月棲獣「相変わらずだなぁ」
「あの野郎、何時も俺の邪魔ばっかしやがってよぉ!」
ガヤガヤと、普通の人間がこの場にいるならば一瞬にして気が触れるような声、音で充満している、この騒がしい店の中、黒い皮膚、長い円錐形の頭、顔はなくて底が見えない漆黒の闇に染まる穴、捻れ狂った細長い腕の先には三本の爪のような鈎爪、表記することすらも阻まれる胴の先には、まるでこの醜い化物を支えるかのように生える三本の足。それはこの世にあってはならないと、きっと全ての人がそう思う悪魔。邪悪で、その底なしの穴から響く声は常人の精神を狂わせる音。吐き気を催すその姿は、人智を超え、想像することすらをも憚かる無貌にして千の顔を持つ邪神。畏怖と忌避を抱いて、全ての者は彼の者をニャルラトホテップと、そう呼ぶ。
この、存在することすらをも憂鬱にさせる狂気の使いは、そのグロテスクな指で持っているジョッキに入っている黄金色に染まる、甘ったるい蜂蜜酒を一気に呷る。
「かぁーっ! 俺はこの一杯の為に生きている! なぁ、お前もそうだろ!?」
「ニャルさん、ストレス溜まっているからってはっちゃけすぎっすよ……信者が見たら絶対ドン引きしますって」
ぺチャクチャと下品な音を吐き散らかし、荒れ狂う邪神を宥めるのは、灰色がかった白い、脂ぎった巨躯。その様相はカエルのようで、しかし決定的に違う残酷さが滲み出ている。そして何より、瞳はなく、鼻面からは毒々しいピンク色の短い触手が蠢いている。夢の国では拷問を愛好する種族として知られている月棲獣、ムーン=ビーストである。
まるで陳情するかのように宥め、目玉が浮かぶお猪口を傾ける。中に入っていたのは、透明でありながら、禍々しさを隠しきれていない液体だ。
「うわ何それ趣味ワルッ。つうか、お前らの種族基本的に趣味悪いよな。レンの男を拷問したりさ。男を拷問してなにが面白いんだよ」
「いや、ニャルさんに言われたくないっすよ。なんすか、ちょくちょく地球に行って壊すだけ壊して帰るとか……アザトース様は絶対にそんなこと命令してないっすよね」
「あぁん? ちゃんと命令を遂行する上でやってるに決まってんだろ。仕事人を舐めんなよ。というより、命令って言ってもフルート吹きを攫ってこいとか、新曲の楽譜パクってこいとか、CD買ってこいとか、そんぐらいだし」
「それだけで高給とかパねぇっすわー……そういや、この間珍しく怪我して帰ってきましたよね。どうしたんすか?」
「そうだよ、それだよそれ!」
邪悪な咆哮が店に響いた。ガンッ、とその凶暴な腕をムチのようにしならせ、ジョッキをテーブルに叩きつける。邪悪な妖気を爆発させ、一瞬地獄のように、泣き叫び、苦しみに悶える怨声を聞いた。体は膨張と収縮を絶えずに繰り返し、不定を体現する。常に変わらない箇所はなく、怒りに耐えられない様を表していた。
「あの糞野郎、また俺の邪魔をしやがった!」
「あー、クトゥグアっすか?」
「そうだよ! あのヤク中、もう少しで出来そうだったのにいきなりホイホイ召喚されやがって!」
破壊的な、破滅的な怒声を吐き、残っていた蜂蜜酒を飲み干し、「テケリ・リ! テケリ・リ!」と奇怪な嘲り声を叫ぶ醜悪な肉塊の店員におかわりを命令する。ムーン=ビーストにその底なしの穴を向け、狂気に染まったかのように怒鳴り散らかす。
「あの糞野郎、俺んちを焼くだけに飽き足らず、趣味も邪魔しやがる! 一回とっちめてやらなぁいかんと思うんだが、どう思う!?」
「いやでもニャルさん、あなたアイツのこと嫌いというか、苦手じゃないっすか。前にアイツのせいで火傷したって泣いてたじゃないですか」
「んなわきゃあねぇだろ!」
「いや、その泣き声のせいで何匹か狂いましたし。そしたらニャルさん『軟弱者め!』って突然キレて、連帯責任で五、六百匹くらい連れてアザトース様のダンスパーティーに連れて行かれてから帰ってきてないんすけど」
「あー、あいつらピョコピョコ変な踊りしかしてなかったから、アザ様ブチギレて殺してたわー。生き残ったのもロビグスのダンス講座に強制的に通わすことになったっけ」
「もうあいつらキノコ確定じゃないっすか……」
その非情の事実に、ムーン=ビーストは悲しみの呻き声を鳴き、お猪口の中に入っていた目玉をグチャグチャと汚らしい音を立てながら食う。口の端からは透明の液体を垂らし、床を汚す。
「くそぅ、あの中に金貸して返してない奴がいたんすよ! 利子付きで三年は好きに拷問できたのに! 今夜は自棄酒じゃー! すみませーん、落し子のゲソ揚げとザイクロトルサラダ、あとシャンタク鳥のカラ揚げ!」
「テケリ・リ! テケリ・リ!」
「……毎回思うんだけど、あれで本当に分かってんのかな?」
「一応注文は合ってますし、いいんじゃないっすか? 皆、あいつらが間違えたら遠慮なく殺すし、必死だと思うなぁ」
「偶ぁにイライラしてたりする時にあの声聞いて、腹立って殺す時もあるんだけどなぁ」
「最悪だなあんた! ――あっ、ツァトゥグァさんに喰われた」
