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河原

————楠さん、見て下さい


 三ツ木さんは真っ平らな石を掌に乗せて差し出した。

「こういう形の石がいいのです」

 私たちは今、家事をサボって河原で遊んでいる。サボっているとは言え、専業主婦も楽ではない。ちょっとした休憩みたいなものだ。今日は旦那の帰りが遅いので、子供たちを寝かし付けさえすれば家を抜け出すのは簡単なのである。

 三ツ木さんは夕方、うちに電話をかけてくると、夜に河原でご一緒しませんかと私を誘った。何故夜なのか。理由は簡単である。その時間帯こそが専業主婦にとって暇になる時間だからだ。明るい時間帯は家事で家を動き回っているし、子供が起きている時間は一時も気が抜けない。だから子供が寝る時間こそ、主婦業の休憩時間になり得るのである。

 無理がある? そうかもしれない。勿論大人としてどうなんだとかそういう自嘲じみたようなことも考えないではないが、まあたまにはいいだろう。


 いやしかし、まさかこの歳になって河原で水切りに興じることになるとは思っていなかった。

 三ツ木さんは無邪気だ。

「よっ」

 三ツ木さんが綺麗なアンダースローで石を投擲すると、石は綺麗に水を切って向こう側の岸まで行ってしまった。

「凄いね、三ツ木さん」

「昔から水切りだけは得意なんです。オリンピック水切り選手権大会があったら、私、主婦をやっていなかったと思います」

 大きく出たな。しかし確かに上手いのだ。水切りが得意であるというのはそれとなく聞いていたけれど、実際目にしてみて、得意という言葉すら謙遜だったのだというのが判った。

 異様にフォームが綺麗なのだ。あのフォームを後世に残して人々に広めれば、本当に水切りがオリンピック競技として受け入れられかねない。出来れば明るい所で見てみたい。電燈がポツポツと建っているから視界に問題はないけれど、しかしあれだけ美しいものはしっかりと目に焼き付けておきたい。

「ホント凄いよ。誰かに教えてもらったモンなの? そのフォーム」

 私が訊くと、三ツ木さんは妖し気に微笑んだ。

「私、河童に会ったことがあるのです。その時に教えてもらいました」

 三ツ木さんは可愛いなあ。こういう、同じ三十歳とは思えぬお茶目なところが何とも私のツボに入る。

「本当なんですよ?」

「本当——なのかな?」

「本当なんです」

 まあ三ツ木さんの言うことだ。無条件に信じよう。

「私、昔はあまり人付き合いが得意ではありませんでしたの。今でも得意ではありませんが――まあそう言う訳で、小学生の頃は一人で遊ぶことの方が多かった訳ですね。でも独り遊びと言っても、家に閉じ篭っていることはプライドが許しませんでした」

「お、意外と意地っ張りなんだね」

 そういう所も可愛い。

「そうなんです。あれは完全に意地でした。だから川で水切りばかりやっていたのです」

「なるほど。でも普通女の子って学校で縄跳びとかやるものじゃない?」

「はい。多分私は迷走していたのでしょう。当時は気付きもしませんでしたけれど」

 そうして三ツ木さんは語りだす——


 ある日のことです。私は何時ものように水切りに興じていました。石を探しては投げ探しては投げ。それはもう夢中でした。

 何度目かも判らぬ投擲の瞬間、そんなんじゃ駄目だねと草むらから声をかけられたのです。

 女の子の声でした。声の方を向くと、そこには甲羅を背負ったカエルのような生き物が二本足で立っていました。目は猫のようにギラギラとしていて、私はそんな野生の目に戦きました。

