↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/18

エレオという名のウサギの少年

 スモークラインに並ぶ松明の火が、だいぶ弱くなった頃だった。


 誰かが《ザ・テーブル》の上に、古びたテレビを運び込んだ。


 木の荷車に乗せられ、二人の少年が危うく落としかけながら押してくる。それは村の半分が「動くところを見たことがない」というほど年季の入った代物だった。


 長老ハーガンは、テーブルの端で木箱に腰を下ろす。


 杖を膝の間に立てて――テーブルは屋根こそあれ壁のない造りで、ここで起きることは誰の目からも隠れないようになっている。


 農夫たちは腕を組んで立っていた。爪の間には、今日の作業で入った人参畑の土がまだ残っている。


 鍛冶屋の男は、仕事の途中で抜け出してきたのか、エプロンをつけたまま。ベルトにはハンマーが差し込まれている。


 子どもたちは砂の上に、あぐらをかいて座っていた。


 背後では、夕方の歓迎の煙がまだ海の上に漂い、闇の中へ薄れていく。


「音を上げろ、坊主」


 ハーガンが言った。


 先頭にいた少年がつまみを回す。


 映像が乱れる――ノイズ、暗転、また砂嵐のようなノイズ。


 そして画面が割れるように開き、すべてが静電気の白に飲み込まれた。


 そして、彼が現れた。


 ---


 背が高く、まったく動かない。


 シルクハットが顔の半分に影を落とし、風もないのにコートが静かに揺れている。


 杖を軽く握っている――必要のない者が物を持つときのように。


 その視線がカメラを、そして群衆を捉えた瞬間、皆はそれを肩に置かれた手のように感じた。急がず、ゆっくりと、まるでもう何を見つけるか分かっているかのように。


「やあやあ、視聴者の皆さん」


 誰も動かなかった。


 後ろにいた女が、無意識に祈りの首飾りを握りしめる。


 衛兵の手が槍の柄に触れる。


「私は全員のテレビをハッキングした」


 一拍置いて。


「――全員、という意味でね」


 ここは本土の港から船で三日はかかる島だ。スモークライン一帯で最も進んだ技術といえば、今まさに荷車の上に置かれているこのテレビくらいのもの。


 それでも、その言葉は届いた。


 世界の大きさが、群衆の周りに一気に押し寄せてくる。


 この男が何をしたにせよ――それはどこでも、一斉に、全員に対して行われたのだ。


「私が誰か、気になっているだろう」


 彼は微笑んだ。


 だが、その笑みに温かさはない。長く待ち望んだ瞬間を、想像していた通り――いや、それ以上に満足げに味わっている男の笑みだった。


 杖をくるりと一度回し、肩に乗せる。


「私は――現存する最強の男だ」


 沈黙。完全な沈黙。


 パン屋の落としたパンが地面に転がる。誰も、彼自身さえも、それを拾おうとしなかった。


 普段のポーク・アイランドであれば、食べ物を無駄にするなど小さなスキャンダルだ。


 だが今夜、誰もそんなことに気づいていない。


「そして――私は倒されたい」


 沈黙が波のようにざわめきに変わる。


 鍛冶屋の息子が拳を固く握る。


 森の際にいたフード姿の旅人が、ゆっくりと首を傾げる――何か重要な計算をやり直しているかのように。


