沈黙という名の刃
力作だよん、見てってー
四月の桜は、誰かの忘れた言葉のように散っていた。
風が吹くたび、花弁は宙に放たれ、地面に着く前に意味を失う。咲いたことも、落ちたことも、誰の記憶にも残らない——そういう種類の美しさだった。
氷室透夜は、その桜を見ていなかった。正確には、視界には収まっていた。けれど、収まっているということと、見ているということは、彼の中では別の事象だった。網膜は鏡に似ている。映すが、抱かない。透夜の世界は、ずっとそうだった。
私立桐峰高校。二年A組の窓際、後ろから二番目。透夜はその席に、まるで初めからそこに置かれていた家具のように、音もなく腰を下ろした。
教室は、春の池のようだった。表面では新学期の歓声が泡立ち、誰かの笑い声が水面を跳ねる。けれど透夜の周囲だけは、不思議と静かだった。彼の周りには、見えない真冬が居座っていた。声をかけようとした者は、その冷気の輪郭に触れて、無意識に踵を返す。誰もが彼を「氷」と呼んだ。あだ名ではなく、定義として。
——その静寂を、踏み砕く足音があった。
ヒールの低い革靴が、木目の床を鳴らす。リズムは速く、苛立ちを内包していた。透夜は顔を上げなかった。上げる理由がなかった。けれど、足音は確実に、彼の半径一メートルに侵入してくる。
「……席、どけ」
低く、刃物の腹で押すような声だった。
透夜はようやく、視線を持ち上げた。
藤宮紅羽。
長い黒髪が、彼女の動きに半拍遅れて揺れていた。その髪は、夜の海に似ていた。光を吸って、奥に何かを隠している。切れ長の双眸は、薄氷の下を泳ぐ魚のように冷たく、しかしその奥には燠火がくすぶっている——そういう種類の目だった。整いすぎた顔立ちが、今は剣呑に歪み、薄く紅を引いた唇が、不機嫌の形に結ばれている。
一年生のとき、同じクラスだった少女だ。
それ以上の情報を、透夜は持っていなかった。持つ必要を、感じてこなかった。
「……」
透夜は答えなかった。答えるという行為そのものが、彼の中で発生しなかった。視線を一度、紅羽の靴のあたりに落とし、それから再び、窓の外へと戻す。桜が、また一枚、散っていた。
無視。
それは意図ではなかった。透夜にとって、応答しないことは、呼吸と同じだった。意識せず、自然に、そうなる。
しかし、無視された側にとっては——それは何よりも鋭い刃だった。
紅羽の頬が、わずかに紅潮した。怒りなのか、それとも別の体温なのか、透夜は判別する装置を持たない。机の上に、紅羽の鞄が叩きつけられる音が響いた。革と金属の悲鳴が、教室の喧騒を一瞬だけ縫い止める。
「ちょっと。聞こえてんでしょ」
返事はない。
「氷室。あんたに言ってんの」
返事はない。
「……っ、あんたねぇ……!」
紅羽は隣の席——透夜の真横——に、半ば叩きつけるように腰を下ろした。椅子の脚が床を引っかき、短い悲鳴を上げる。彼女は腕を組み、唇を噛み、横目で透夜を睨んだ。睨むという行為は、本来、相手に届くことを前提にしている。だが、透夜という男に対しては、視線は氷の表面を滑るだけで、決して内側には届かない。
それを彼女は、誰よりも知っていた。知っていて、それでも睨むのを、やめられなかった。
「……ねえ」
声色が、ほんの少しだけ、変わった。鋭さの中に、湿り気が混じる。それは雨の前の風に似ていた。
「春休み、何してた」
透夜は、答えなかった。
頬杖をついたまま、窓の外の桜を眺めていた。眺めていた、というのも語弊がある。彼の瞳には桜が映っていたが、彼の中では何も起きていなかった。心は凍った湖だった。表面に何が落ちようと、底までは届かない。
「……無視すんなって言ってんの」
紅羽の声が、低くなる。
ガッ、と。
机の下で、彼女の革靴のつま先が、透夜の脛を蹴った。
痛みは、ある。確かにある。神経は機能している。けれど痛みは、透夜の中で「事象」として処理されるだけで、「感情」には変換されない。彼はちらりと、自分の脛のあたりに視線を落とした。それから——再び、窓の外を見た。
それが、紅羽にとっては、何よりも残酷な反応だった。
「……っ、ふざけんな」
蹴ったのは自分のはずなのに、傷ついたような声だった。
紅羽は唇を噛み、机に肘をついて顔を背けた。長い髪が、彼女の表情を覆い隠す。教室のざわめきは続いていたが、その黒髪の内側だけが、世界から切り離されたように静かだった。
——透夜は、それでも、何も言わなかった。
言うべきことが、なかったからだ。
予鈴が鳴った。担任が、よろよろと教室に入ってくる。新学期の挨拶を始めるが、透夜の耳には水中の音のように届いていた。
ただ、ひとつだけ。
隣から流れてくる、ほのかな香り。
シャンプーなのか、香水なのか、あるいは彼女自身の体温が編んだ匂いなのか——透夜には判別がつかない。桜の匂いではなかった。土の匂いでもなく、紙の匂いでもなく、教室にあるどんなものの匂いでもなかった。
ただ「藤宮紅羽の匂い」としか、形容のしようがない、その匂い。
奇妙だった。
彼の感覚は、世界のほとんどを「ノイズ」として処理する。意味を持たない情報は、彼の中で着地する前に消える。けれど、その匂いだけは——なぜか、彼の内側のどこかに、薄く沈殿する。湖の底に、ひとつぶの砂が落ちて、そのまま動かないように。
それが何を意味するのか、透夜には分からなかった。
分かろうとも、しなかった。
担任の声が、遠くで響いている。
「——今年度もよろしく。それから、お前ら、隣の席のヤツとはちゃんと仲良くしろよ。一年間、付き合うんだからな」
教室から、控えめな笑い声が起きた。
透夜の隣で、紅羽が、ほんの少しだけ、震えたのが分かった。
肩が。あるいは、息が。
けれど透夜は、振り向かなかった。
振り向く理由を、知らなかったからだ。
風が、教室の窓を撫でていく。
桜が、また一枚、散った。
誰の記憶にも残らない、その散り方で。
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