修行
雨が降っていた。
嵐というほどではない。ただ、じわじわとすべてを濡らしていく、詫びる気配もない、辛抱強い霧雨だった。
畑を柔らかくし、世界中を濡れた木と泥と――どこかかすかに「生き物」めいた匂いで満たしていく、そういう雨。
グリーン・ブレイクの奥、スモークラインの喧騒すら届かないこの場所では、雨はジャングルをまるごと独り占めしていた。
エレオは、クマ師匠の道場裏の畑に、微動だにせず立っていた。
全身びしょ濡れ。毛皮は腕にも胸にもぺったりと張りつき、耳は濡れた靴下のように垂れ下がっている。雨水が顔をゆっくりと伝い落ちていく。
目の前には木製の訓練用人形――のっぺりとした顔、びくともしない体、「一度も本気で殴られたことがない」とでも言いたげな、あの特有の生意気さでこちらを見返してくる。
エレオは動かない。まだだ。
両拳を体の横で固く握り、目を閉じている。雨の届かない何かに、耳を澄ませているようだった。
木の上――訓練の日にはいつもの定位置になっている、葉の茂った太い枝の下で雨をしのぎながら、アビーは分厚い魔導書を膝の上に開いていた。
『初級ルーンスクリプト 第一巻 初心者向けドッカーン入門』
顔も上げずにページをめくる。それから、視線をふと下ろし、畑の中でずぶ濡れのまま固まっているうさぎを見た。
しばらく、その様子を眺める。
「……あのバカ、今度は何やってんの」呟く。「像みたいに突っ立って。しかも、めちゃくちゃ濡れてる、バカな像」
その時――エレオの体に、変化が走った。全身の筋肉が一気に締まり――目が、勢いよく開く。
「うわあああああああっ!!」
飛び出した。人形に向かって、休みなく拳を叩き込んでいく。一発ごとに、拳から小さな水しぶきが飛び散った。
ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ!
――そして、止まった。
自分の両手を見る。
人形を見る。さっきと寸分違わず、無傷のままの人形を。
「……くそおおおおおおっ!!」
彼は芝生の上に、役目を放棄した折りたたみ椅子のように崩れ落ちた。両腕を大きく広げ、顔を灰色の空に向けて。
雨が、鼻に、頬に、閉じた瞼に、絶え間なく落ちてくる。
霧雨の柔らかな音以外、世界は静かだった。
一瞬――ほんの一瞬だけ――それはほとんど、穏やかとさえ言えた。まるで雨が、胸の奥に溜まった重たい何かを、少しずつ溶かしているような。
ぴちゃ、ぴちゃ。
濡れた草を踏む足音。
アビーが傘を片手に、脇に魔導書を挟んだまま、隣に現れた。彼女が「驚きはしないが、疲れる」タイプの状況に向ける、あの表情でエレオを見下ろす。
「エレオ」彼女が言う。「あんた、一体何をしようとしてるわけ?」
「Sオーブの力を、引き出そうとしてるんだ」
エレオは動かず、空を見つめたまま答えた。
「でも全然うまくいかない。もう二日、殴り続けてるのに、何も起きない」
アビーは彼の隣に腰を下ろし、膝を抱えた。「もっと本気出したら?」
「本気だよ」片腕を顔に乗せる。「叫んだり、殴ったり、瞑想したり、激辛麺食べたり――なのに、何も起きない」
「……それ、力の解放の仕方として、根本的に間違ってるわよ」
「必死だったんだよ」
アビーはしばらく黙っていた。それから、少し真剣な声で。
「そもそも――最強の男を探しに行くって、どうやって見つけるつもりなの? 誰も居場所を知らないのよ。どこかの島にいるらしいってだけで。しかも、かなり危険な島だって」
エレオが顔から腕をどける。空を見上げたまま、瞬きする。
そして――がばっと体を起こした。
「おおおおおおおおおおお! つまり、島にいるってこと!?」
「――そう、それを今、私が言った……」
彼はすでに立ち上がり、泥の中で踊っていた。
「よっしゃよっしゃよっしゃよっしゃあああああ!!」
アビーはそれをじっと見つめた。口の端が、平らなままでいることを拒んでいる。
「バカすぎて、逆にちょっとかわいいのが腹立つ」
エレオがくるりと振り返り、両手で空を指差す。まだ雨が顔に降り注ぐ中、まるで嵐そのものが自分を応援しに来たとでも言いたげな笑みを浮かべて。
「僕、絶対にその人見つけてやる! 何が来ても全部ぶっ壊す――僕のスーパーウルトラバニーパンチで!! 最強の男を倒して――伝説になるんだ!!」
アビーは立ち上がり、マントについた泥を払った。
「はいはい。それなんだけどね」
腕を組む。
「あんた、あの人がトップクラスの拳士――ソード・ユーザー――魔法使いだって、ちゃんと知ってるの? しかもそれに加えて、あの人自身のSオーブの力もあるのよ」
エレオが首を傾げる。「え? それ何?」
アビーが、ぴたりと動きを止めた。