 長老ハーガンの杖を握る手に、力がこもった。恐怖からではない。もっと古く、もっと注意深い何かからだった。


 画面の中の男が、身を乗り出す。


「最高評議会が私を『最強』と正式に認定してから――そうだな、一ヶ月か」


 声が、囁きではなく、もっと親密な何かに落ちる。まるで親しい友人に打ち明け話をするように。


「教えてやろう」


 一拍。


「――退屈で仕方がなかった」


 群衆の中に緊張した笑いが散る。戦士たちが、無意識に背筋を伸ばす。


「私は姿を明かさない。居場所も言わない。だが、これだけは知っておくといい」


 彼はレンズを真っ直ぐに見つめた。


 その効果は即座に現れる――群衆の半分が、無意識に一歩後ずさった。


「私を倒した者、私を殺した者、あるいは私に『降参』と言わせた者には――報酬を与える」


 手袋をはめた指を一本立てる。


「金貨一兆枚。この世に存在する最高の空飛ぶ船。神話級の武器。使い手と共に失われたはずの呪文を記した魔導書」


 笑みが広がる。


「そして何より――この世界に、自分だけの領地を切り拓く力を与えよう」


 沈黙。


 そして――混乱。


「これは罠か!?」商人の一人が叫んだ。


「あの男は狂っている」誰かが言う。「狂っているに決まってる」


 だが、テーブルに集まった者の中には、じっと動かない者たちもいた。


 野心を持つ者たち。飢えた者たち。


 他の誰もが「狂気」としか聞こえないものの中に、「好機」を聞き取った者たちだった。


 画面の中の男が、姿勢を正す。落ち着き払っている。急いでいない。


「招待状は、すでにすべての世界に送られている。もし受けるというのなら、心得ておくといい――最高評議会は、お前を狩りに来るだろう」


 一秒だけ、その言葉を宙に漂わせる。


「――まあ、それも一興だろう?」


 笑い声。少しだけ長く尾を引くその声。


「では――そろそろ失礼する」


 帽子のつばに軽く触れる。


「諸君の幸運を祈っているよ」


 画面が暗転した。


 沈黙。


 そして、スモークラインの向こうから――拳が木を叩く音と、雄叫びのような笑い声。


「金貨一兆枚だと!? 空飛ぶ船だと!? おれはやるぞ!!」


 砂の上、テーブルの屋根の下で、村は真っ二つに割れた。


 震える者と、笑う者。


 どちらの側も、今この瞬間、今朝目覚めた世界がすでに消え去ってしまったことを感じ取っていた。


 ---


 スモークラインの静かな端に建つ、小さな高床式の家。


 その中のテレビは、すでに暗いままだった。


 食卓には食べかけの器がいくつか置かれている――人参のシチューはほとんど平らげられ、パンの端だけが、空腹というより礼儀のために残されていた。


 蝋燭が一本、細く燃えている。


 床の上――脚を折りたたみ、大きな耳をアンテナのように画面へ向けて座っているのは、エレオだった。


 八歳。うさぎの子ども。最近パンチの打ち方を覚えた、疑問符のような体つき。


 本来、床に座っていい決まりはなかった。だが夕食の途中、誰にも咎められないままいつの間にか床まで移動していた。テーブルの人々を引き寄せたのと同じ「引力」に、彼もまた引かれていたのだ。


