執務一:少年と執事-3
「え?!」
私は驚いて、下ろし掛けていた腰を三度上げた。
「驚かれるのも無理はありませんね」
寧ろ驚かない方がどうかしている。
ワイアット卿と言えば、製鉄産業で名の知れた、名門貴族だ。産業革命による製鉄技術の進化に目を付けたワイアット家は、大規模な工場を建設し、良質な鋼鉄の生産とコスト改善に心血を注いだ。それが大戦での需要を受け爆発的に発展し、押しも押されぬ名家となった。戦争成金と度々批難される対象にはなるが、自動車の開発が進む都市部において製鉄工場は欠かせない存在であり、将来有望とされる事業家の一つに挙げられる。
知る限りざっとこんな感じだが、そんな家の当主が、あんな子供なのだから、開いた口が塞がらない。
「今から二年前、先代当主アルバート・ワイアット様がお亡くなりに……」
「それで、アデル様が?」
「そうです。ご覧の様に身体の小さなお子様だったので……」
途中、一瞬笑いを堪えた様な顔付きになり、咳払いをした。
「……失礼。イギリス全土に及ぶ工場群の運営を危ぶむ声もありましたが、今では資金繰りはアデル様が一手に引き受け、ワイアット家の当主として相応しい器をお持ちです。とは言え、まだまだお子様だという事に変わりはありませんが」
確かに、あの様子では我が侭盛りらしい。
「さて」
チェンバレン氏は話を切り替えるべく手を叩いた。
「遠い所からでお疲れでしょうから、お部屋に案内致しましょう」
そう言って腰を浮かせる。
「あの、私は……雇っていただけるのですか?」
幼い主人の登場に腰を砕かれた話を、確かめるべく訪ねた。すると気さくな執事は、
「勿論ですとも」
とにこやかに答えた。
「ですが、私は祖父の遺言に従っただけで、そちら様との関係は……」
「そちらのブレナン家との因縁は後々調べれば良い事です。それにこちらとしても、たった一人の求人に新聞広告などを出してやたらと面接をする手間が省けたというものです。お金もかかりますしね。お話しした限りでは、家事使用人として働いていただくのに、十分な素養を持った方だと認識致しましたが……何かご不満があるのなら仰って頂いても構いませんよ?」
「め、滅相もない!」
私はもう一度、深々と頭を下げた。
女性使用人の部屋があるというので、案内をされた。その道々、こんな質問を投げかけてみた。
「アデル様は、どうして貴男を『セバスチャン』と?」
チェンバレン氏は笑い、
「さあ、どうしてでしょうね」
と、はぐらかす様に答えた。
使用人の部屋は広い屋敷の端にある。片端に男性使用人が、もう片端に女性使用人がそれぞれ寝泊まりする部屋が設けられている。
チェンバレン氏によって開け放たれた部屋の中は、がらんどうだった。屋敷と比例する様に広く作られた部屋なのに、向かって十歩ほど行った一番奥の窓際に、ぽつんと一つだけベッドがあるだけである。
「今現在屋敷で雇っている使用人は全員男性ですから、この部屋はミス・ブレナンお一人が使って頂く事になります」
――何だか、大変な事になりそうな予感がした。
屋敷の間取りを知るために、屋敷の中を探検する許可を貰った。
「構いませんが、勝手に部屋を覗いたりはしない事。宜しいですね」
とのお達し付きだが、丁度アフタヌーンティーの時間だという事で、自由に歩き回って良いとされた。
慣れない屋敷の中を歩き回っていると、まるでお伽噺の登場人物になった気分だった。廊下の壁には絵画が並び、転々と花瓶やら骨董品らしき壺やらがエンドテーブルに置いてある。掃除をする時はこれらに気をつけなくては。
ふと、立派な扉の前で足が止まった。この扉が実に高価そうだ。木材を丸太からまるまる一枚切り出した様な扉が二枚、両開きに付いている。細かな装飾の入った扉は、記されなくとも主の部屋だと知れる。足が止まったのはそこが主の部屋だからでも、扉が薄く開いていたからでもない。中から話し声が聞こえてきたからだ。
もし、この時から既に私が使用人として自覚を持っていたとしたなら、決して覗いたりはしなかっただろう。
「どうして使用人を雇ったりするんだ。それも女なんか」
アデル・ワイアット伯爵は、地位からの威厳より幼さの勝った口ぶりで小言を言う。
「執事の務めで御座いますから」
ギルバート・チェンバレンは丁重な礼をする。
「馬鹿! そんな事を聞いてるんじゃないッ」
「実を申しますと、旦那様の御側にもそろそろ女手が必要なのではと考えまして……」
アデルは乱暴にカップを置いた。
「そんなのは要らない!!」
「おや、旦那様、紅茶がこぼれました」
ナプキンを取り出すと、ギルバートはわざと後ろから身を乗り出す様にして、テーブルにはねた紅茶を拭き取った。アデルは顔を赤らめて、そっぽを向いた。青い瞳が湿っている。
「ハハァ、成る程。旦那様、嫉妬していらっしゃるのですか?」
耳元で囁く様に言う。
「……なんで僕が嫉妬しなくちゃいけない」
「わたしの役目を彼女に奪われると思っている。つまりわたしが取られると焼き餅を焼いている。そうでは御座いませんか?」
「五月蠅いッ」
アデルは悪態を吐くが、ギルバートは何処吹く風と、主人の耳元で鼻を鳴らした。
「少々汗の匂いが致します。今夜は御風呂に入られては如何ですか?」
肩を強張らせて、アデルは恐る恐る聞き返した。
「……お前が背中を流してくれるんだろうな」
ギルバートはニヤリとする。
「勿論に御座います、御坊ちゃん。わたしは貴男だけのセバスチャンに御座いますから」
アデルは長い睫を震わせ、そして執事に気付かれない様、そっと笑った。
唐突にギルバートは背筋を伸ばし、いけない、と言った。
「わたしとした事が、扉を閉め切っていませんでしたか。良からぬ者が覗き見などをしては、いけませんからね」
独り言の様に言いながら、早足に扉に歩み寄り、扉を大きく開いた。
「ああ良かった、誰も居ない様だ」
ギルバートがそう独りごちるのを、クララ・ブレナンは間近に聞いていた。口元を両手で覆って、扉の影で身を屈めていたのである。
「何をしているんだ、セバスチャン」
アデルに呼び戻され、扉を閉めようとしたギルバートの口元が、笑った。




