第五話 君と僕の小説は
"おかけになった電話は現在使われておりません"
この無機質なメッセージを、何度聞いただろうか。
ため息と共に僕は通話終了のボタンを押した。
無理だろうと分かっていても、やはり落胆は避けられない。
スマホに罪は無いのに、床に叩きつけそうになる。
落ち着こう、そんなことをしても何にもならない。
震える手でスマホを食卓の上に置く。
その横には一人分の食器。
向かいの席はこの三ヶ月の間ずっと空っぽのままだ。
「どこにいるんだよ、仁美」
力なく呟いた。
きっと僕の背中は煤けているなと思いながら、視線を床に落とす。
うっすらと積もった埃が妻の不在を痛感させた。
† † †
「というわけで、僕は妻に逃げられたんですよ」
ドラマでよく聞いた台詞を吐き出した。
口の中の苦みを、ハイボールで流し込む。
この上なく不味い酒だった。
「それは......ご愁傷さまっすねえとしか」
答えてくれたのは、作家仲間の香月先生だ。
ちょうど同じ時期にデビューしたという縁もあり、それなりに仲が良かった。
バンド活動もしているというから、作家としては変わり種の方だろう。
「こんなこと言うべきじゃないんでしょうけど、小説なんか書かなきゃ良かった」
本音がぽろりと飛び出した。
香月先生が「えっ、司先生まじでそう思ってるんすか?」と目を見張る。
頷きながら、僕はまた一口ハイボールをあおった。
「ええ。もともと軽い気持ちで始めた趣味でした。それがたまたま人気になって、書籍化したってだけだったんですよ」
「あー、前にそれ話してたっすよね。他の先生と違って、司先生、ぎらぎらしてないっつーかどこか冷めてましたもん」
香月先生が思い出しているのは、作家同士の親睦会に出た時のことだろう。
麦わらのような黄色い髪をいじりながら、難しい顔をしている。
「とりあえず生!」という誰かの声が、僕らの会話のBGMだ。
「あそこで止めておけばよかったんです。本業があるんだし、別に書くことにこだわる必要はなかった。自分の文章を読んでくれて、誰かが幸せを感じてくれたらいいなって......そう思っていたんです」
酔いが回ったせいだろうか。
閉じ込めていた本音が次々に溢れ出す。
香月先生は黙って聞いてくれている。
「だけど、きっとどこかで調子に乗っていたんです。司まお先生と呼ばれる自分は、他の人とはどこかが違う。心の片隅にそんな奢りがあったから、罰があたったんですよ。何が幸せを感じてくれたらだよ、僕は一番身近な人を」
「ちょっ、先生落ち着いてくださいよ!?」
「一番身近な大切な人さえ幸せに出来ず、失ってるのに! 僕の小説なんて、その程度のものだったんだよ!」
こぼした言葉の勢いでむせた。
視界の端が涙で滲んだ。
胸のつかえを吐き出せたけど、すっきりした気分にはほど遠い。
情けなさで指が震える。
圧し殺したはずの声は、意外に大きかったらしい。
周囲が一瞬静まり返る。
だけどそれも一瞬だ。
すぐに酒場は猥雑さを取り戻す。
「司先生。一言だけいいっすか」
「......どうぞ」
香月先生は生ビールのグラスを置いた。
「俺は別に司先生が悪いとは思わないっすね。奥さんが何か勘違いしてるんじゃないっすか?」
「勘、違い?」
「そう、勘違いっすよ。お二人の馴れ初めは知らないっすけど、そもそも小説のこととか抜きでお二人は知り合ったんでしょ。それでお互いを認めて、ご結婚までされた」
「......そう、だね」
「でしょ。小説書かなくたって、人は生きていけるんす。その人がこれまで歩んできた人生があって、その人自身の価値があるんす。例えば先生なら、薬学部の研究職って言う本業があるっしょ。本業の評価の方が多分意味あるんじゃないすか」
「だと思う。だから余計に執筆なんかしなくてもって」
「そこっすよ。奥さんがおかしいのは、小説の実力とか評価だけで全てを決めつけちゃってるとこっす。人間って、物書きのスキル以外にも色々あるじゃないっすか? 勉強もそうだし、仕事の実力もそう。運動が得意だったり、料理が上手かったりもその一部っすよね。何で小説の実力が無いってだけで、それまでの自分を全否定する必要があるんすか」
咄嗟に返事が出来なかった。
視界が急に明るくなった気がした。
「あ......」と馬鹿みたいな反応しか出来なかったけど、香月先生は笑ってくれた。
「気がついたみたいっすね。小説書く能力なんて、人の能力のごく一部にしか過ぎないんす。ま、これは俺も勘違いしちゃうから自分への戒めなんすけどね。特に『書きたい!』はポイントという明確な数字があるから、余計にはまるんすよ」
「それは分かるよ」
「でしょ? これ、『 書きたい!』ユーザーが一度は経験する通過儀礼っすよね。いやあ、それに書籍化しても人生薔薇色かって言うと、そうでもないっすからねえ。印税は確かに嬉しいすけど、滞納してた家賃払ったら消えちゃいましたし。ラノベって回転速いから、一ヶ月もしたら棚から自分の本なくなっちゃいますしね。それでも楽しくて面白い物語書くのを止められないから、書いちゃうんすけど」