 膝の上には、くしゃくしゃになった一枚の紙。下手な棒人間の絵が並び、それぞれに丁寧な字でラベルが書かれている。


 《ぼく》《さいきょうのひと》


 そして一番下、精一杯大きな字で――


 《ぼくがかつ》


 隣、何度も戦争を生き延びたような揺り椅子に、グー爺ちゃんが座っていた。


 老いた顔。あまりに多くを見てきたせいで、驚くことを忘れてしまったような顔。


 かつては最高評議会の一員だったが、スモークラインの桟橋で釣りをする方が正直な仕事だと決めて、身を引いた男だ。


 両手を腹の上で組み、目は半分閉じている。


 画面は暗いままだった。


 エレオの鼻がひくりと動く。


 耳が回転する。


 紙を見る。画面を見る。また紙を見る。


「グーじいちゃん」


 グーが片目を開ける。


「ぼく、さいきょうになりたい」


「坊主」


「本気だよ! さっきのひと聞いた!? あの男を倒したら――」


「最高評議会に狩られる」グーの声は平坦だった。「そして、殺される」


 エレオが瞬きする。耳が少し垂れた。


 だがすぐに、ピンと立ち直る。


「フン。じゃあ、そいつらも倒せばいいじゃん」


 揺り椅子が止まった。


 グーは孫を見る――小さく、馬鹿げていて、完全に本気な生き物。出っ歯で、膝の上に手描きの作戦図を広げている。


 そして手のひらで顔を覆い、椅子が後ろに揺れるほど深く項垂れた。


「最高評議会をただ倒すなんて無理だ」手のひら越しにくぐもった声で言う。「連中は最高評議会なんだぞ」


「だから? もっと訓練する」


「連中には何千人もの構成員がいる」


「じゃあもっともっと訓練する」


 グーは手を下ろし、エレオを見つめた。まるで海に出すぎて、魚に話しかけ始めた男のような顔で。


「坊主。あの評議会の中で、一番弱い奴がどれくらい強いか知ってるか?」


 エレオが首を傾げる。


「……今のぼくより強い?」


「そうだ」


「じゃあ――」


 ゴッ。


 グーの拳が顔面に飛んだ。淀みなく、急がず。長いこと見張っていたハエを叩き潰す男のように。


 エレオはソファに吹き飛ぶ。両足が真っ直ぐ天井を向く。くしゃくしゃの紙が、ひらりと胸の上に落ちた。


 しばらく、そのまま動かない。


「……なんのため?」天井に向かって言う。


「言葉遣いだ」


 エレオが体を起こす。


 ゴッ。


 今度はエレオが動いた。両足を同時に、グーの顔の真ん中に叩き込む。


 老人の椅子が傾く。床を滑って、壁に背中を預けて止まった。


 しばらくそのまま座っていた。親指で鼻を拭う。拳についた血を見る。


 そして、にやりと笑った。


「ハッ」


 エレオを見上げる。エレオはソファの上に立ち、勝ち誇った顔と、自分がやったことに怯えた顔を半分ずつ浮かべていた。


「お前、わしを出血させたな」笑みが広がる。「誇りに思うぞ、坊主」


 エレオの顔がぱっと明るくなる――出っ歯ごと、顔全体が輝いた。


「うん! クマ師匠のところでずっと修行してるからね!」


「だろうな」グーは首を鳴らしながら、これまでの人生でもっと酷い目に遭ってきた男の余裕で立ち上がる。「お前のパンチは――栄養失調のリスみたいだがな」一拍置いて。「だが、何かはある。人参ぐらいの粘り強さはある――お前はあきらめない」