「……は?」
「今言ったやつ。ソード・ユーザーとか、魔法使いとか」
「拳士。ソード・ユーザー。魔法使い。知らないって――」
彼女は眉間に二本の指を当て、歯の隙間からゆっくりと息を吐いた。
「あんた、生まれてからずっとこの島に住んでるのよね」
エレオが頷く。「うん」
アビーは顔を両手で覆った。その音が、木々の幹に反響する。
彼女は魔導書を取り出し、メモ代わりに使っている白紙のページを開いて、エレオに見えるように向けた。
「いい? ちゃんと聞きなさいよ。今度こそ、ちゃんと」
「【拳士】――魔法も武器も使わない武道家。自分の体と、技と、常軌を逸した訓練だけで戦う。拳が落石みたいな威力になる。トップクラスになると、動きは大抵の人間の目に映らないくらい速くて、殴られたらまず生きて帰れない」
「【Sオーブ・ユーザー】――これはある程度知ってるわね。Sオーブっていうのは魔法の遺物で、吸収すると永久にその人と融合して、宿ってる魂に応じた固有の力を与えてくれるの。魔法の修行は必要ない」――彼女はそこで、意味ありげにエレオを睨みつけた――「でも、それをちゃんとコントロールできるように、自分で修行する必要はあるの。あんたが今やらなきゃいけないことよ、それ」
「【ソード・ユーザー】――刃物専門家。雷を斬れる人もいれば、自分の闘気を武器に直接流し込む人もいる。危険で、めちゃくちゃかっこよくて――あんたには一生無理だと思う」
「【魔法使い(マジック・ユーザー)】――呪文の使い手。ルーンスクリプトを学んで、杖や詠唱、魔法陣を使う。生まれつき才能がある人もいれば、何年もかけて習得する人もいる」
彼女は本を閉じた。
「頭が良くて、危険で、忍耐強い。……あんたとは、正反対ね」
エレオはしばらく彼女を見つめ、考え込んでいた。
それから、こくりと頷いた。
「おおおおお! なるほど! わかった! ありがとう、アビー!」
彼女が瞬きする。「今の、全部理解したの?」
「うん」
「……ほんとに?」
「完璧に」
アビーは疑わしげに彼をしばらく観察した。
エレオはそれを、大きな目と真剣な顔で、ちょっと雨に濡れたまま見つめ返す。
彼女はため息をついた。「ならいいわ」
エレオは人形の方に向き直った。顎に力を込め、拳を構える。
雨はまだ降り続いていた。変わらず、無関心に。彼はその中に、まるで自分の居場所であるかのように立っていた。
再び、拳の連打を放つ。今度は速く、正確に、本気で――集中力のすべてを腕から拳の先まで押し込むように。
ドンッ。ドンッ。ドンッ。
光らない。衝撃波もない。力の気配すらない。
両耳を掴んで、叫んだ。
「くそおおおおおっ!!」
アビーが眉をひそめる。「Sオーブの力を、拳から無理やり押し出そうとしてる?」
「そうだよ、まさに!」彼が振り返る。「感じるんだ――中にあるのは分かる――ずっと自分の中で、待ってるみたいに座ってるのが分かる――なのに、出てこない!」
アビーはしばらく彼を見つめ、本気で考え込んだ。
それから言った。「たぶん、頭で考えすぎなのよ。無理やり引きずり出そうとしてる」
「じゃあどうしろっていうの!?」
「感じるの。追いかけるんじゃなくて――迎えに行く」彼女は本を脇に挟んだ。「根っこは、ちゃんと知ってる。あんたが許せば、ね。『力を起こそう』とするのをやめて――もう自分がそれを持ってるんだって、認めるだけでいい」
エレオが彼女を見つめる。「……それ、どういう意味?」
アビーがにやりとする。「自分で考えなさい。それが修行ってものよ」
彼は再び人形に向き直った。
雨は止む気配がなかった。畑は浅い水たまりと掘り返された泥でぐちゃぐちゃになっている。毛皮はずぶ濡れ。腕は痛む。日が昇る前からずっとここにいて、何か成果が出るか、足が動かなくなるか――どちらか早い方まで、ここに居座るつもりだった。
それは根っこの深いところにある頑固さだった。グーが持っているのと同じ種類の――島全体が、名前もつけずに当たり前に抱えている、あの頑固さ。
彼は息をした。
吸って、吐いて。
オーブのことを考えるのをやめた。手を伸ばすのもやめた。
ただ雨の中に立って、それをそこに「在らせた」――胸の奥に低く灯る、静かな温もり。クマがそれを自分の手に押しつけたあの日から、導火線のように体を焼き、何か根本的なものを組み替えていったあの日から、ずっとくすぶり続けている炭火のように。
それは、そこにあった。
ずっと、そこにあった。
彼は走った。
「うわあああああああっ!!」
全速力。耳を後ろに寝かせ、全身全霊を注ぎ込んで――数秒で畑を横切り、持てるすべてを込めて拳を人形の顔面に叩き込んだ。
衝撃が伝わる。
