第三話 王都の目覚めと、報われた想い
数時間後。東の空が白み始め、夜明けの柔らかな光が王都の石畳を黄金色に染め上げた頃。真珠色の霧は役目を終えたように静かに消え去り、都にはかつてないほど清澄な空気が満ちていた。
やがて、街のあちこちで、人々が一人、また一人とゆっくりと目蓋を持ち上げた。
「……なんだ、この感覚は。……まるで、新しい体に作り替えられたみたいだ」
広場の噴水近くで眠っていた一人の職人が、自分の掌を驚いたように見つめながら立ち上がった。昨日までの、針が刺さるような神経の苛立ちはどこにもない。体中を巡る血流は穏やかで、四肢には羽が生えたような軽やかさが宿っていた。
「信じられない。……視界が、こんなに鮮やかだなんて。頭の中の霞が、すっかり晴れている」
深夜まで無機質な計算に明け暮れていた文官も、傍らで眠っていた同僚と顔を見合わせ、信じられないといった様子で声を上げた。かつて彼らを突き動かしていたのは、恐怖と焦燥に裏打ちされた偽りの全能感だった。しかし今、彼らの胸にあるのは、深く、確かな「生」の実感だった。前世で、デスマーチの果てに勝ち取った大型連休の初日、昼過ぎに目が覚めた瞬間の「生きていていいんだ」という全肯定の感覚——。それを王都の全員が同時に、かつより鮮烈に享受していた。
昨日までの殺伐とした王都の風景は、霧と共に霧散していた。 血走った目で他人を突き飛ばして歩く者はもういない。石畳のあちこちで、「おはよう」「よく眠れたか?」という、当たり前で、けれどこの街から久しく失われていた穏やかな挨拶が交わされ始めた。
人々は導かれるように王宮前の広場へと集まり、自然とバルコニーを見上げた。そこには、朝日を背に受け、少しだけ疲れを見せながらも、穏やかな微笑みを湛えて立つ聖女・紬の姿があった。
「……ありがとうございます。聖女様……」
誰かが、震える声で呟いた。その一言が、静かなさざ波のように広場全体へと広がっていく。 パチ、パチ、と小さな音が重なり、やがてそれは地鳴りのような感謝の拍手へと変わった。
紬が施したのは、単なる睡眠の導入ではなかった。 不眠の呪いによってバラバラに引き裂かれ、摩耗しきっていた国民たちの魂。その傷跡の一つ一つを、彼女の「癒やし」の魔力が丁寧に繋ぎ合わせ、補修していたのだ。それは国家規模で行われた、一人のセラピストによる「魂のメンテンス」だった。
拍手はやがて、地を揺らすほどの歓声へと変わる。
「救世主!」
「安眠の聖女!」
と叫ぶ民衆の姿に、紬は少しだけ困ったように頬をかいたが、隣に立つアルベルトが誇らしげに彼女の肩を抱き寄せると、ようやく観念したように深く、優雅に一礼した。その仕草一つで、王都に溜まっていた澱のような疲れがすべて洗い流されていくようだった。
「(……ああ、やっぱり。人は寝て起きた後が、一番いい顔をするわね)」
民衆の清々しい顔を見た瞬間、紬の胸に、かつての王宮では決して得られなかった、温かな充足感が満ちていった。それは、どんな高価な寝具やアロマでも得られない、セラピストとしての最高の報酬だった。