「ああ、そうだね。棚から無くなる時は悲しいものがあるよね。分かる気がするな」
「ま、デビューしてるんだから贅沢言うなって言われそうすけどね。つまり、小説のスキルがあるかないかなんて、その程度のものなんすよ。あるからって人生の問題をぱぱっと解決してくれるわけじゃない。ないからって特に困るもんでもない。奥さんがそれに気がつけば、自然と戻ってくるんじゃないすか」
「そう、かな。そうならいいけどね」
香月先生の説明のおかげか、胸のつかえが軽くなった気がする。
仁美に聞かせてやりたいと思ったけれど、その本人は今どこにいるのかが分からない。
「皮肉だな」という独り言をハイボールの最後の一口で流し込んだ。
「というわけで、司先生。折り入ってお願いがあるんすけど聞いてもらえないっすか?」
「何ですか、改まって。ものによりますけどとしか言えないんですが」
「や、実はちょっと金欠なんすよね、恥ずかしい話っすけど。今日の飲み代、司先生にもってもらえたらなーなんて......ダメっすかね?」
「いいに決まってるでしょ。ほら、香月先生、もう一杯どうですか! それくらいお安いご用ですって!」
「まじっすか、いやー助かるっす! 司先生は神様っすね! お互いこれからも面白い物語書いていきましょー!」
大げさに両手を合わせて、香月先生は頭を下げる。
別にいいのに。
救われたのは、僕の方なのだから。
† † †
ことん、ことんと音がする。
同時にかたかたと何かが動く気配がする。
意識の片隅で、僕はそれを捉えた。
目をこする。
初秋の朝の空気は、穏やかな冷たさだ。
「あ、聖司さん。おはよう。ダメだよ、着替えもせずにリビングで寝てたら」
「はいはい......って、ええっ!?」
文字通り飛び起きた。
ベッド代わりにしていたソファから、僕は床に転がり落ちそうになる。
数歩の距離を隔てて、よく見知った人物が立っている。
「ひ、仁美っ!? え、ちょっと待って、何でどうして!?」
慌てふためきながら、僕は両手を意味不明に動かした。
まて、落ち着け。
昨日僕は香月先生と飲んで、まっすぐ帰宅したんだ。
着替えるのも億劫になって、そのまま寝落ちしてしまって。
「さっき帰ってきたところなの。どの顔下げて戻ってこれたのかって言われそうだけど――ごめんね、心配かけちゃって」
くしゃりと顔を歪めながら、仁美は頭を下げた。
よく見れば、髪がベリーショートになっている。
短くなった髪を補うとでも言いたげに、イヤリングが揺れている。
いつか僕があげたあのイヤリングだ。
「――いや、いいんだよ。君の気持ちも分からなくはなかったから。少し痩せた?」
「うん、ちょっとだけね。本当にごめんなさい、聖司さんのこと放置して、家飛び出して。あれから私、頭冷やしてよく考えたんだ。書くことってほんとは楽しい趣味であって、人と競ったり比較することが全てじゃないんじゃないかって」
「うん」
「そして、司まお先生というのは聖司さんの一面であって......私があんまり小説書くの上手くなくても」
「うん」
「やっぱり私は、聖司さんのこと好きなんだなって気がついて......すいません、上手く言えなくて」
「構わないよ、君が戻ってきてくれたなら」
出来る限りの優しさを込めて、僕は仁美の肩を抱いた。
この三ヶ月の間、彼女は色々と悩んだんだろう。
そしてそれは僕も同じだった。
聞きたいこと、話したいことはたくさんある。
だけど、それはこれからゆっくりと会話して、お互いに理解していけばいい。
城木聖司と城木仁美として、司まおと一ノ瀬みれいの小説について、ゆっくり向き合っていこう。
今度はお互いに何も隠さず、正直に。
頭を上げながら、仁美が照れ臭そうに笑う。
どうやら涙を見られたくはないらしい。
昔からそうだったな、君は。
変なところで意地っ張りでさ。
「朝ごはん食べるでしょ。私がいない間、聖司さんちゃんと食べてた? 少し痩せたように見えるけど」
「あ、うん、まあその適当に」
「やっぱり。ちゃんと食べなきゃダメよ。貴方の作品待ってる読者さん、たくさんいるんだから」
少し間を置いて、仁美は「もちろん私も楽しみにしている一人です」とつけ加えた。
じわりと眼の端が潤みそうになり、瞬きをしてごまかす。
わざとらしい咳払いをしながら、帰ってきた妻に答える。
「ありがとう。もちろんこれからも書くよ。今さらやめられそうもないしね」
「良かった! あのね、私もまた書こうと思うんだ。新作考えたんだけど、タイトル聞いてくれる?」
「もちろん。何ていうんだい?」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、仁美は執筆用のノートを開いた。
僕はそこに書かれた文字を目で追う。
「参ったな、これは」
苦笑が一つ、続いて明るい笑いが一つ、僕の心を駆け抜ける。
だってそうだろう、こんなタイトルを見たなら笑うしかないじゃないか。
ちょっと読んでみようか、と誰だって思うだろうさ。
『妻が底辺作家なので書籍化作家の僕は胃が痛いです』なんてね。