地下鉄
昔はよかったとか、そんなことはさらさら思わないけれど、少なくとも今よりはましだったとは思う。何時も本ばかり読んでいた寂しい青春ではあったが、それはとても穏やかな時間だったと思う。
それが今では煩わしい人間関係に翻弄される毎日だ。決して不満ばかりという訳ではないが、それでもこう疲れてしまうと嫌になってしまう。
現実。全く以て現実だ。嫌なこともあれば好いこともある。疲れも溜まるはずだ。こんなに疲れるならばいっそ何も起こらないでほしいとさえ思う。喜び疲れて、憂い疲れて、疲れ以外は何も手に入らない。充実感を味わった経験など一度としてないし、満足感など望むべくもない。何をしても疲れるばかり。
だから私は地下鉄のホームのベンチで電車を待っている。何も起こらないでほしいと思っているだけでは駄目なのだと気付いたのだ。平穏を取り戻すための最後の行動。今から私は線路に飛び込む。この時間帯は空いているからやりやすいはずだ。しくじるわけにはいかない。私は穏やかな時間を奪還するのだ。
——じゃあ足くれよ
声をかけられた。しかも相当に不穏だ。
隣の席を見ると、具合の悪そうな顔をした女性が気怠そうに足を放り出して座っていた。
いや、足は放り出すまでもなく——なかった。
「死ぬなら足くれよ。死ぬんだからいいだろ? 私も生きようとしてるヤツから取るほど悪霊じゃねえんだ。けど、あんたは死ぬんだろ? だったらくれよ」
女は淡々と続ける。
何だこれは。あまりに非現実。異常事態と言ってもいい。
「何? 死にたくないの? この期に及んで死にたくないとか思った? まあそれならそれでいいけど。私がとやかく言うもんでもないしさ」
「何言ってんのよ……私は死ぬわよ。何なのよ、あんた……」
声が上擦ってしまう。
「何? 何に見える? 人間に見える?」
「見える訳ないでしょ」
「だろうな。まあ、きっとその内カシマさんだとかテケテケだとか呼ばれるんじゃないのかな」
女の声に抑揚はない。冷たい喋り方だ。
「ふざけないでよ……」
「ふざけてなんかないよ。怪異の名前ってのはそうやって決まっていくのさ。まあそんなことはどうでもいいか。ともかく、私は足がほしい。そんであんたは死にたい。だから私はあんたから足を貰う。取引成立しそうでしょ?」
「取引なんかしない。取引、駆け引きの類いは疲れるだけ。疲れるのが嫌だから私は死ぬの。最期まで煩わせないで」
こんな訳の判らない幽霊とも幻覚ともつかないものに最期を汚されるのは許せない。人と話すのは疲れる。いや、彼女は人ではないけれど、そもそも会話という作業が疲労の原因になる。
「疲れるから死ぬなんて、贅沢だねえ」
「この国の人間は遅かれ早かれ疲れて死ぬのよ」
「確かに、それも違いねえ」
「判ったら何処かへ行って」
「いやいや、死ぬなら勝手に死んでくれ。あんたが死んだら私も勝手にあんたの足をいただくからさ」
疲れる。疲れる疲れる疲れる。こいつも結局人間と同じだ。私という人間と関わることにメリットを見つけて、何食わぬ顔でそれをかすめ取っていく。私はこんなにも疲れているのにそんなことなどお構いなしだ。もっと私に気を遣え。いや、気なんか遣わなくていい。それもまた疲労の原因になる。余計な気遣いなんていらないから、とにかく私に関わらないでくれ。疲れてしまう。
「顔色悪いねえ。私に勝るとも劣らないよ。もう既に死んでるみたい」
「判っているなら放っておいて」
「そうやって意地を張るから疲れるんじゃねえの? もうちっと他人を認めろよ。そうすりゃ幸福も少しは回ってくるだろうさ。まあ猟奇幽霊の台詞じゃねえけどよ」
「うるさい。幸福なんて疲れるだけ。波があればそれだけで駄目なの。私は幸も不幸もいらないの。平穏が欲しいの。ずっとずっと何もない空間で漂っていたいの。誰にも会いたくないの。判ったらさっさと消えろ!」
しまった。つい熱くなってしまった。辺りを見回すが、幸いなことにホームには人っ子一人いなかった。
幽霊の彼女も消えていた。
全く何だというのだろう。人を弄んで何が面白いというのだ。誰も彼も私を疲弊させてくれる。恨めしい。ああ、この憎悪ですら疲れる。生きて感情を持つだけでも疲れる。生きているだけで疲れる。
ああ疲れた。疲れた疲れた疲れた疲れた。
駄目だ。疲労で頭が回らない。今すぐにでも死にたい。
私が心底辟易していると、アナウンスが電車の到着を告げる。
私はここぞとばかりに整列位置を示した枠線に足を入れる。暫くすると、電車のライトがこちらへ向かって近付いてくるのが見えた。
タイミングを計り、運転手にブレーキを踏む暇を与えないよう注意しながら線路へ身を投げる。
そうして体にもの凄い衝撃が走ったと思うと同時に、私の意識と身体はバラバラになって辺りに散らばった。
意識が途切れる寸前、貰っていくぜという声が聞こえたような気がした。




