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執務一:少年と執事-2

 自動車の窓から見える景色は、薄ら寒いものに見えた。私の居た農村地域とは全く違う。ぼんやりと浮かぶ煙突は煙を吐き出し、町並みは霞み、行き交う人々はコートの襟を立てている。石畳に車輪が跳ねて、揺れる。

 祖父が死んだ。母を早くに流行病で亡くし、先の大戦で父を失った私にとって、祖父は唯一の肉親であり、育ての親だった。祖父と麦などを作って細々やっていた農園は、私一人の手に負えず、売りに出してしまった。今私の手元にあるのは、家を売った僅かなお金と、嫁入り道具を買うためと、祖父の残した些細な貯金だけ。それを小さなバッグに入れて、身体一つで知らない街までやって来た。

 車窓からの景観が変わってきた。窓の外は青い空、そして行き過ぎる木々の幹。道路はあぜ道に変わり、車体の揺れも小石を踏む小気味良いものになっていた。

 遠くにお屋敷が見えた。二階建てで白い壁。正面から見た限り、庭園がある。目の前に広がる草原も屋敷の敷地らしく、馬屋が見える。今まさに馬を走らせている所だった。

 白馬にまたがった少年に目がいった。メットも付けず、ブロンドの髪を靡かせて、颯爽と駆けている。白い額を露わに、実に楽しげに、風を受けている。

(綺麗……)

 何となく、そう思った。

 扉の前に立つと、縦に二人分はあろう両開きの扉が、まるで待ちかまえていたかの様に開かれた。そして正にその通りとばかりに、

「お待ちしていました、ミス・ブレナン」

 迎えた長身の青年が言う。青年はさわやかな笑顔を浮かべていた。黒髪の長い後ろを一つに纏めている。白いシャツの他は、ネクタイ、ベスト、パンツ、靴に至まで、黒尽くめだった。

「わたしはギルバート・チェンバレン。執事(バトラー)です。詳しいお話は奥の応接室で致しましょう。さ、どうぞこちらへ」

 恭しく言いつつ、半身になって私を促す。

 息を呑んだ。電気で煌めくシャンデリア。足下には赤い絨毯。正面には吹き抜け二階に通じる大階段。そして大きく描かれた、貴人の肖像。私の様な小市民には夢の中の存在でしかない豪邸が、眼前に実在していた。

「こちらです」

 チェンバレン氏に従って、階段は上らず、脇手の扉の先、廊下を歩いた。チェンバレン氏は背筋を伸ばし、姿勢良く先を行く。歩き姿まで折り目正しい執事然としている。

「さて……」

 応接室は居心地が悪かった。高い天井、大きな窓、ふかふかのソファ。壁からは鹿の頭が生えている。たぶん家柄のある人達からしてみれば、実に立派な部屋で、無礼など無いのだろう。でも私の様な庶民は肩身が狭くなるだけだ。

「お手紙は拝見致しました。御爺様にはご冥福を申し上げます」

 チェンバレン氏は丁寧な口調で言う。声音は優しく、低い。

「当家には御爺様の御遺言という事で」

「はい。祖父は生前から『困った時はワイアット卿の元を訪ねると良い』と……」

 農家の祖父と貴族とにどんな縁があるのか解らない。祖父も教えてくれなかった。ただ、今こそが困った時で、祖父の遺志を尊ぶ意味でも、私はワイアット卿に縋る事にしたのだ。

 チェンバレン氏は顎をさすった。白手袋をした細い指が動く。

「成る程。しかし……」

 言葉を濁した。

「此方で調べてみた所に因りますと、当家とブレナン家を結びつけるものは見つかりませんでした」

「そんな……」

「確かに御爺様は『ワイアット』と?」

「え、ええ。何度も聞かされたので、間違いは無いはずです」

「左様で御座いますか」

 チェンバレン氏は悩ましげに目を細めた。こうして見るとかなり若い。二十代前半といった所だ。剰りに畏まった格好と喋り口だったから解らなかった。きりりとシャープな眉をしている。手を当てた顎はすっとしたラインで尖るでも無く、服装が服装なら彼こそが貴族だと言われても、解らないだろう。

 しかし、目先の美人より、目先の問題の方が先決だ。

「では私は、どうしたら……」

 いや何、とチェンバレン氏は笑いながら片手を振った。

「丁度家事使用人が足りなかった所ですから、もし貴女がそれでも良いと仰るなら……」

 私は彼の言葉が終わるのを待たず、立ち上がった。

「よ、よろしくお願い致します! 誠心誠意、ご奉仕させていただきます!!」

 精一杯頭を下げる。ここで雇われなければ、私に行き場所は無いのだ。

 ガチャリと扉の開く音がした。

「ここに居たか、セバスチャン!」

 唐突な叫び声が響いた。続いて、チェンバレン氏が息を吐く、ふう、という音と立ち上がる衣擦れの音。

「お馬の稽古は如何しましたか?」

「抜け出してきた。人が気持ち良く走っていたら、棒切れを持って玉を転がせと言うんだ。馬鹿馬鹿しくて嫌になった」

 平然として言うその声は、チェンバレン氏のそれとは正反対の性質のものだった。ぶっきらぼうで、少し高い。まるで子供の声だ。

 顔を上げて声の主を見てみると、やっぱり子供だった。金髪の少年――さっき見かけた、馬に乗っていた少年だった。ぴったりとした乗馬服姿で、腕組みをして仁王立ちしている。年齢は十五――いや十六、七くらいだろうか。しかしかなりの小柄で、身長は五フィート強の私よりも小さいかも知れない。

「ポロはお嫌いですか?」

「嫌いだね。あんなのは足腰の弱い年寄りのやるスポーツだよ」

「何を仰います。ポロは王室でも嗜められている社交的かつ紳士的なスポーツ。ルールはご存知ですか?」

「知らん。興味も無い」

「王子陛下にお目見えした際もそう仰るつもりで御座いますか?」

「五月蠅い! もう良い!! 僕は昼寝する。昼食の時間に起こしてくれ」

「かしこまりました」

 喚き散らした末に、少年は乱暴にドアを閉めて立ち去ってしまった。チェンバレン氏は再び嘆息を吐き、ソファに腰を下ろした。

「……あの、今のお方は?」

 貴族だという事は想像に容易い。伯爵の子息だろうか。と、考えていたが、

「ワイアット家当主、アデル・ワイアット伯爵様です」

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