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老人ホームの談話スペースの一人掛けソファに座って、老人はちくま文庫の『太宰治全集 6』を読み、「太宰治の戦時下の作家としての姿勢」の考察にふけっていた。
(確かに太宰はその自伝的小説のいくつかにおいて、戦争反対・否定の姿勢を示している。しかし今自分が読んだ「竹青」や、同じ全集の〈7〉に収められている「惜別」などの作品では、中国民衆の教化という、日中戦争時日本政府が推し進めた政策を如実に肯定していて……)
老人はすっかり痩せ、顔にも首にも腕にも数え切れない皺が寄った、よぼよぼのおじいちゃんになっていた。しかし相変わらず頭ははっきりし、こんな誰に話すでもない研究のままごとのような考察を延々続けていたのである。いつの間にか老人は腕を組み目を瞑って、考察の深淵に一人落ち込んでいった。
「――さん、お客様ですよ」
老人の目を開かせたのは中年女性介護スタッフの声だった。老人が少し驚いて「はい?」と答え、目を開くと、目の前に介護スタッフと、丈の長い水色に白の細縞のシャツワンピースに身を包んだ若い女性が立っていた。
「おじさん、お久しぶりです」
両手でハンドバッグを持ち、ぺこりと挨拶をした女性が、顔をあげて左手でミディアムストレートヘアーを耳にかけるまで、老人はそれが誰だか全く分からなかった。
「ああ……」
少女は――いや、元少女の若い女性は、ワンピースの襟元から真白で健康的な長い首を出し、その上に綺麗にナチュラルメイクを施した小顔を載せていた。ワンピースの袖と裾から、細い両腕両脚が伸びている。にっこり笑った口の中には、矯正器具の外れた整った歯が並んでいた。昔からそこだけは変わらない大きな瞳が、照明の光をとらえて静かに輝いていた。
「ああ……君はこんなに綺麗になって……」
老人はようやくそれだけを言った。女性はくすっと笑って、
「なに言ってるんですか」
と返した。
案内が済んだので介護スタッフは仕事に戻り、二人きりになった。
「よくここが分かりましたね、確か君にはここの施設名を言っていなかったような。そういえば連絡先も知らないし」
「ええ、おじさんの家のご近所さんを回って、どこの老人ホームに入ったのか教えてもらいました」
「そうでしたか。それは大変だったろう。さあ、座って」
老人は向かいの大きいソファを勧めた。女性はそれに従った。
「どうしてわざわざ来てくれたのかな?」
老人がうれしさを必死に抑えながら尋ねた。『太宰治全集 6』を、手元で意味も無くぱらぱらめくった。
「はい、あの、私この四月から社会人になったんです」
「そう! もうそんなに経ちますか」
「はい。高校卒業して、福祉関係の専門学校に進みました。そこをこの三月に出て。今は○○市の児童福祉施設で働いています」
そのしゃべり方が、初めて会ったころとは別人のような、はきはきした明るいしゃべり方だったので、老人は喜びを倍加させた。
「そうですか」
「それで、今度結婚するんです」
「……おお!」
「専門学校の先輩だった人と。私が働き始めたら結婚しようって、決めていたんです。おじさんと奥さんみたいな個性的な出会いじゃない、平凡な出会いですけど、その報告をどうしてもおじさんにしたくて来ました」
「そうなのか!」
老人は興奮のあまり叫んだ拍子に、上の入れ歯を半分ほど口から飛び出させた。慌てて入れ歯をしまい直し、
「それはおめでとう! 本当におめでとう」
言いながら、若干涙すらこみ上げていた。
「じゃあ、じゃあ、今君はなんていうかその、幸せなんだね?」
「はい!」
「良かった。本当に良かった」
「あの」
女性も若干昂りながら、
「ありがとうございました。おじさんがいたから、私は中学で不登校を続けず、高校にも専門にも行くことができました」
「そんなことはないよ、それは君の芯が強かったから――」
「いえ。本当におじさんのおかげなんです。毎週日曜日、私に次の月曜日に学校に行く勇気をくれたのがおじさんのしてくれるお話でした。あれが無かったら、私はどこかでくじけていたかも知れません」
「月曜日?」
老人は少女と会っていたのが毎日曜日だったことを思い出した。少女が月曜日に学校に行くのが辛くて、それを乗り越えるために日曜日に会いたがったのだなと、ようやくこの時気づいた。
「ああ、それで日曜日だったんだね」
「はい。……それで」
元少女は膝の上に置いていたハンドバッグを開け、中から一枚の招待状を取り出した。
「九月に式を挙げるんです。よかったら、というかぜひ、来てもらえませんか?」
女性から渡された招待状を受取りながら、老人は慌てた。
「いやしかし、こんなジジイがね……。そう、悪いがここに入居する際に礼服を処分してしまったから」
「そうかも知れないと思ったので、式場で一式をレンタルできる手配を済ましてあります」
「あ、そう? いやいやしかし、しかしだね、誰も知合いのいない式に出るというのも……」
「祖母の横の席を用意しました」
ぐっと老人は黙った。
「いや……悪いがこの通り貧しい年金暮らしで、ご祝儀が出せないかも知れない」
「そんなものいりません。お願いします。今の私があるのは、本当にあなたのおかげだと思っているんです。そのおじさんに、どうしても式にきていただきたいんです」
ペコリ、と綺麗に腰を折って頭を下げた。
「いやいや、ううむしかし君」
老人は久々にしんから困惑した。
しかし心内に、こうなったら出るほかないか、という思いが少しずつ増してきているのもまた事実だった。
引用文献 太宰治『太宰治全集 1』(ちくま文庫)