そして――それとは別の何かが、そこに現れた。
木と骨がぶつかる音だけではない。何か、湿っていて、鋭くて、まったく新しい音。
ビシャッ。
黒いインクが、拳から四方八方へ噴き出した。
人形の顔面に。自分の腕に。頬にも顎にも、片耳の先にまで飛び散る。
エレオはよろめき、激しく瞬きしながら、口を大きく開けたまま固まった。
木の上で、アビーが肺を殴られたような声を上げた。
「ぶふっ――あはははは――!」枝の上で体を折り曲げる。「今の何!? あんた、絞られたイカみたいになってるわよ!!」
エレオはそこに立っていた。
鼻先からインクが滴る。指先からも。人形ののっぺりした木の顔を、溶け出した絵のように、インクが伝い落ちていく。
そして――理解が追いついた。
両拳を空に突き上げる。
「やったああああ!! やったぞおおおおおお!!!」
泥の中でくるくると回る――完全に箍が外れた、うさぎの勝利ダンス。インクが四方八方に飛び散る。誰に向けてでもなく、誰にでも向けて、叫んだ。
「僕、力に目覚めた!! 僕、役立たずじゃない!! 力があるんだ!!!」
――ずるっ。
両足が同時に地面から離れた。泥の中に、盛大な水音とともに仰向けに叩きつけられる。
「……いった」
アビーは額を枝に押しつけ、肩を震わせていた。
「あんた」なんとか言葉を絞り出す。まだ笑っている。「ほんっと、バカね」
一拍おいて。
「――でも」彼女は下を見た。インクまみれで、泥の中に仰向けに転がり、空に向かってにやけているエレオを。
「Sオーブの能力、ちゃんと手に入れたじゃない」
エレオは雲を見上げていた。まるで「宇宙は自分の味方だ」という確証を、たった今受け取ったばかりの男の顔で。
雨が止んだ。
徐々にではない――ただ、止んだ。まるで何かが決断を下したかのように。
後に残ったのは、澄んだ空気と、濡れた葉の匂いと、天候の後にグリーン・ブレイクがまとう、あの独特の静寂――ジャングル全体が、わざと息を潜めているような静けさだった。
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スモークラインの静かな端、《アイアン・ファング》の二階、アビーの部屋の中は静かだった。
小さな机の上で、蝋燭が一本燃えている。
アビーはベッドに横たわり、胸の上に魔法の巻物を広げ、不安定な灯りの下で読んでいた。
床の上では、どうやったのか自分で毛布を丸めて繭にしたエレオが、静かにいびきをかいていた――使える時間のすべてを、何かを殴ることに費やした者の、正直で重たい眠り。
誰か――ほぼ間違いなくルーシーが、目が覚めて腹が空いた時のために、蓋つきの人参シチューの器をドアの脇に置いていってくれていた。この島がいつもそうするように――まず食べさせて、質問はその後、という具合に。
きしり。
ドアがゆっくりと、慎重に開いた。
ルーシーが顔を覗かせる。狐耳、柔らかな笑み、このバーとこの子たちを何年も見守ってきた者だけが持つ、急がない立ち居振る舞い。
「おやすみ、あなた」
そっと言う。視線はまずアビーへ、それから床の方へ。
「おやすみ、エレオ」
アビーは顔を上げずに微笑んだ。「おやすみ、ママ」
床の上で、片目がわずかに開く。
「……おやすみなさい、アビーのママさん」
ルーシーの笑みが深くなる。ドアを閉める――掛け金がほとんど音を立てないくらい、ゆっくりと。
部屋にまた静けさが戻る。
蝋燭が、天井に柔らかな影を投げていた。
外では、スモークラインの水辺沿いを、夜の最後の客たちが家路につき、歓迎の煙もとうに薄れて、灰色に水面へ溶けていた。
やがて、エレオが、とても静かに言った。
「……ほんとに、やったんだな、僕」
アビーがページをめくる。
「本当に、やったんだ」彼が言う。「力、使えた。インクの力」
「ん」
「めちゃくちゃかっこいいよね」
「まあ、たしかにちょっとかっこいいわね」アビーが認める。
しばらく、彼は黙って天井を見上げていた。
それから――
「もう、考えてあるんだ。この力で、何をするか」
アビーが欠伸をして、巻物を丸めて閉じる。「明日、聞くわ」
「でも、絶対すごいから」
「信じてるわよ。明日ね」
「絶対『バカみたい』って言うでしょ」
「たぶんね。明日」
一拍。
「……わかった」エレオが言う。「おやすみ、アビー」
「おやすみ、バニーボーイ」
蝋燭の火が一度、二度と揺れ――そして、暗闇に落ち着いた。
外では、軒先から最後の雨粒が滴っていた。
スモークラインは静まり返る。
ポーク・アイランドの端に建つバーの、小さな部屋の中で――二人の子どもが眠っていた。
一人はすでに、インクと、自分だけの《渡海》の夢を見始めていた。