 エレオの耳がぴくりと動く。「待って。リスって何?」


 グーは彼を見つめた。


 蝋燭が揺れる。


 グーはゆっくりと部屋を横切り、大きな手を孫の頭にそっと乗せる。二度、軽く叩いた。自分自身を慰めるように。


「まともな脳細胞が一つもない」呟く。「ちゃんと育てたはずなのに、中身が空っぽとはな」


 エレオが息を呑む。「待って、ぼくに脳みそあったの!?」


 グーは目を閉じ、短く、静かな祈りを捧げた。ザルカーンの森まで歩いて行かなくても届く類の祈りだった。


 体を伸ばす。関節が鳴る。


「よし。わしは明日、発つ」


 エレオの耳が垂れる。「もう? 来たばっかりじゃん」


「分かってる」自分の部屋へ向かいながら。「アビーがいるだろう」


 エレオが唸る。「アビーはつまんないもん。いっつも『殴っちゃダメ』って言うし」


「いいことだ」ドアの前で立ち止まる。「今度こそ身につくといいがな」


 振り返る――孫はまだソファの上に立ち、くしゃくしゃの作戦図を手に、まるで宣言のように顎を突き出していた。


「さっさと寝ろ」グーが言う。「でかい夢には、休息が必要だ」


 ゴッ。


 エレオを枕に叩き込み、そのまま毛布を一気に整え、部屋を出ていった。


 枕からくぐもった声。「なんでさぁ……」


 グーはすでに姿を消しながら、くすりと笑った。「寝ろと言っただろう」


 エレオは天井を見上げたまま、しばらく横たわっていた。


 やがて、毛布の上でくしゃくしゃの紙を丁寧に伸ばし、じっと見つめる――棒人間、矢印、そして一番下、震える字で書かれた《ぼくがかつ》。


 そして丁寧に折りたたみ、枕の下にしまい込んだ。


「起きたら」誰にともなく、静かに呟く。「ぼく、さいきょうになる」


 外では、まだスモークラインがざわめいている。声が木々と編まれた椰子の葉の間を伝い、誰もが今手渡されたばかりの世界をどうするか考えていた。


 家の中では、蝋燭が消えた。


 うさぎの子どもが目を閉じる。


 数秒で、眠りに落ちた。


 ポーク・アイランドの朝は、いつも同じようにやってくる。


 海から吹く潮の匂い。


 窓の外で鳥たちが、島の者にしか半分も聞き取れないような鳴き声で騒いでいる。


 通り沿いでは、最初の朝ごはんの火が灯り、歓迎の煙がもう立ち上り始めていた。


 カーテンの隙間から差し込む淡い光は、部屋全体を金色に染めるような角度で落ちていた。


 エレオは枕に顔を埋めたまま目を覚ました。片方の耳が頭の下に折れ込んでいる。


 そして、目覚めた瞬間から確信していた。


 今日は大事な日になる、と。


 がばっと体を起こす。


 枕の下から、くしゃくしゃの紙を引っ張り出す。


 ポケットに突っ込んだ。


 台所に着くと、グーはすでにテーブルについていた。


 椅子には旅行袋が立てかけてある。急ぐでもなく、朝食を口に運んでいた。


 戸口に立つエレオを見て、グーが顔を上げる。


 寝癖だらけの毛。左右で高さの違う耳。シャツは前後ろ逆。


「座れ」グーが言う。「まず食え」


 エレオは席についた。


 人参フラットパンケーキの山を、グーが一枚食べ終える間もかからずに平らげてしまう。


 それから、祖父が最後の荷物をまとめる様子を、じっと座って眺めていた。


 急ぐことも、迷うこともない、静かな手際――何度も、いろんな場所でこれをやってきて、もう考えなくてもできるようになった男の動きだった。


「ほんとに行っちゃうんだね」


 エレオが言う。問いかけではなかった。


「言ったろう」


 グーが袋の留め具を締める。


 立ち上がり、部屋を横切ると、大きな手をエレオの頭の上に乗せた。


 今回は、叩くのではない。ただ、そこに重みを置いただけだった。


「その馬鹿みたいな笑顔、忘れるんじゃないぞ」


 エレオはにっと笑った。我慢できなかった。


「うん! わかった!」


 グーが鼻を鳴らす。


 袋を持ち上げ、ドアへ向かう。


 そして、枠に手をかけたまま――一瞬、動きを止めた。


 もう一言、言うべきかどうか迷うときの、あの間だった。


 言わなかった。


 そのまま出ていく。


 ドアが、かちりと閉まった。


 エレオはテーブルに座ったままだった。


 外で足音――そして、静かになる。


 鳥たちは、変わらず鳴き続けている。


 カーテン越しの光が、わずかに角度を変えた。


 そして――ようやく、脳みそが追いついた。


「あっ――クマ師匠っ!!」


 彼はドアから、全力疾走で飛び出していった。


 《アイアン・ファング》は、木くずと安酒と――「これから誰かが馬鹿なことをやらかす」時特有の笑い声の匂いがした。


 スモークラインの一番賑やかな端に建つ店だ。他の建物と同じく高床式で、壁がなく、料理小屋と同じ造り。だから騒ぎ声も、逃げ場を求めてこもったりしない。


 ポーク・アイランドで一番騒がしい店――と言っても、そこまで大した称号ではない。島には他に二軒しかバーがなく、しかもその二軒は実質同じ建物だった。


 だが《アイアン・ファング》には評判があった。何年もかけて積み上げてきた種類の評判。強い者たちが、自分の強さを理解してもらえる場所として選ぶ店――そういう評判だ。


 エレオはこの店が大好きだった。


 全速力でドアに突っ込む。家からずっと走り通しで、途中、人参畑のあたりでロバに乗った男を一人巻き込んでもいた(事故だ。ちゃんと謝った。ただし、相手は自分の悲鳴にかき消されて聞いていなかったようだが)。


 テーブルの間を縫い、トレイの下をくぐり、スツールを飛び越え――一番大きなテーブルの前に、両手をバンと突いて着地した。


「クマ師匠っ!!」


 カウンターでは、ルーシー――狐耳、オレンジ色の毛並み、すべてを二度は見てきたような落ち着き――が、顔も上げずにグラスを滑らせている。


 一番大きなテーブルで、クマ師匠が顔を上げた。


 熊だった。


 巨大で、肩幅が広く、生き物というより「座ることに決めた建造物」のような体つき。あちこちボロボロになった質素なカンフー着を身にまとい、太い前脚には木製のジョッキがやけに小さく見える。


