。う~ん、これじゃ、だめだな」
洋介の声に優香は反応しない。これでは、声を届かせることができない。
かくなる上は。少し恥ずかしいが、やるしかないと洋介は声が上ずらないように気をつけながら口を開いた。
「優香、ちょっと僕の方を見て?」
「え?」
普段とは違う呼び方。そこでようやく、優香は洋介が目の前にいることに気がついた。顔をあげた彼女の目を、洋介は真っ直ぐに見つめる。
「ほら、見て。僕は寒くなんてない。だから、本当は優香も寒くなんてない」
結界は、精神に作用して心象と現実をひっくり返す技だ。優香の心は、氷の大地の上にいる。そこから連れて帰ろうと、洋介は真実を強く印象付けさせる。
驚くほどに、洋介の言葉はすっと心に入り込み、優香の氷を溶かしていった。見るからに、顔色が良くなっていく。
暗示の効果は洋介が予想していた以上に高かった。洋介は度外視していたが、優香の中にある洋介への信頼度の高さがより言葉の魔力を高めていた。
「あ、ごめんなさい。急に動けなくなって。でも、これって」
優香は、まだ震えながらもしっかりとした意思で言葉を発している。洋介はその様子にひとまず安堵すると、立ち上がった。
「たぶん、あいつに何かあったんだと思う」
洋介は、木々の隙間から見える白い建物を睨みつけた。どう考えても、あそこが結界の中心地だ。
一番良い手順は何だろうか、洋介は色々と考えてみたが思いつかない。思いつかないのなら、現状を打破するには動くしかないのだろう。
洋介は決意を込めて、優香に笑いかけた。
「井上さん、動けそうだったら施設とは反対方向に戻ってて。たぶん、離れれば効果も薄まるから」
その言い回しに、優香は洋介がしようとしていることを察する。
思い上がりでなければ、優香がこんな状態の時に別行動をしようとはしないと洋介に対して彼女は思っていた。
だから、だ。洋介は、自分を置いて、より危険な方向へ走り出そうとしているのではないかと洋介の意思を優香は感じ取ったのだ。
「澤田くん、待って。あなたが行って、どうするつもり?」
そう言われて、洋介は自分がどうするつもりなのか考えていなかったことに初めて思い当たる。
「……でも、置いていくわけにはいかないからさ」
それでも、洋介の決断は変わらない。その意識は、リィルがいるであろう施設から動かない。
「じゃあ、行ってくる。大丈夫、ダメだと思ったら引き返すから」
「あっ」
優香は止める言葉が思いつかず、自分を抱えていた右手を伸ばしたが途中で止まってしまう。
「ライツも行く!」
ひゅん、と優香の横を通り過ぎて、ライツは洋介の前に立つ。自由に動けている彼女を制するには理由が足りないと感じた洋介は、ふぅと息を吐く。
「……分かった。何か、おかしなのあったら教えて」
「うん!」
洋介はライツを連れて、今度こそ優香の方を振り向くことなく走っていく。
遠ざかっていく背中を悔しげに見つめながら、優香は血の色が戻った唇を噛みしめた。
(いいの、本当にいいの?)
優香は寒さとも戦いながら、自問自答を繰り返す。その燃え上がった意思が、結界の効果を徐々に跳ね返していく。
その火種は、この半年強、ずっと心に抱き続けてきた想いだ。
――そうか、貴様の大切な者か。問題ない、すぐに会える。私の夢の中でな。
父が襲われて昏睡状態にあった頃。自分が通っていた中学にも魔の手が伸びて、優香は何もすることができずに夢の中に閉じ込められた。彼女が目覚めた時には事件は解決し、父も目覚めることができたが優香は素直に喜ぶことができなかった。
(また、あの二人に全部押し付けるつもり?)
優香が眠っている間に、今、背中が見えなくなってしまった二人はずっと戦っていたのだから。そして、再会できたからいいものの、ライツとは言葉を交わすことなく別れてしまった。
そのことが、優香の心にずっと残っていた。洋介達といると時折、棘のように刺さってくるのを感じていた。
洋介は、優香が自分で自分を傷つけていることに気づかせてくれた。そのまま、ずっと檻の中にいたかもしれない優香を救い出してくれた。
それなのに、洋介が苦しんでいる時に、自分は何もできなかったのだ。
今回も、それでいいのか。いや、よくない。
「そうよ。このまま二人に任せるなんて、何より私自身が許せない」
こんな状態の自分が二人の側に行ったとしても、結局何もできやしないのではないか。
「いいわよ、足手まといだったとしても」
優香は己に生まれた否定的な意見を、強固な想いで弾き飛ばして、ゆっくりと立ち上がる。
指先の感覚が薄い。空気も冷たくて、うまく吸い込めない。このままでは走ることはできないが、今の状態でも前に進むことはできる。
両手をぐっ、と握りしめて開く。優香は何度か、その行動を繰り返して、自分の意思で動く体を確認する。
――でも、置いていくわけにはいかないからさ。
洋介の残した言葉を優香は頭の中で反芻する。彼女も彼と同じ思いだ。
「だからって、置いていくわけにはいかないでしょ」
優香は一歩一歩、洋介達を追って足を動かしていった。