「叫び声が汚ねぇ。『テケリィィィ・リィィィ!? テケリィィィ・リィィィィィィ……』って丁寧に二回言うのに」
「アイデンティティなんじゃないんですかねぇ」
再び濁りきった目玉の入った飲み物というあまりにも冒涜的な酒を飲み、汚らしく下品なゲップをする。その直後、クスクスクスという押し殺した嘲笑がムーン=ビーストの耳に入った。それは、唾棄すべき趣味が邪魔されたという、いら立ちの残る、ムーンビーストの精神を逆撫でるには十分であった。
「あぁ? 今笑ったのは誰だよ、おい」
「クククッ、悪いね。あんたがあんまりにも品がなくてよ、ついつい笑っちまったんだよ。許してくれや」
そう粘着質な声を持って答えるのは、揺らめき、燃える炎。いや、正確には数千もの光の点の集合体であった。だが、燃えるような熱さと、隠しきれない火の気によって、それが炎の化物であるというのがすぐさま分かる。分別せず、ただ燃やすという意志を持つ、炎の精。他でもない、クトゥグアの手下である。それが、3つ。クスクスと嘲笑いながら、驚くふりをする。
「おやおやぁ、ご一緒にいるのはニャルラトホテプ様じゃぁありませんかぁ? どうしたんですか、アザトース様の近くにいないなんて珍しいですねぇ」
驚くことに、炎の精は邪悪の根源たるニャルラトホテップを嘲笑の対象に移した。消される、殺されるという不安を一切持たず、馬鹿にするようにねちっこく、まるで苛立たせようと口にする。ムーン=ビーストは、あの最悪の邪神が、悪質で、禍々しい怒気を爆発させるとばかりに身構える。だというのに、常軌を逸する出来事が起こった。なんと、その最悪の邪神が、妖気を漂わせながらも、押し黙っていたのだ。有り得ない出来事が起こったと、ムーン=ビーストは目障りな触手を硬直させる。そして、一瞬で疑問が解けた。
「くけけ、いやぁ、クトゥグア様を怖がって出てこない、いや出てこれないとばかり思っていましたからねぇ」
「テメェら、恥ずかしくねぇのか……!?」
「ん、なにがだよ?」
「このクソッタレ、虎の威を借りやがって!」
「はぁ、なにいってんだよ」
気色悪く、光の点の塊が歪む。馬鹿にするように、驕り高ぶり、金切り声にも似た悪魔の笑い声をあげた。
「テメェら、ムーン=ビーストだってそうじゃねぇか。ドリームランドじゃあこのビビリの威を借りて調子に乗ってんだろうが。何が『恥ずかしくねぇのか』、だ。それを言ったらテメェらもだよ!」
凶悪に、光った。瞬間、周囲の塵が炎を上げる。世のものでは有り得ない業火を逆巻きながら、怒りを表す、まるで空間に染み付くかのような炎が顔を作った。怒りに歪む、まるで気が狂ったかのような男の顔だ。
「いい加減息すんの止めろや、この汚らわしい、所詮槍を投げる程度の頭しかねぇ低脳が」
ニヤリと、炎の顔が歪む。
「一緒にお前の仲間と、そこにいる怖がりの雑魚も送ってやるからよ」
バチッ、と雷にも似た光が奔る。それは悪魔のような形相のムーン=ビーストを殺さんとするプラズマ光であった。瞬間、炎がムーン=ビーストを包んだ――ように見えた。
「あ゛?」
「いい加減調子にのんのやめろや」
黒い、全てを引き裂けるような凶暴な鈎爪が光の点を払う。同時に、炎の顔が消え、プラズマ光も消えた。光の点さえも。
「つうかよ、なんか勘違いしてね?」
もうひと振り。もう一つの炎の精も消えた。
「俺はあんな奴怖くねぇんだよ、ビビってもねぇ。だってなぁ――」
ひっ、と一つ残った炎の精が息を呑む音がした。
――恐怖。目の前に現れた混沌が、あまりにも無秩序で、容赦なく、あらゆる感情を、あらゆるものを撒き散らし、拭えない汚れが、炎の精の精神を犯す。そのそこの見えない穴の中、見てはいけないものを見てしまったように、まるでその他の何よりも暗い闇に染められてしまったかのように、光が消えていく。濃厚で、ごちゃごちゃとした理解できない感情が、炎の精を支配した。
「――アザ様の近くにいたら早々手出しされねぇし、いつか消してくれるしな」
「最悪だよあんた!」
炎の精は、掻き消える。
「というか、あいつらが言ってたこと聞こえなかったんすか? もしかしたらクトゥグアの野郎、報復に来るかもしれませんよ」
「いや、大丈夫だって。炎の精とか無限ポップするし。あいつ放射線だかなんかで狂ってからは、ヤク中状態だからまともな精神状態じゃねぇから。報復なんか考えられねぇっつうの」
「はぁ、そうっすか……(流石腐れ策士)」
「まぁ、気がかりなのが――」
「――ニャルさん! また家焼かれてますよ!」
「あぁっ、あの糞野郎! また家を焼きに来やがって! この間新築に引っ越したばっかなんだぞ!」
(あぁ、気がかりってこれか)
「もう我慢できねぇ! お前んとこのコロニーの奴らを集めろ、フォーマルハウトに攻め込むぞ!」
「いやいやいや、全滅じゃないっすか!」
「大丈夫だ、問題ない!」
「全然大丈夫じゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!」
――異界は今日も禍々しい平和があった。