 隣では、アビーがジュースを飲んでいた。全身全霊で「我慢」という行為に取り組んでいるような、集中した表情で。


 クマがエレオを見て、瞬きした。


「聞いた!? 放送のこと!! 最強の男! あの――」


「ああ」


 エレオの顔が、収まりきらないほどの笑みで割れる。


「だったら分かるよね! 僕、さいきょうになるから!!」


 クマはジョッキをテーブルに置いた。落ち着き払って。急ぐことをやめた大きな者特有の動作で。


「坊主」低く、静かな声。「お前じゃまだ無理だ」


 アビーが真顔で頷く。「そうよ、エレオ。よっぽど強くないと」


 エレオが胸を張る。「僕強いもん! アビーより強いし! アビーなんて歌ってるだけじゃん」


 店内が静まり返った。


 大げさな沈黙ではない。全員が――まったく同じ瞬間に、まったく同じ結論にたどり着いたときの、あの特有の静けさだった。


 クマのジョッキから、ぽたりと一滴、ビールが落ちる。


 アビーの目が、ぴくりと動いた。


 手が伸びる。


「もう一回言ってみなさいよ!?」


 エレオの耳を二本の指でつかみ、真理を追い求める学者のような集中力で、ぐりぐりと捻り上げていた。


「いたっ、いたたたっ! アビー、やめっ――」


「アビー」クマが言う。「エレオを傷つけるな」


「傷つけてないもん」ぐりっ。「これは躾よ」


「はいはい」


 エレオは自分の耳一本にぶら下げられたまま、両足を宙で無意味にバタつかせていた。


「クマ師匠っ! たすけ――」


「いや」クマがジョッキをあおる。「自業自得だぞ、坊主」


 店内がどっと沸いた。誰かが笑いすぎて酒をこぼす。


 アビーはしばらくして――「やるべきことはやった」とでも言いたげな、静かな威厳を保ったまま――エレオを解放した。


 エレオは椅子にどさりと落ち、頭の横をさすりながら、全身で不貞腐れていた。


 クマがその様子を見つめる。


 老いた熊の目には、何かがあった。優しいというのとは違う――もっと、注意深い何か。まだ何を作るか決めていない、素材を見る職人のような視線だった。


「エレオ。お前、本気で最強になれると思ってんのか」


 エレオが顔を上げる。


 不貞腐れた表情は、もう消えていた。その代わりにあったのは――もっと単純で、もっと澄んでいて、一片の迷いもない何かだった。


「思ってないよ」


 エレオが言う。


「――なれるって、知ってる」


 クマは長い間、その目を見つめ返していた。


 そして――ゆっくりと、大きく、少し危険な笑みを浮かべた。


「じゃあ、見せてもらおうか」


 ジョッキを置く。


「訓練だ。今から。グリーン・ブレイクに行くぞ」


 アビーが両手を合わせ、天井を仰いだ。


「はぁ……また始まった」


 道場の広場は、グリーン・ブレイクの奥深くにあった。


 スモークラインの喧騒はここまで届かない。あるのはただ、密林特有の、よそ者なら方向感覚を失いそうになる静けさ――島の者にとっては、故郷そのものの静けさだった。


 今日は三十人ほど集まっている。ほとんどが《アイアン・ファング》の常連客だ。酒を片手についてきて、すでに「今日は見応えがある」と分かっている観客の顔をしていた。


 クマは広場の中央に立っていた。


 肩の力を抜いて。ジョッキはまだ前脚の中。


 エレオはつま先立ちで跳ねている。耳はぴんと立ち、尻尾も揺れっぱなしだ。広場の向こうで、アビーが両手を口に当てた。


「がんばれ、エレオ!」


 エレオが振り返って、にっと笑う。「ありがと、アビー!」


 それからクマを指差した。


「よし師匠! さっそく――」


「腹を空かせた狼より気が早いな、お前は」クマが言う。


「はいはい――始めっ!!」


 エレオが突っ込んだ。拳を握り、砂埃を蹴り上げ、怒りというより興奮の方が強い雄叫びを上げながら。


 クマは欠伸をした。


 腹をぽりぽり掻いた。


 エレオの拳が、クマの胸に当たる。


 ぽすん。


 温かいクッションを殴ったような音だった。まるで、気づいてすらいない壁を殴ったような。


 エレオが瞬きする。自分の拳を見る。顔を上げる。


 クマも瞬きを返した。


「……それだけか?」本気でがっかりした声だった。


「いたっ」エレオが手を振る。「うわ、硬っ……」


 周りから笑い声。


 そして、クマが動いた。


 ドンッ。


 前脚が振り下ろされる――全力にはほど遠い。だが速い。エレオはギリギリでひねって避け、後ろによろめきながら、心臓が跳ねた。


