触れない指先
朝の教室には、独特の温度がある。
夜のあいだに冷え切った椅子と机が、登校してきた生徒たちの体温で、少しずつ熱を取り戻していく時間。空気は薄く湿り、誰かの吐いた息と、誰かの開いた教科書のインクの匂いが混じり合う。春のはじめの教室は、ぬるい牛乳のような匂いがする——氷室透夜は、そう感じたことはなかったが、もしも誰かにそう告げられれば、否定もしなかっただろう。
四月の二週目。
透夜の生活は、変わらなかった。正確には、変わるという概念が、彼の中で機能していなかった。朝、決まった時刻に目覚め、決まった道を歩き、決まった席につく。授業を受け、ノートを取り、昼を過ごし、放課後を流す。彼の一日は、同じ振り子が同じ弧を描き続けるような、機械じみた静けさで満ちていた。
ただ、ひとつだけ——
隣の席に、毎朝、棘のある花が咲くようになった。
藤宮紅羽は、もう「席を譲れ」とは言わなくなっていた。あの最初の朝、結局彼女は隣の席に座り、それ以来、そこが彼女の領土として既成事実化していた。彼女が窓側の席を欲しがっていたのか、それとも別の理由があったのか——透夜は、どちらでもよかった。問わなかった。問う必要を、感じなかった。
その朝も、紅羽は遅れてきた。
予鈴の二分前。長い黒髪が、教室の扉を開けるのと同時に揺れ、彼女はまっすぐに自分の席へと歩いてきた。歩き方には、いつも微かな苛立ちが混じっている。床を踏むというより、床に何かを問い詰めているような足取りだった。
「……おはよ」
低い声。
挨拶というより、独り言に近かった。返事を期待していない口調だった。期待していないと言いながら、わずかに——本当にわずかに——耳がこちらを向いている。彼女自身も気づいていない傾き方だった。
透夜は、ノートに視線を落としたまま、何も答えなかった。
朝のチャイムが鳴った。担任が入り、出席を取り始める。名前が呼ばれるたび、生徒たちの「はい」という声が、教室を順に灯していく。蝋燭に火が移っていくような、規則正しいリズム。
「氷室」
「……」
担任が顔を上げた。透夜はゆっくりと、片手を挙げた。声は出さなかった。出す必要を感じなかったし、それで通ることを、担任もまた知っていた。
「藤宮」
「はい」
紅羽の声は、はっきりとしていた。けれど、その「はい」のあとに、ほんの一拍、息を呑むような間があった。透夜の「無言の手」と、彼女の「声のある返事」の差が、その一瞬に圧縮されていた。
何かが、ちくりと、彼女の内側を刺したのかもしれない。
——けれど透夜は、それを知らない。
一時間目は古典だった。
教師の声が、平安の風のように、教室の上を滑っていく。源氏物語の一節。光源氏が、誰かを思って和歌を詠む場面だった。心を、月に、雲に、霞に、託す。直接には言わない。直接には言えない。だから比喩で包んで、相手に投げる——そういう恋の作法。
透夜の手は、機械のように板書を写していた。文字を写すという行為は、彼にとって、紙の上に光の反射を移すことに似ていた。意味は、別の場所にある。あるいは、どこにもない。
そのとき。
机の下で、ことり、と何かが動いた。
視線を下ろすと、紅羽の指が、机と机のあいだの細い隙間に伸びていた。透夜の机の縁を、指先が、二度、三度、軽く叩いている。爪はきれいに切り揃えられ、薄い桜色のマニキュアが、控えめに光っていた。
伝えたいことが、あったらしい。
けれど、その指は、透夜の手には触れなかった。
触れる、寸前で止まる。
机の縁を叩く、その音だけが、ふたりの間の唯一の言語だった。
トン、トン。
トン、トン、トン。
意味は、ない。あるいは、彼女自身にも分かっていなかったのかもしれない。ただ、何かをこちらに送りたかった。沈黙の中に、自分の存在を、ひとしずく、垂らしたかった。
透夜は、その指を見ていた。
正確には、視界に入れていた。けれど、反応はしなかった。指を引いてやることもなければ、視線を上げて彼女を見ることもしなかった。ただ、自分の手元のノートに、源氏物語の一文を、丁寧に、丁寧に、書き写した。
——心あらん人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを。
