構文01:アリーナのヌル値
俺は『ウロボロス』市国の盲点に生きている。
ここでの生存権とは、中央サーバー内の一つのアルゴリズムに過ぎない。
もしも最高評議会にお前のソースコードがアノマリーとして分類されれば、現実からその存在を消去される。
肉体は霧散する。
名前は記録から抹消される。
そして、他者の中にあるお前への記憶すらも、ネットワークの彼方へ消え去る。
何一つ痕跡を残さず、歴史から消滅するのだ。
だが、俺の身体はそのサイバネティクス法則を拒絶する。
俺の名はカガミ・クロム。
ヌル変数。
アナログ・ブラインド。
システムの眼において、俺は絶対的な「無」であり、その電波がアクセスすることのできない数学的空白だ。
漆黒のコートを身に纏い、世界の静電気による傷跡を隠すために右腕に包帯を巻いて、俺は暗闇を歩く。
このディストピアのカルマを背負い、その根底からすべてを破壊するために。
――それが、軍事ドームの中心で精神を研ぎ澄ますための、俺のマントラだった。
床が爆発する、その直前までは。
『――ブーム!!』
ブーツの下で舗装が軋んだ。
冷たく重い空気が、俺の顔をかすめて風鳴りをあげる。
対角線の端で、アリスター・ヴァン・ダー・ビルトが微動だにせず立っていた。
彼の剥き出しの上半身は薄い汗に覆われ、ドームの照明を浴びて鈍く光っている。
青い瞳が細められた。
軍用照明の眩い光を浴びてブロンドの髪を輝かせながら、彼の口元が不敵な笑みに吊り上がる。
訓練用の剣が、鮮やかな一閃を描いた。
『――クラン!!』
刃の平でその衝撃を受け止める。
金属の振動が歯の根を揺らし、手首を痺れさせた。
激突の衝撃で、額から汗が飛び散る。
「相変わらずアナログな防御に頼りすぎだぞ、クロム」
アリスターが獲物に体重を乗せ、筋肉を緊張させて押し込んでくる。
「実戦なら、もうお前の軌道は再計算されている」
「黙れよ」
俺は応え、衝撃に耐えた。右腕の包帯には、古い傷口が開いたのか赤みが滲み始めている。
アリスターが膝を曲げ、重心を傾けて俺の防御を逸らしにかかった。
その慣性を利用する。
ブーツの底を磨き上げられた床の上で滑らせ、軸足を回転。
相手の支持脚に向けて、低い蹴りを放った。
『――スゥーッ!!』
ブーツの先端が虚空を切り裂く。
アリスターは綺麗に後方へ跳躍し、すでに宙に浮いていた。
即座に踏み込み、彼が着地する前に間合いを詰める。
最高速度で斜めの三連撃を叩き込んだ。
『――ザクッ! ザクッ! ザクッ!』
金属製の観客席に、耳をろうするような打撃の残響が木霊する。
だが、奴の武器は俺の動きをすべて迎撃した。
上段、下段、そして側面。
胸元を流れる汗にも構わず、奴は呼吸一つ乱さずに防ぎ切った。
「どうやら、もう限界のようだな?」
「だからどうした……? 限界なら、そんなもの超えるだけだ!」
着地と同時に首元への一撃をフェイントに使い、軌道を半ばで変更。
重い柄頭を、奴の左肩へと叩きつけた。
『――サド!!』
アリスターの身体が一ミリ秒だけ後方へのけ反り、擦れ合った皮膚からわずかな血が滲む。
軸足を深く踏み込み、そのままフロントキックを奴の胸骨に直撃させた。
『――クラッシュ!!』
衝撃が奴を数メートル後方へと引き摺り、舗装路に黒く煙る線を刻みつける。
アリスターが止まった。
手の甲で煤と汗の混じった頬を拭い、視線を俺に固定する。
「面白い」
奴の声が、一瞬で凍りついた。
「反応速度が上がったな。お前の肺がそのペースに付いてこれるか、試させてもらおう」
高周波の駆動音が、周囲の空間を歪ませた。
『――ヴーーン!!』
ソニックブラストが塵のカーテンを巻き上げる。
