洋介の受験奮闘記① 社会はなんとか……
これは洋介がライツと別れて、しばらく経ってからの話だ。
「ふおっ」
珍しく洋介が奇声を発するものだから、知也は思わず振り返った。
「どした、澤田」
視線の先では洋介が机に突っ伏していた。あまりに珍しい光景だから、知也の目が点になる。
「いや、ほんとにどした?」
「はははは」
ゆっくりと起き上がった洋介の顔の下から一枚の紙が出てくる。知也も知っているそれが、洋介の奇行の原因となっているのは明らかだった。
「……駄目だった?」
「けっこう」
洋介の声に力はない。
知也は右手を差し出す。見てもいいか、と聞いていると判断した洋介は頷いてその紙を渡した。
「俺には良い感じに見えるけどなぁ」
「よくはなったけど、まだまだ足りないよ」
それは担任の藤沢から渡された実力テストの成績表だ。洋介の学力を示したグラフは良ければ良いほど丸に近づくものだが、かなり大きく広がっている。
数学が一教科だけ、ぺっこりと凹んでいるところが気になるといえば、気になるが。
「え、おまえ、社会こんなにとってんの? あの内容で」
ほとんどミスがないことを表している数字に知也は素直に驚きの声をあげた。社会は知也唯一の得意教科なのだが、今回のテストはほとんど分からなかった。
進路がほぼ決まったことで油断したことが、その理由の多くを占めるのだが。
「おかげさまで、結構本番で思い出せるようになったよ」
洋介の感謝の言葉に目を丸くする知也。そのあと、パチパチと目蓋を動かした後に知也は頷きながらこう言った。
「あれ、効果あったんだ」
「え、単なる思いつきで僕は回されたってこと?」
じとっとした目で洋介に睨まれた知也は思わず視線をそらしていた。
洋介が感謝したのは、ある放課後のこと。
どうしてもテストになると単語などが出てこなくなる、と洋介が言ったのを聞いた知也はあるアイデアを思いついた。
どっかのクイズ番組よろしく、間違えたらペナルティを実施するのだ。わざわざサッカー部の後輩を連れてきた知也は、後輩の持ってきたちょっと良い椅子に座らせた。
おまえには緊張感が足りないんだ、と言われた洋介は素直に従った。知也はどっかの台詞を真似しただけだったが、洋介には思うところがある。
最近になって前向きに考えるようになってきた洋介だが、本質的には自分自身のことについて本気になりきれない部分がある。慣れていないのだ、かつて別れた少女のように全力で駆け抜けることは。
ただ、今から何をされるのかということに納得したわけではない洋介は口を開こうとして、それよりも前に知也が問題を口にした。
不意打ちだったこともあり、なかなか答えが出てこない。知也はなぜか、数を数え始める。
一、二、三……。十と知也が言い終えるまえでに洋介は解答できない。
――タイムオーバー! よっしゃ、回せっ!!
知也の合図で、まだ現役真っ盛りの体育会系の後輩に力いっぱい椅子を回された。何をされるか薄々予期はしていた。しかし、思っていたよりも勢いがいい。椅子が止まった後も、洋介の視界はぐるぐると回り続けていた。
そんな感じで、罰ゲームを回避しよう次々と回答していった結果。知也が考えてもいなかった効果が洋介には現れたようだった。
「でも」
話を変えようと知也が口を開く。
「最近の澤田、気合入ってるな。俺は良いと思うぜ、そっちの方が。ほら、前はちょっと炭酸抜けてたからさ」
独特の比喩ではあったが、洋介には伝わった。
「そうですね」
思わず敬語になる。その「前」の自分については、十分洋介は反省していた。
洋介の様子のおかしさには気づかずに知也は話を続ける。
「夏終わりだったか、澤田につられそうな自分が嫌でさー」
大会で良い結果を残して、推薦を勝ち取りたい。そんな青写真を描いていたのに、チームは一回戦負けで知也も不完全燃焼。このままでは誘ってくれる高校はないぞ、と監督から言われて焦った知也はそこから受験勉強に情熱を切り替えようとしていた。
そんな時、ろくに先のことを考えずにふわふわしているように見えた洋介へ知也は怒鳴ってしまった。今更になって思い出したのだ。
「あんま覚えてないんだけど、酷いこと言わなかったか俺」
――澤田、おまえといたら俺まで腐るっ!
