洋介の受験奮闘記② 数学はどうすれば?
町中のファストフード店。
洋介はカウンター席に座って、どきどきしながら封筒を開いている。一度見たものだというのに、緊張感は減ってくれない。落ち着いて直視するには勇気が必要だった。
「ふおおぉぉ」
取り出した紙を見つめていた洋介は、こらえきれずに再び奇声を発していた。今度は気にして声をかける者はいない。
近くを通りかかった高校生が何事かと振り返ってはいたが。洋介はそれに気づかないほどに、目の前の数字に心を奪われている。
(え、なんで、なんでこーなってんの?)
洋介が手にしているのは市大付属の高校別模試の結果だ。郵送で受け取っても良かったのだが、無料で対策授業をしてくれるとのことで主催している塾にまで行ってきた。
しかし、授業は正直頭に入っていない。返却された模試の結果に打ちのめされていたからだ。
今はその帰り道。真っ直ぐに帰宅する気になれずに、コーヒーだけ買って時間を費やしている。
模試の話に戻ろう。洋介自身、今回は相当できたと手応えを感じていたのだ。それがどうだ、判定は芳しく無く、今の時期にこれではかなり厳しいと塾の講師には釘を差された。
洋介は外部からの受験だったから、直前の講習を強く塾側には進められた。その勧誘には、多分に大人の事情を含んでいる。本当に無理なら、その場で「さようなら」だ。合格できる見込みがあるからこそ自分の商品を売り込んでいるんだ。
しかし、そんな思惑は、さすがに洋介には分からない。
それに、正直に言えば塾の雰囲気が自分に全く合っていないように感じている。授業に集中できなかったのは、それにも原因があった。
やはり、もともと気が優しく緩やかなペースである洋介が、ガチガチの勝負の世界に放り込まれると、それだけで気が滅入ってしまうのだ。
とはいえ、何とかしないといけないのは事実である。ここで踏ん張らなければ、自分も頑張ろうと、誓った相手に再会した時に顔向けできない。
しかし、見れば見るほど精神的に大怪我を負いそうになる。
「えー、数学何でこんな点数なんだろう」
いわゆる高難易度の問題は時間がなくてできなかった。それでも、やりきった問題でここまで不正解が出ている意味が分からない。細かいミスをやらかしたと考えても、多すぎではなかろうか。
そんな風に思考が色々とあちらこちらに散らばっていた洋介は、隣の席に誰かが座ったことに気づかなかった。しばらく洋介の様子を観察していた彼女だったが、意を決して話しかける。
「澤田くん」
「ふぁい!?」
洋介の口から結構な音量の声が出た。周囲に座っていた数人が驚いて、洋介達を見ていたが特に変哲もない様子だったのですぐに視線を戻していた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「井上さん……いつから、そこに」
ついさっきよ、と優香は答えた。ちなみに、その「さっき」からは、店の外で窓越しに洋介を見つけて中に入ろうか通り過ぎては戻ってきたりして迷っていた時間は除くものとする。
「それ、良かったら見せてくれない?」
優香は、洋介がとっさに腕の下に隠した答案用紙を指さして言った。
「え、これを?」
洋介は戸惑い気味に聞き返す。知也には素直に渡せたが、優香には洋介も恥ずかしさを覚える。
しかし、すぐに考えをあらためた。
(あれ、井上さん。スイッチ入ってる)
優香の視線から有無を言わせぬ迫力が伝わってきたからだ。
洋介の眼前には、学校でよく見る生徒会長時代の優香の表情がある。上級生相手だろうが、教師相手だろうが、自分が納得できないことには一歩もひかない意思がこもった強い瞳。
あまり、洋介相手には見せたことはないが、他の皆がイメージする優香がそこにいた。
これは、素直に従った方が得策だと洋介は大人しく模試の答案を手渡した。
本当は優香が買ってきているのがストロベリーのシェイクだったのが気になっているのだが、とても話題にできる雰囲気ではない。意外と可愛いのを飲むんだね、と言ってしまったら殺されるかもしれないと洋介は思った。
無言でそれを受け取った優香は、やはり険しい表情で洋介の答案に目を通し始める。洋介は、なぜか尋問されている兵士のような心境になっていた。
優香は真剣な面持ちで分析を始めている。
(何でここ、こんな答えがでるんだろう)
優香も同じ模試を受けているから、内容は覚えている。特に注目したのは最後までやり切らないと答えが出てこない問題だ。比較的簡単な問題で正答とかけ離れた数字を書いているかと思えば、かなり思考が必要な問題を正解まで導くことができている。
洋介が「何で」と戸惑っている姿を優香は目撃していたが、確かに不思議な答案だと彼女も思う。
「澤田くん、講習参加した?」
ちなみに、優香は必要がないと判断したので不参加である。しかし、今日行われたことは把握していた。
「うん」
「だったら、問題用紙持ってるよね」
先程から優香に威圧されている洋介は、おずおずとリュックから取り出して優香に差し出した。それも優香は無言で受け取ると、数学だけ取り出してテーブルに広げだした。
優香が注目したのは、答えにたどり着くまでに洋介が何をしているか、だ。
(あれ?)