(風流を解する人に見せたいものだ、難波あたりの春の景色を)
教師が訳を読み上げている。透夜の耳に、その言葉は、特に意味も持たずに通り過ぎていく。
机の縁を叩く音が、止まった。
横目で、ちらりと、紅羽の手元が見える。彼女の指は、机の上で握りこまれ、白くなっていた。
そして、その手は、ゆっくりと、引き戻された。
何事もなかったように。
——あるいは、何かを諦めたように。
透夜は、自分の中で何も発生していないことを、確認した。胸の鼓動は、変わらない。呼吸は、一定。指先の温度も、机に触れる前と、何ひとつ違わない。
それなのに、なぜか、ノートに書き写した文字の、ひとつだけが、いつもより少しだけ、線が震えていた。
「春」という字だった。
書き直すまでもない、微細な震え。
誰にも気づかれない、微細な震え。
——透夜自身にも、気づかれなかった。
二時間目と三時間目のあいだの休み時間。
紅羽は、廊下に呼び出されていた。
呼んだのは、他クラスの男子だった。爽やかな顔立ちの、サッカー部の二年生。名前を、透夜は知らない。知る必要を、感じなかった。けれど、教室の入口に立つ彼の姿は、廊下の蛍光灯の下で、不自然なほどはっきりと、視界に焼き付いた。
「藤宮、ちょっといい?」
「……何」
紅羽の声は、いつもより硬かった。氷の表面を撫でるような、滑らかで、けれど触れれば切れる類の硬さ。
二人は廊下の窓際で、何かを話していた。透夜の席からは、声までは届かない。ただ、男子の身振りが大きく、紅羽の身振りが小さい。それだけが分かった。
途中で、男子が——笑った。
そして、紅羽の肩に、軽く手を置いた。
ほんの一瞬の、社交的な、無害な仕草。
——透夜の手が、止まった。
ノートに走らせていたシャープペンの先が、紙の上で、わずかに留まった。
なぜ止まったのか、彼には分からなかった。
止めようと、思ったわけではなかった。
ただ、止まった。
機械の中に、砂が一粒、入り込んだような。
歯車のあいだに、見えない何かが、噛んだような。
透夜は、自分の手元を見つめた。シャープペンの芯は、折れていなかった。紙も、汚れていなかった。何も、起きていなかった。
起きていない。
——そう、自分に告げた。
廊下の方を、彼は見なかった。
見なかったのに、自分が「見なかった」ということを、はっきりと意識した。それが、彼の中で生まれた、初めての奇妙な事象だった。意識して、見ない。意識して、無視する。それは、無関心とは、別の何かだった。
紅羽が、教室に戻ってきた。
足音は、いつもより速かった。
席に着くなり、彼女は鞄から教科書を引き出し、机に置いた。置いた、というより、置きつけた。乾いた音が、ふたりの間に落ちた。
「……」
紅羽は、何も言わなかった。
透夜も、何も言わなかった。
ただ、彼女の横顔は、頬のあたりが、ほんのり赤かった。怒りなのか、別の何かなのか、判別はつかない。彼女の指先が、机の縁を、もう一度、叩こうとして——途中で、止まった。
トン。
一度きりの音。
それは、和歌に似ていた。
直接には、言わない。
直接には、言えない。
だから、机の縁に、自分の指先を、預ける。
「……ねえ」
ようやく、紅羽が口を開いた。
声は、低く、ざらついていた。
「……あんたって、ほんと、何見てんの。何も見てないでしょ」
「……」
「目、ふたつあるのに、世界、何も映ってないでしょ」
「……」
「ばかみたい」
そう言って、彼女は、頬杖をついた。
横顔が、髪に隠れる。
その髪のあいだから、ちらりと——彼女の瞳が、透夜を見た。
ほんの一瞬。
水面に泳ぐ魚が、空気に触れて、すぐに潜っていくような、その一瞬。
透夜は、それに、気づかなかった。
気づかないふりを、したのではなかった。
ただ、本当に、彼の中の何かが、まだ、目覚めていなかっただけだった。
——けれど、その日、家に帰る途中、
駅のホームで電車を待つ間、
透夜はふと、自分のノートを開いた。
「春」という字の、線の震えを、見つめた。
しばらく、見つめた。
それから、何事もなかったように、ノートを閉じた。
電車が来た。
桜が、また、どこかで散っていた。