 さっきまで自分が立っていた場所に、砂埃が舞っている。


 エレオは呆然とした。


 あの図体で――今のは、まるで「考える」よりも速かった。


「……師匠、実は結構強いんだね」エレオが慎重に言う。


「みんな知ってたわよ、エレオ!!」アビーが端から叫んだ。


 クマが肩を回す。「次、避けられるかどうか見てみるか」


「うわ、まず――」


 シュッ。


 クマの姿が消えた。


「どこ行っ――」


 ドンッ。


 軽いチョップが、頭のてっぺんに落ちる。


 エレオは土に顔面から突っ込んだ。あまりにも速すぎて、周りが「今何が起きたのか」を理解した頃には、もう砂埃が収まっていた。


 笑い声が、即座に、全面的に爆発する。


 アビーは両手で顔を覆った。


 エレオは地面から自分を引き剥がし、耳から土を振り払い、完全に状況を受け入れた顔で顔を上げた。


「ちょっと! 生徒を殴る師匠がどこにいんの!?」


「教訓ってのは、こうやって教えるもんだ」クマが一口飲む。「準備は?」


 エレオが飛びかかる。


 左、右、左、右――持ってる拳を全部、休みなく叩き込む。


 だがクマは左に、右に、後ろに、前に、体を揺らすだけ。ジョッキを少し傾けて、こぼさないようにしながら。


 一発も当たらない。


 今度は、周りも静かになった。本当に見入っていた。


「本気にすらなってねえぞ、あれ」誰かが囁く。


 エレオが歯を食いしばって唸る。「避けてないで当たってよ!」


 クマがジョッキを下ろす。「わかった」


「……え?」


 ゴッ。


 裏拳が、エレオを軽く三メートルは吹き飛ばした。地面に叩きつけられ、二回転して、シダの茂みの中で止まる。耳に小枝、顔に葉っぱ、片足だけが真っ直ぐ空を向いていた。


 クマが伸びをする。「ま、こんなもんか」


 アビーがシダの端にしゃがみ込む。「エレオ。生きてる?」


 エレオはゆっくり体を起こした。毛皮のあちこちに枯れ葉が絡まり、目の焦点が少しぼやけている。


「うん」彼は言った。「余裕」


 立ち上がると、足がふらついた。それでも立った。


 クマが近づき、自分の生徒を見下ろす――ボロボロで、砂まみれで、目に入った土を、まるでその土のほうが理不尽だとでも言いたげに瞬きして払っていた。


「もう終わりか、坊主」


 エレオは息をした。ゆっくり。吸って、吐いて。胸の動きが落ち着いていく。


 それから、笑った。


 勇ましい笑みではない。演技でもない。


 ただの、彼自身の笑み――出っ歯ごと。


 昨夜のソファの上と同じ笑み。今朝の食卓と同じ笑み。鳥が鳴くより前に起き出して、足が動かなくなるまでグリーン・ブレイクを走り込んでいた、あの毎朝と同じ笑みだった。


「全然、終わってない」


 クマが動きを止めた。


 観客全員が、動きを止めた。


 エレオは頬の泥を拭い、再び構えを取る。


「師匠のほうが強い。速い。全部僕より上手い。それは分かってる」片足を地面に踏みしめ、体を支える。「でも――僕は弱いままでいるつもりはない」


 沈黙。


 そして、クマが笑った。深く、転がるような笑い――長い間、固く握りしめていた何かが、ようやく緩んだような笑いだった。


 前に出て、エレオの頭に前脚を乗せる。今度は叩くのではない――握る。しっかりと。「これは手放さない」と決めたものを掴むときのように。


「いい答えだ、坊主。テーブルに乗せてもいいくらいだ」


 エレオが瞬きする。「……え?」


「お前は負けた」握る力が少し強まり、それから緩む。「だが、折れちゃいねえ」一歩下がる。「それのほうが、負けたことより大事だ」


 エレオの目が見開かれる。「それって――!?」


 クマは振り返り、グリーン・ブレイクの端へと歩き出した。ジョッキを軽く掲げ、半分だけの敬礼のように。振り返りはしない。


「これからも鍛えてやる」


 観客が沸いた。アビーが、安堵と諦めの中間のような声を漏らす。エレオは両拳を空に突き上げた。


「よっしゃあ!!」


「生き延びたわね」アビーが、自分だけに向けて小さく呟く。「本当に、生き延びたわ」


 ---


 それから続く日々には、決まったリズムがあった。


 夜明け――エレオは太陽より先に起き、グリーン・ブレイクを走り込み、家に戻って、鍋にあるものを何でも食べる。


 朝――道場の広場で、クマにあらゆる方法で殴られ、そのたびにエレオが起き上がる。


 昼――アビーに人参畑まで引きずられていく。殴られること以外の何かをするはずが、結局誰かと言い合いになって、なぜか殴られる。