そのとき、妙な計算式が目に入った。もしかして、と思って他の問題も見てみると同じことをしている形跡がある。
もし、これが原因なら根本的なところで洋介は問題を抱えていると優香は感じた。
「澤田くん、プラス5足すマイナス6っていくつになる?」
急に問題を出されて目をパチパチとさせていた洋介だったが、一年生の問題だ。即答できる。
「マイナス1」
「……じゃあ、マイナス3足すプラス7は?」
もし、優香の予想通りなら。同じ問題だと思って油断している洋介は間違えるはずだ。
「えっと、マイナス4」
優香が想像した通りの答えが洋介の口に飛び出す。それを聞いて、優香は目を閉じ左の人差し指でこめかみを叩き出す。それは優香が考え事をする時の癖であったが、それを見ていた洋介を謎の緊張感が包んでいく。
「澤田くん」
「はい、なんでしょうか」
優香に呼びかけられて思わず敬語で返す洋介。
「中一の計算問題をやり直しましょう。そうね、加法だけでいいから」
「え、僕の数学がポンコツなのってそこから?」
盲点すぎる弱点を指摘されて、洋介は目を丸く見開いていた。
それから数日。
本当に計算問題だけに集中した。どうやら、自分は足し算と掛け算をごっちゃにしていたらしいと洋介はようやく気づくことができた。優香に指摘されるまで、洋介は気づかなかったし、これまでは気にもしていなかった。
そのおかげもあって、過去問ではようやく満足できる点数を取ることができるようになってきた。まだまだ、なところも多いが真っ暗闇だった先行きに光が見えてきたのだ。
「ん~♪」
それにつられて、洋介の態度も少し明るくなってきた。
「なんだ、機嫌いいな。その本、そんなに面白い?」
休み時間になると参考書ばかり読んでいた洋介が今日は別の本を読んでいるのが気になって、知也が声をかけてきた。
しかし、表紙を見た知也が眉根を寄せる。
「え、なに。澤田、今度は女子力を高めたいの?」
その本のタイトルには知也の見間違いでなければ、『はじめてのスイーツ 厳選レシピ』と書いてある。読んでいて、楽しい本とは知也は思えなかった。
「アイスクリームの作り方、載ってないかなと思って」
「アイス? 作るの? なんで?」
知也は頭の上に何個もハテナを浮かべながら、洋介の発言の真意を理解できないでいた。
そして、ここにその発言の真意を理解できる者が一人。
「ふふっ」
彼等の会話に、やはり聞き耳を立てていた優香は思わず微笑んだ。ライツが帰ってきたら作ってあげるつもりなんだな、と思うと暖かな気持ちが彼女の心に広がったのだ。
しかし、近くにいた男子生徒はあまり見られない優香の笑顔にギョッとしていた。
優香が笑うほどに面白い本なのだろうか、と気になった彼は彼女が読んでいる本のタイトルを読んでさらに驚くことになる。
(『できる上司の思考法』のどこに笑う要素が!?)
彼の中で優香の女帝イメージがさらに強固になったことは言うまでもないだろう。