奴の刃が黄金の残像と化し、ありとあらゆる角度から降り注いだ。
『――スパーク! クラン! クラン! スパーク!』
燃えるような火花の雨が床に降り注ぐ。
一歩、また一歩と後退しながら、俺は反射神経を絶対的な限界まで絞り出した。
浅い一撃を受け、剥き出しの胸元を一本の血線が流れ落ちる。
肺の灼熱感はすでに耐え難い。
汗に濡れた両腕の腱が、疲労の苦痛で引き攣る。
俺たちの剣は、ついにリングの中央で噛み合った。
互いの顔から数センチの距離で、強烈な圧力をかけ合う。
鍛え上げられた鋼の刃が激しく震え、冷たい床へと汗と血の雫が滴り落ちていく。
「よし、これで終わりにしよう」
「喋るな……っ!」
俺は奥歯を噛み締め、口内に広がる鉄の味を飲み込んだ。
「俺は、お前を――」
アリスターが手首をミリ単位の流麗さで回転させ、摩擦を解いた。
彼の剣が、俺のブレードの背を滑る。
そして、上方への鋭い跳ね上げとともに、テコの原理を働かせた。
『――チィン!!』
俺の武器が宙を舞った。
放物線を描き、ドームの反対側の端へと突き刺さる。
俺の体勢が完全に崩れた。
すれ違いざま、アリスターが俺の軸足を払う。
シャツを着ていない俺の身体が、硬い床へと背中から叩きつけられた。
『――バァン!!』
衝撃で肺の空気が完全に絞り出される。
目を開けると、奴の切っ先が俺の喉元に触れていた。溜まった汗がそこを伝って流れ落ちる。
周囲のスクリーンが、鮮やかな深紅の文字で明滅した。
【戦闘終了。勝者:アリスター・ヴァン・ダー・ビルト】
俺は動けなかった。
激しく上下する胸を抑え、悔しさの苦い味を噛み締めながら、ただ金属の天井を見つめていた。
レジスタンスの5人のメンバー……いや、俺の5人の彼女たちは、落胆した表情で、深くため息をつきながらそのスコアボードを見つめていた。
重苦しさと、悔しさと、そして敗北に慣れきってしまった圧倒的な空気が、彼女たちの唇から同時に漏れ出す。
「「「「「またかぁ~……」」」」」
聞いているこちらが情けなくなるようなため息だった……
「まったく、先週と同じミスを繰り返すなんて……」
「あともう少しだったのにね……」
「残念だけど、私たちのダークナイトは、どうしてもあの壁を越えられないみたい……」
ドーム内の沈黙が、鉛のように重くのしかかる。
自分の身内たちの前で、完全に圧倒されてしまった。
冷徹で非情なレジスタンスのリーダーという表向きの顔は、床に倒れ伏し、血を流し、汗にまみれた無様な屈辱へと変わり果てていた。
その時、上方の観客席から甲高い叫び声が響き渡り、その場の厳粛な空気を一瞬でぶち壊した。
「もの凄くカッコよかったよ、クロムちんっ!!」
「う、ぐっ……」
心臓が止まるかと思った。
「最後のあのキック、本当に素敵だったわ! 全力を尽くしたんだもん、お母さんの宝物、最高よっ!」
俺が必死に維持しようとしていた冷徹さもストイックさも、このクソみたいな一秒ですべて崩壊した。
汗まみれの首元から、耳の裏まで一気に熱い血が逆流していくのを感じる。
……俺の母親だ。
ゆっくりと首を巡らせる。
観客席のエリアで、カガミ・シャルロットがアリーナに向けて白いハンカチを激しく振っていた。
胸を弾ませながら、底抜けに明るい笑顔を浮かべている。
長い黒髪とクリスタルのようなバイオレットの瞳が、貴族的な気品を放っている。
この冷徹な軍事施設の雰囲気には、これっぽっちも似合わない美貌。
その母親の溢れんばかりのポジティブさに、レジスタンスの5人は一斉に身体を硬直させた。
彼女たちは互いに素早く、困惑に満ちた視線を交わし合う。
