崩壊
静まり返った部室に今日も足を踏み入れることになる。
いつもなら走ってくる部室も、ゆっくり来たって誰も来てはいない。
いつか廊下にいた裕也君の姿も、いつも部室の奥の席にいる玲菜ちゃんの姿も・・・
今までが幻だったのか。今が夢の世界なのか。
今のあたしにはそれを判別することはできなかった。
今日は和也は部室に来てくれるのだろうか。
頭の中では色んなことを考えていても、いつも通り空気の入れ替えをする。
全ての窓を開け終えると、扉を開けるけたたましい音が部屋中に響き渡った。
『な、なんだ。和也か。ビックリしたじゃない』
『ああ』
和也は機嫌が悪いのか。
顔も見ずに曖昧に返事をしただけだった。
そうして、いつものように原稿用紙と鉛筆を取ってきた。
まるで何もなかったかのように。
あたしは何も出来ずにしばらくその場に立ち尽くしていた。
時間が止まってしまったかのような錯覚は、耳にへばり付く秒針の音で抑えられた。
時間は動いている。
『おい』
唐突に聞こえた部屋からの音に耳を傾ける。
『誰もこねえかもな』
静かに悪魔の言葉が囁かれた。
『もう、誰もこの部室にはこねえ』
もう一度穏やかな言葉が囁かれる。
本当に静かに、顔も上げずに告げられた言葉は、誰の口から出たのか疑ってしまうほどだった。
まるで『今何時だ』とでも聞くかのように、あくまで作業が主体だった。
返す言葉も、頷くことも出来ずに、命が終わってしまったかのようだった。
少ししてから思い出した。
『書かなきゃ』
あたしは何かに操られているかのように原稿用紙を取りに行った。
結末を完成させること。
それが今あたしに与えられたこと。これを行わなければいけない。
そんな思いが胸の奥から湧き出してきた。
作業をしてしばらくすると『おい』と、また声がかけられた。
『怪我したぐらいだって部活来れるだろうにな。玲菜の奴足骨折なら腕動かせるだろうがな』
驚いて顔を上げると、和也はこっちを向きながら笑顔で話していた。
さっきとは正反対すぎる和也の行動に、あたしは驚きを超えて恐怖を感じた。
『それにしても沙耶ちゃんも遅いなあ。玲菜昨日来たのに今日はこねえんだなあ』
さっきの自分の発言などなかったかのように、次々といつもの和也が作られていく。
さっきの和也は本当に和也だったのだろうか。
『ああ、悪いな。お前ラスト書いてたんだよな。もう黙るわ』
最後までいつも通りの和也だった。
裕也君のことには触れないんだ。
原稿用紙に目を落としてから、もう一度和也の方を向く。
目がおかしくなっているのか。和也が二重に見えた。
目を擦ってから、また原稿用紙に目をおとす。
世界は小説の中だけだった。
聴覚、嗅覚・・・五感全てが小説の中だった。
自分は今どこの世界にいるのか・・・
『完成した』
『おお、よかったじゃねえか』
顔を上げると和也の顔があった。
『へっ?』
『真剣だったからな。もう終わりだぞ』
時計を見ると5時50分になろうとしていた。
日に日に終了時間が遅くなっている。
部長としてしっかりするはずだったのに、最近は終業時間を部員に頼りすぎている。
『帰るぞ』
『うん』
自分は今小説の世界にいるのかもしれない。
和也の言葉が純粋に嬉しい。
さっきまでの出来事は、夢のこととして自分の記憶の奥底に閉じ込められているようだ。
それを開けるのは・・・
『それじゃあ、今日はこれで終わりね』
いつものように最後の言葉を告げ、廊下に出ようとした時。
自分の腰ぐらいの位置から声が聞こえた。
『あの・・・』
空気のような音だった。
『えっ』
目線を下に下げてみた。
『・・・っ』
声にならない声が漏れ出した。
『おい、どうし』
後から出てきた和也も、言葉を詰まらせるほどだ。
一瞬にして呼び覚まされた夢。
悪夢は現実であり、現実はまた悪夢であるのだ。
『すみません』
『すみませんって。沙耶ちゃんどうしたんだ。それ・・・』
語尾になるにつれ消えていく声。