 夜――三人揃って《アイアン・ファング》へ。エレオはルーシーが出すものを片っ端から体重分食べ、クマは酒を飲み、アビーは小さなノートに几帳面に記録をつける。


 エレオは、速くなっていった。


 クマの攻撃を避けられるほどではない――全然、程遠い。だが「前よりは」速くなった。それだけが、今のところ意味のある物差しだった。


 拳が「ぽすん」と鳴らなくなった。相変わらずクマは動じない。だが、がっかりした顔もしなくなった。それだけで、進歩に思えた。


 五日目には、そのリズムが体に染み込んで、擦り切れかけていた。


 エレオは道場の広場で、うつ伏せに倒れていた。両腕を体の横に投げ出し、頬を冷たい土につけたまま、胸だけが激しく上下している。全身の筋肉が、一度絞り上げられてから、間違った形で組み直されたような感覚だった。


 朝の光が、木々の隙間からまだらに差し込み、地面の上をゆっくりと金色に揺らしていた。


 近くの丸太に座ったクマは、大きな瓶から酒をあおりながら、天気を観察するような落ち着いた目で、その様子を眺めていた。


「よし、坊主」


 エレオが片目だけをこじ開ける。「……な、なに?」


「もうすぐ、ここを発つ」


 両目が開いた。エレオが体を起こす。「――えっ!?」


「危険な仕事があるんでな。ずっとここにはいられん」


 いつもと同じ調子で、まっすぐに、飾りもなく言う。


 それから立ち上がり、コートの中に手を入れた。


 取り出したものが、光っていた。


 深い青。まるでインクのような模様が渦を巻き、表面のすぐ下で何かが眠っているように、ゆっくりと動いている。


 エレオは疲れていたことを忘れた。土の上に座っていたことも忘れた。這うように前に出る。


「な、なにそれ!?」


「Sオーブ。ソウル・オーブだ」クマがそれを差し出す。「受け取れ」


 エレオはそれをひったくった。


 そして――舐めた。


 クマが見つめる。


 木の奥のどこかで鳥が鳴く。島の者なら「ただの鳥の声」だと分かる、意味のない鳴き声だ。風が広場を抜けていき、そのまま去っていった。


「……坊主。何やってんだ」


 エレオが顔をしかめる。「うぇっ――汗かいた石みたいな味――」


「吸収するんだよ。食うんじゃない」


「あ」


 エレオは両手のひらでオーブを包み、目を閉じた。


 一瞬、何も起きない――それから、光がゆっくりと肌に沈み込み始めた。水に落ちたインクのように、じわじわと広がっていく。温もりが後を追う。深く、落ち着いた温もり。自分の奥底で、何かが目を覚ましていくような感覚。


 その温もりが、熱に変わった。


 熱が、炎に変わった。


「ぎゃあああああああああああ!!」


 エレオは地面を転がった。全身の神経が、火のついたマッチに挿げ替えられたような感覚だった。手足をばたつかせる。痙攣する。うさぎの子どもが出すべきではない声を、いくつも出した。


 クマは瓶を傾け、一口飲んだ。


「ああ、そうだ。言い忘れてたが」


「痛むぞ」


「言い忘れてたって何!? 一番大事なとこじゃん!!」


 ちょうどそこへ、アビーが広場の端に到着した。


 地面でのたうつエレオを一目見て、クマを振り返り、指を突きつける。


「――何したのよ、この子に」


「Sオーブを渡した」


「伝説級のアーティファクトを、果物みたいに渡したの!?」


「ああ」


「なんの説明もなしに!?」


「……なかったな」


「あんた、責任ある大人なわけ!?」


 クマは首を傾げ、本気で考え込んだ。


「いや」


 エレオの痙攣が止まった。大の字に寝転がったまま、木の葉の隙間から見える空をぼんやり見上げている。息は荒く、毛皮は十七通りくらいの方向に乱れていた。


「……なんか、ご先祖様が見えた気がする」彼は言った。


 クマがしゃがみ込む。「大丈夫だ、坊主」


 エレオの頭を、一度、二度と叩く――いつもと同じ、静かな重みで。


「そのオーブは、今すぐお前を強くはしない。だが――いつか、意味を持つ」


 エレオは空を見つめたまま。「それって……超パワーが出るとか?」


「いや」


「速さとか?」


「いや」


「……熱線とか?」


「うさぎに熱線がなんの役に立つんだよ」


 エレオはゆっくり体を起こした。両耳が左右バラバラの角度に曲がり、毛皮は完全に大惨事状態。どこからどう見ても、「説明書も読まずに伝説のアーティファクトを吸収した人物」そのものだった。


