第23話 名は体を表わさない
「むぐっ」
洋介は息を止めていた。なぜか、口を開けたら悪い気分がしているのだ。それでも時折、鼻から入っていくる良い香りがさらに強く洋介の口を閉ざさせる。
「やっぱり男の子も欲しかったわ」
まるで、プレゼントにとおもちゃを買ってもらった子どものように、彼女は弾むような声を発していた。そして、さらに腕に力を込める。
さらに強く抱きしめられた洋介は狼狽している。全体的に細身ではあるものの、女性として柔らかい部分はしっかりとあった。その感触が、洋介には伝わってくる。
(これはマズイんじゃなかろうか)
どんなに洋介が無を心がけようようとしても、その都度さらに押し付けられるものだからたまったものじゃない。とりあえず、考え出すと意識してしまうので、洋介は極力煩悩と心中で対峙しないように心がける。
「体壊しちゃったから諦めたけど、もう少し頑張ってみてもよかったかしら」
体を壊した、と言っているのに彼女の両腕はなかなか力強い。洋介も彼女は体が弱いはず、ということは知っている。むやみに力を入れて引き離すこともできず、洋介はされるがままに振り回されていた。
「むぅ」
そして、そろそろ洋介の息は限界である。そこまで、洋介の肺の容積は大きくない。
もう無理か、と洋介が口を開こうとした時。ようやく、唐突な出来事に固まっていた優香が彼等の間に割って入った。
「お母さんっ! だから、感激したら人に抱きつく癖止めてって言ってるでしょっ!!」
優香にしては珍しく、力任せに乱暴な感じで洋介を引き剥がす。その勢いそのままに後ろに弾き出された洋介は、バランスを崩しそうになるも踏みとどまった。
「た、助かった」
心から出た一言。
そのまま膝に手をついて息を整えている洋介の眼の前で、リィルがにやついていた。少し離れていたところで洋介達を見守っていたのだが、解放された洋介を見てわざわざ近寄ってきたのだ。
(なんだよ、こいつ)
何か言いたそうではあるが、こういう風に自分に近寄ってくるリィルからろくなことを言われた経験がないので洋介は黙っている。
しかし、それは無駄な抵抗だ。リィルの口に戸はないのだから、彼は言いたい時に、言いたいことを言ってくる。
「残念だな。この機に色々と触っておけばよかったのに」
(どこをっ)
洋介は思わず叫びそうになったが、あとちょっとのところで口から出てくるのを我慢する。そんな彼の反応が面白いのか、リィルはけたけたと嬉しそうに笑っていた。
(ほんと、何なんだよ。こいつ)
いつか仕返ししてやろう。洋介は彼にしては珍しく、黒い思いを抱いていた。
「えー、優香ちゃんばっかりズルいわ。あなたはいつも抱きしめてるんでしょ?」
「し・て・ま・せ・ん!」
優香は自分の母、静香とどこか低俗な言い争いを続けている。ちなみに、まだ脳に酸素が届いていない洋介の耳には二人のやりとりは聞こえていない。
「はぁ、はぁ、ふう」
ようやく息が整ったのを確認して、洋介は立ち上がった。親子二人の方を見ると、まだお互い言い足りないようで言葉の応酬を続けている。
「そもそも、お母さん。何でそんな薄い服で部屋の外に出ているの」
「あら、あなたが戻ってきたみたいだから出迎えにきたんじゃない。それにこの服、あなたと買い物に出る時にも着ているでしょ? 咎めるのなら、その時にしないと」
「そ、それはそうだけど。でもっ、危ないじゃない」
「あら、家の中なのに危ないってのはどういうことかしら。私にも分かるように説明してくれない?」
「せ、説明……」
優香は何とか言い返そうと考えているが、客観的に見て彼女の分が悪いのは明らかだ。優香はいつもより感情的だし、静香はやはり年長者の余裕がある。優香が何を言ってくるのか、静香は楽しそうに待ち受けているのだ。そして、優香の言い分に対する静香の反論に穴が見つからない。
これは難攻不落だなと、洋介は思った。
(しかし、驚いたなぁ)
驚いたのはもちろん、玄関上がったらすぐに抱きしめられたこともそうだが、初めて見た優香の母親が自分の想像とは違っていることだった。
大人びていても、まだ実際には年相応の子どもっぽさが残っている優香。その優香から幼さを引っこ抜いた感じなのが、静香という女性だ。それでいて、肌の若さは標準以上に保っているものだから、洋介は彼女を「おばさん」と呼ぶのに抵抗を覚えている。
相手の反応を気にする洋介だからこそ呼び方に慎重になっているのだが、それを抜きにしても、静香は優香の血縁者なことは一目瞭然ではあるが、母であることは分かりづらかった。
実年齢も洋介の母に比べれば若いのだろうが。それでも、洋介の目に、静香の姿は自分と同じ年齢の子どもがいる女性には映っていない。
それなのに、静香はとても直情的な行動をとるものだから、子どもっぽく映る。その容姿と言動の差異が、静香を見る洋介の目を混乱させていた。
そして、さらに混乱させているのが洋介の記憶と現実の静香との差異である。
(元気だよな、あの人)
優香からは、療養のために田舎に移り住んだと聞いていた。それなのに、少なくとも今の静香を見ていると、わざわざ生活の拠点を移すほど体調が悪いようには洋介は思えない。
(あんな感じで、誰にでも抱きつくのをおじさんが嫌がった……とか)
そんな勘ぐりを洋介がしてしまうくらいには、静香は闊達であった。
そんな静香と洋介の視線が交わる。彼女はニコッと微笑むと、洋介は反射的に会釈を返す。静香はまだ憤慨している優香の傍らをすり抜けて洋介の前まで歩いてきた。
「ほら、澤田くんが立ちっぱなしよ。ゴメンね、優香ちゃんが騒いでるから。こっちにどうぞ」
呆けている洋介を、静香が奥へと誘っている。
「あ、はい。それじゃあ」
未だに混乱している洋介は、促されるままに奥へと歩き出した。
「えっ、あ……」
途端に、ポツンと置いていかれる優香。なぜか自分が悪者にされたことへの、行き場のない苛立ちに拳を握りしめる。
「もうっ!」
そのまま、それをどうしようもできずに握ったまま、優香は二人の後ろについていった。彼女の足は、必要以上に廊下を踏みしめていく。
「ユーカ、なんで怒ってるの?」
目をパチクリとさせていたライツがリィルに問う。優香が先程怒り出したのであればライツにも理由は分かる。アイスクリームを自分は食べていないのに、一度食べてしまったせいで洋介に疑われる時に生じる、どうしようもない感情に優香のそれは似ているからだ。
しかし、実は優香は洋介が静香に抱きしめられた辺りから感情を昂ぶらせていた。その理由が、ライツには想像できない。
リィルはにやにやしながら「ライツには分かんないと思うよ」とだけ呟いて、続いて部屋に入っていく。
「うん?」
意味がわからないが、一人取り残されるのは嫌だ。ライツは洋介の頭の上に戻ろうと、ふわりと飛んでいった。