「おい、私を怖がるのか? 酷いぞ。酷い酷い」

 彼女の口調は何だか片言でした。イントネーションは問題ないものの、言葉選びがちぐはぐな感じだったのです。

「おい人間の女の子、私が石の投擲方法を教授してやるのだから我慢しろ」

 私はまだ恐怖から抜け出せません。

「怖がるなあ!」

 彼女は水掻きの着いた足をだんだんと鳴らして憤慨の意を伝えています。

 私はその時直感しました。この子は河童に違いないと。

「私のこと、食べない?」

「食べることなどない! 私はナメクジとか水草とか大好き好物! お前は何が好物?」

 その言葉を聞いて私は心底安心しました。

「私は秋刀魚が好き」

「美味しいもんな! 秋刀魚は美味びみしいからな!」

 少しづつではありますが、私は彼女と打ち解けました。名前も訊きました。彼女はソーニャと名乗りました。

 ソーニャは最初に言った通り、私に水切りを教えてくれました。

「あのなー、石はこんな形をしたヤツがよくてー、構えはこう。石を放すときは脇を締めるのが本丸なのだ」

「こう?」

「そうなんだよ! かえでは合格だ。人間にしてはやるな! 私も人間語、上手じょうずいだろー?」

「うん。上手」

 どうやら河童の言語と人間の言語は違うものであるらしいのです。だとしたら問題なくコミュニケーションが取れるソーニャは人間語が達者であったと言って差し支えはなかったのでしょう。

 ソーニャには河原へ行けば何時でも会うことが出来ました。

 私は河原に通い詰めて、暇さえあればソーニャと遊びましたが、五年生に上がる頃、ソーニャは突然河原に姿を現さなくなったのです。

 きっと人間の前に姿を現すのは宜しくないことだったのでしょう。ご両親に窘められたのかもしれません。

 私はそうして友人を失いましたが、ソーニャのおかげで人付き合いというものを学ぶことの出来たので、その後はきちんと人間の友達をつくることが出来ました。


「——ソーニャは元気にしているでしょうか。また会ってみたいものですわね」

「へえ、そんなことが」

 不思議なこともあるものだ。不思議といえば――

「ソーニャってロシア人名だよね?」

 大学でロシア語を受講していたので、これには気付くことが出来た。

「ええ、ソフィアの略称。渾名みたいなものでしょうか」

「何で日本に住んでいるのにロシアなんだろう」

 おかしな河童だ。

「さあ。河童の世界には国家の垣根がないのかもしれませんね」

 自由だなあ。

「まあでも、この話の真偽に着いては私自身も疑問を抱いています」

「ん? どういうこと?」

 自分の体験談に疑問を持つというのか。体験談ならば、言葉の通り自分の体験したことなのだから疑う余地などないように思えるが。

「イマジナリーフレンドを知っていますか?」

 聞き慣れない言葉だ。

「何それ?」

「空想の友人。本人の空想の中にだけ存在する友人のことです。解離性同一性障害の一症状として報告されているらしいですね。といっても幼少期には別段珍しいことではないらしいですが」

 なるほど。証言者が本人だけで、客観性に乏しいというのが記憶を疑う理由か。

「でも、それにしたって何で河童なんだろう? それにロシア人名ってのもよく判らない」

 そういう症状は自分の知らないようなことは具現化しないはずだ。河童はともかく、小学生がロシア人名を耳にする機会なんてあるのだろうか。

「それはその時、私が文学作品に触れていたことから説明がつきます。ロシア文学、日本文学、英米文学。その辺りを読み漁っていましたから、そこから引き出されたのでしょう」

「え? 小学生のころから文学? そりゃ凄い……」

 私なんて国語の教科書を音読するのすら億劫だったというのに。

「そうですか? 面白いですよ。でも確かに小学生の乏しい語彙ですから、読むのに多少の苦労はありました」

 ソーニャのちぐはぐな言葉選びというのは、文学への戸惑いとみていいのだろうか。


「まあそんな不思議な友人のおかげで、私は水切りが大の得意になったというわけです」

「そっかあ。何だか不思議な話だねえ」

「ええ。本当に、出来ることならもう一度会いたいです」

「想像にしろ実在にしろ、存在したのが確かなら絶対会えないってことはないと思うけどねえ」

「そうですわね」

 三ツ木さんはニッコリと笑う。そして一息いれ、戻りましょうと提案した。

 結構話し込んでしまった。そろそろ旦那が帰ってくる時間だ。


 私たちは河原に背を向け、帰路についた。

 公道へ戻る階段を登っている時——

「До свидания」

 と聞こえた気がしたが、きっとそれは私が少し感傷的になってしまったが故に聞こえた幻聴なのだろうと思う。

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