「じゃあ僕、まだ弱いままってこと!?」彼が叫ぶ。


 クマが立ち上がる。「いや」


 港へ続く道の方へ向き直り、歩き出す。


「お前には――才能がある」


 エレオはその背中を見つめた。「……それ、どういう意味?」


 クマは答えなかった。


 しばらくして、エレオとアビーもその後を追い、三人はグリーン・ブレイクを抜けてスモークラインの港へと向かった。


 オーブは、エレオの毛皮の下でまだ淡く光っていた――土に根付いたばかりの何かのように。それが何に育つのか、まだ誰も知らないまま。


 ---


 空飛ぶ船は、巨大だった。


 スモークラインの小さな港の上に、まるで息を止めたように浮かんでいる。竜の翼、黒々とした船体、低く唸るエンジン音がエレオの奥歯にまで響いてくる。


 島のいつもの、のんびりとした交易船のために作られた小さな桟橋が、その隣ではまるでおもちゃのように見えた。


 地上には存在しないはずの風を受けて、帆が張っている。乗船用のタラップが、まるで差し伸べられた手のように下りていた。


 クマはその根元に立っていた。旅行袋を片方の肩に掛けて。


 エレオの耳は、グリーン・ブレイクを出た時からずっと垂れっぱなしだった。


 船を見る。クマを見る。また船を見る。五日間がどれだけ早く過ぎたか、頭の中で計算して――出た答えが気に入らなかった。


「ほんとに、行かなきゃダメ?」


「ああ」


 クマは自分の生徒を見た――小さくて、ボロボロで、道場の広場にあるものすべてに叩きつけられながら、そのたびに笑って起き上がってきた生き物を。


「だが、また戻ってくる」


 エレオは無理に笑おうとした。ほとんどは本物の笑みだった。


「絶対だからね。今度会う時は、僕、さいきょうになってるから。もう負けない」


「楽しみにしてるぞ」クマがアビーの方を見る。「こいつを見ててやってくれ」


 アビーが、困難だが避けられない運命を受け入れた者のため息をついた。


「わかってるわよ、ええ」


 クマはアビーの頭を、優しく、さっと撫でた。それからタラップを上っていく。


 半分ほど上ったところで、片手を上げた。振り返りはしなかった。


 エレオは両腕を、まるで海の向こうの船に合図を送るように振り回した――実際、それは間違っていなかった。


「バイバイ、クマ師匠っ!!」


「ちゃんと無事に帰ってきなさいよ!」アビーも叫ぶ。


「おう」クマはそう言って、そのまま歩き続け、そして――消えた。


 船が浮上する。二人はそれを見上げていた。雲を背に、どんどん小さくなっていく船を。やがて、低く垂れ込めた灰色の雲を突き破り――そのまま見えなくなった。あとには、青い空だけが残った。


 エレオは、じっと立ち尽くしていた。


 そして――崩れ落ちた。


「エレオ!?」


 アビーが慌てて隣にしゃがみ込む。


 エレオは仰向けに転がって、うめいた。


「……このオーブ、まだ痛い」


 アビーはしばらく彼を見つめていた。それから、隣の砂の上に腰を下ろし、さっきまで船があった、何もない空を見上げた。


「あんた、ほんと救いようがないわね」


 エレオも同じように空を見上げた。ポケットに手を伸ばす――中に入った、あの折りたたまれた紙。


 棒人間。矢印。一番下、震える字で書かれた《ぼくがかつ》。


「うん」


 彼はまだ、笑っていた。


「でも、僕はぜったい、さいきょうになる」


 アビーは言い返さなかった。空はどこまでも青く、隣には親友が寝転がっていて、耳は変な方向に曲がったまま、統計的にはまったく根拠のない何かを、心の底から確信していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。