しかし、自分たちのリーダーの母親の機嫌を損ねるわけにはいかないと、無理やり表情を取り繕い始めた。
エヴァンジェリンは引き攣った笑みを浮かべ、眉をピクピクと震わせながら大袈裟に首を縦に振る。
「そ、そうですね……! シャルロットさんの言う通りです! ――ほ、ほら、気持ちが大事ですからっ!」
裏返ったような声で彼女が叫んだ。
リンは震える親指を立て、完全に凍りついた笑顔でその場の熱量に合わせようとする。
「肯定します。科学的に見ても……あのキックの軌道には、大いなる……審美的な楽観主義が含まれていました」
セレスティアは引き攣った笑い声を漏らし、力なく、まとまりのない拍手を送った。
「本当ですわ! まさに……英雄に相応しい不屈の精神の顕現でしたわ! 万歳です!」
ユウギリとナナミもその気まずい拍手に加わり、アリーナの俺に向けられた深い同情を隠すために、必死の笑顔で激しく頷いている。
彼女たちの唇は、諦めの混じった複雑な形を描いていた。
アリスターはため息をつきながら武器を収め、立ち上がらせるために俺へと手を差し伸べた。
だが、俺の手が彼の手に触れるよりも早く、アリーナの光が屈折したかのように見えた。
『――ズッ!!』
空間がそれ自体を折り畳む。
魔力もデジタルな兆候も一切残さず、シャルロットが唐突に俺たちの間に立っていた。
彼女は満面の笑みで拍手をしている。
「はい、今日はここまで!」
俺が身を退くよりも早く、彼女の腕が俺の腰を囲い込んだ。
まるで洗濯物の袋でも持ち上げるかのような手軽さで、俺の身体が床から引き剥がされる。
俺の胸元が汗と血でベタついていることなど一ミリも気にせず、彼女は手際よく俺を右肩へと担ぎ上げた。
「か、母さん……っ!!」
パニックと恥ずかしさで声を震わせ、俺は吃った。
「放せ、頼むから! 今すぐ降ろしてくれ!」
逆さ吊りにされ、彼女の優雅な黒い衣服に肌を密着させたまま、俺は空中で足をバタつかせ、真っ赤になった顔を両手で覆い隠した。
「みんなが見てるだろっ! ほら、女の子たちもそこにいるんだぞ!」
「我儘を言わないの、クロムちん」
彼女は何事もないかのように、平然と言い放った。
「頑張ったのは偉いけど、もう夕ご飯の準備ができてるの。お鍋を作ったんだから、冷めちゃうでしょ」
パシッ、と彼女の手が俺の剥き出しの背中を叩き、汗による湿った跡を残すと同時に、俺の尊厳の最後の一片を完全に葬り去った。
俺をしっかりと固定したまま、彼女はアリスターに向けて完璧に礼儀正しい一礼を返した。
「アリスターくん、今日も息子の訓練に付き合ってくれてありがとうね。本当に規律正しい良い子だわ。それじゃあ、私たちは失礼するわね」
シャルロットはしっかりとした足取りで出口へと歩き始めた。
家庭的なダイナミクスに完全敗北した俺は、彼女の肩越しに視線を上げた。
アリスターはまだリングの中央で、硬直したまま立ち尽くしている。
腕を伸ばしたまま、虚空を見つめて。
このメガロポリスの物理法則さえねじ伏せる存在が、なぜあんなに嬉々として去っていくのか、そのロジックを必死に処理しようとしているのだろう。
俺たちの後ろからは、母の歩調に取り残されまいと急ぎ足で付いてくる5人の彼女たちの姿があった。
すれ違いざま、金髪の奴に向けて、まずエヴァンジェリンが動いた。
奴を睨みつけ、それに完璧なシンクロで続いたリン、セレスティア、ユウギリ、ナナミが、同時にあっかんべーと舌を突き出した。
「「「「「べーーーっ!!」」」」」
俺は腕に緩く引っ掛けていたロングコートの隙間に、完全に顔を埋めた。
この世界を転覆させるための道のりは、どうやら耐え難い屈辱に満ちたものになりそうだ。