こんなに動揺している和也を、あたしは今まで見たことがあるだろうか。
『事故です』
さっきよりもはっきりとした声だった。
いや、いつもよりもはっきりとしている。
沙耶ちゃんらしからぬ堂々とした発言だった。
『こんな姿で・・・』
揺れた前髪の隙間からも少し赤く染まった白が少し見えた。
『それで、これを・・・』
ノートを鞄から取り出した時に、制服の中からも白があるのを確認できた。
リレー小説。
『ああ』
和也は直視することができず、目を逸らしながら受け取った。
足元に逸らした視線には、靴下の隙間からも白い物が見えていた。
『それでは』
昨日と同様部活から帰宅するかのように、静かに帰って行った。
ただ一つ違う点といえば、足で歩いていないということだろうか。
二輪の足を使い、静かに消えて行った。
『犯人・・・』
『は?』
脱兎の如く走った。
階段をどう下りたのかわからない。
ただ自分の体が宙に浮いているような、まるでここは夢の世界だと思わされるような瞬間だった。
走った。
ただひたすら走った。
自分が何処に向かっているのかわからない。
だけどあたしはただ走った。
走って、走って・・・
グラウンドに出た。
『犯人』
囁かれた。
犯人。
頭の中で木霊した。
視界はあたしの目線になっているようだ。
素振りをしていた野球部員が、双眼鏡で見ているかのように画面いっぱいに広がった。
段々と近づいていく。
画面には野球部員だけが大きく映っている。
『犯人』
世界全体に響き渡った。
『お前誰だよ。何のようだ』
『おい、寒菜』
遠くの方から声が聞こえた。
『おい!』
いつの間にか近づいていた声の主に、腕を掴まれた。
気づけば目の前に青ざめた野球部員の姿があった。
『しっかりしろ』
カラン
金属が地面に打ち付けられるような音が聞こえた。
『えっ』
画面の端には虚しく小さなバットがあった。
『しっかりしろ。こいつらのわけない』
『えっ』
あたしは今グラウンドの土を踏んでいた。
右手首には和也の手の感触。
手のひらにはさっきまで何かを握っていたかのような痛みが残っている。
『和也・・・』
『お、おう。行くぞ』
夢の中で怖い顔をしていた和也は、拍子抜けをしたかのような間抜けな顔になっていた。
何処までが夢だったのかわからない。
学校を出ると、目の前には・・・
『なんだ。裕也また来てたのか』
『はい。和也先輩、部長の手首なんて握ってどうしたんですか?』
裕也君はいたずらっぽく言うと、あたしに笑顔を向けてきた。
『こ、これは・・・色々あったんだ』
和也は、恥ずかしそうに荒っぽく離れていった。
『ところでさっき沙耶先輩とあったんですけど・・・』
裕也君は節目がちに言った。
『わかってる』
和也は強い調子で言った。
何も言わないでくれ。そう言っているかのようだった。
『そうですね。ああ、僕の怪我そろそろよくなってきましたよ』
裕也君は口元だけの笑みを浮かべて、和也だけに言った。
少ししても言葉を返さない和也の方を向くと、罪悪感でもあるかのような顔になっていた。
どうして?
『部長。小耳に挟んだんですけど、僕の怪我の原因聞いてるんですよね?』
『えっ、う、うん・・・』
あまりにもいつものように爽やかだったので、一瞬戸惑ってしまった。
『部長は優しいですね。ありがとうございます』
『えっ、うん・・・』
嬉しそうに笑顔を浮かべている裕也君に、もう何もしてはいけないと思った。
犯人なんていないから言っているのか。それとも聞かれたくないのか。
それはわからないけれど、推測すらしてはいけない気がした。
『ねっ、和也先輩』
裕也君から感じる和也への思いが一言一言に詰まっていた。
『お前、ちょっと・・・』
あたしを気にするようにして、裕也君を連れて近くの公園に行ってしまった。
二人の後姿が妙に切なく感じて、何だかもう元気な二人には会えないような。
そんなドラマにでもあるような予感が頭の中を過ぎった。