洋介の脳裏に、切羽詰まった表情の知也の映像が映る。直接的に、洋介は腐敗しているという悪口なのだが当の本人は忘れるぐらいの言葉であったらしい。
(……あれ、滝にとってはそんな重い言葉じゃなかったんだな)
そういえば、と洋介は思う。自分は数少ない友人を失ってしまったと月単位で引きずっていたが、しばらくして知也はケロッとした様子で話しかけてきたのだ。
瞬間沸騰、瞬間冷却が知也の欠点でもあり、長所だ。そして、あまり物事を考えずに口に出す。
思い返せば、初対面の時に「なんか、間の抜けた顔してるな」と知也に洋介は言われたのだ。
小学生の時のトラウマがあったため、自分からは他人と交流しようとしてこなかった洋介は面食らった。かつて陰口を言われた時も、ずっとこそこそと直接何か言ってくることはなかったから、たとえ悪口でも真っ直ぐに伝えられるのはひどく新鮮だった。
その後、ぐいぐいと入ってくる知也のペースに付き合う感じで仲良くなっていったんだったなと洋介は懐かしむ。
真剣になってみると、あの時自分に腹を立てた知也の気持ちが洋介はよく理解できた。ひらひらと右手を振って、彼は知也に答える。
「いや、こっちが悪かったから」
さすがにその態度で、自分が何かしら口走ったことを悟った知也は「そっかー、気をつける」とだけ洋介に返した。
「そういえば、僕を回していた滝の後輩ってどういう鍛え方してるの?」
サッカー部、というと服を着てたら知也のように細く見える者が多い認識を洋介はしている。彼の屈強さは、ちょっとそのイメージが覆るほどであった。
「ああ、あいつか。相手チームのボランチに当たり負けしてから急に鍛えだしたんだよ。まだ無理な筋トレはしちゃいけないから、自重トレーニングの本とか買って」
あそこまで鍛えるのは時間がかかるから素直に尊敬するよ、と知也は語る。
「ふ~ん、それって例えばどうやるの?」
洋介はできれば、女の子を一人支えるくらいには力をつけたかった。
「え、なに。澤田、ビルドアップするの?」
思っていた以上に話に食いついてくる洋介に困惑する知也。今日は色々と珍しいことがあるもんだ、と知也は自分の知っているトレーニング方法を洋介に語りだした。
そんな二人の会話に聞き耳を立てている者が一人。
(澤田くん、体鍛えたいんだ)
優香は本を読んでいるかのように装っているが、実はずっと洋介の会話に注意を向けていた。彼女を観察していれば分かることだが、しばらくの間ページをめくっていない。
ムキムキになった洋介を想像して吹き出しそうになったが、表情を崩さないように我慢している。
それにしても、だ。
(あれ、遊んでたわけではなかったのね)
椅子に乗った洋介が回されている光景を、優香は見た覚えがある。洋介の悲鳴に驚いて、空き教室の中を覗いた瞬間に脱力した。
何をしているんだろうと訝しんだが、そういう理由であれば優香も納得できた。方法はどうあれ、精進を続けるには既存のもの以外も模索するべきだと彼女は思っている。
(教科書は良き友。でも、絶対ではないから疑いなさい)
優香は父の言葉を思い出す。もちろん、奇をてらった方法だけだはいけない。自分に必要なものを把握した上で、自身を向上させる術を貪欲に探し求めるのがいい。
その点、洋介には足りていないものがあるなと優香は感じている。がむしゃらにやっているだけだから、あまり自分の立ち位置が分かっていないのだ。
それでは、目標に達することはできない。
(私が受けようと思っている模試、教えてあげよう)
普段は肩肘張っている優香。洋介相手には若干緩和されたが、それでもこれ以上弱みを見せるべきではないと思い力んでいる時が多々ある。
それでも、ごく自然に、洋介の手助けになる方法を考えて、優香は実行している。
その理由は、彼女自身よく分かっていない。無意識に彼と同じ高校に通えるようになることを願っているのだった。




