第92話 Aランク商会の条件
翌朝。
精霊工房の事務所に入った瞬間、俺は足を止めた。
セレナがすでに仕事をしていた。
それ自体は珍しくない。
だが、目の下にはくっきりとクマが見て取れた。
「・・・セレナ。ちゃんと寝てるか?」
俺が声をかけると、セレナは顔を上げた。
灰色がかった淡い青の髪を低い位置でまとめ、細縁の銀色眼鏡を掛けている。眼鏡姿のセレナは完全に仕事モードだ。
「四時間ほどです」
「十分じゃないだろ」
「十分です」
即答だった。
俺は椅子に座りながら、エマを見る。
エマは紅茶を手に、もう諦めたような顔をしていた。
「朝からずっとあの調子よ」
「止めなかったのか?」
「止まらなかったわ」
「なるほど」
俺にも経験がある。
セレナがこの顔をしている時は、止めても無駄だ。
ドグランは少し離れた席でパンを齧りながら、面白そうに笑っていた。
「がっはっはっ。嬢ちゃん、昨日からずっと目が商人じゃのぅ」
「商人ですので」
「言い切ったな」
セレナは一式の書類を揃えると、俺の前に置いた。
「本日、商業ギルドへ向かいます」
「早いな」
「遅いくらいです」
まあ、そう言うと思った。
昨日の西海岸で、セレナは四脚作業機を見て、Aランク商会を目指すと決めた。
あの時の声には迷いがなかった。
ただ、その勢いのまま朝一番で商業ギルドに行くとは思わなかったが。
「まずは条件確認です。売上、取引実績、人員、流通網、支店、許可品目、推薦。何が足りていて、何が足りていないのかを洗い出します」
「俺も行くのか?」
「当たり前です」
「代表だから?」
「代表だからです」
それを言われると弱い。
俺はパンを手に取りながら、少しだけ抵抗してみる。
「俺が行って役に立つか?」
「立ちます」
「商談ならセレナだけの方がうまくやれるんじゃないか?」
「アキラさん」
「はい」
「昨日の作業機を見た後で、私だけが商業ギルドへ行って、Aランク商会を目指したいと話した場合、どう見られると思いますか?」
俺は少し考えた。
「・・・無茶を言っている若い商人?」
「はい」
「俺が行くと?」
「領地を持つ伯爵が、正式に精霊工房の拡大を考えている話になります」
「なるほど」
そういうことか。
セレナは商品だけでなく、見せ方も考えている。
俺がいるだけで、話の重さが変わるのだ。
「分かった。行こう」
「ありがとうございます」
セレナが小さく頭を下げる。
そこへエマが口を挟んだ。
「余計な約束をしてこないでね?」
「俺を何だと思ってるんだ」
「アキラ」
「反論できねぇ」
セレナが小さく笑った。
珍しい。
ただ、その笑みはすぐに消えた。
代わりに、机の上の紙束へ視線が落ちる。
昨日までの精霊工房は、小さな店として無茶な勢いで走っていた。
今日からは違う。
走り方そのものを変えなければならない。
セレナはたぶん、それを誰よりも早く理解していた。
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ヴェルクハーフェン商業ギルドは、相変わらず活気に満ちていた。
前に来た時より、俺の視線は少しだけ違っていた。
ここは、ただ店を借りる場所ではない。
商品が流れ、金が動き、信用が積み上がり、時には誰かが落ちる場所だ。
その空気を肌で感じると、昨日セレナが言った「器」という言葉が少し重くなる。
「アキラ様、お待たせしました」
受付の女性が俺に気づき、すぐに姿勢を正した。
「ベルナルド様にお取次ぎをお願いできますか」
セレナが言う。
受付の女性はセレナを見て、それから俺を見た。
微妙に空気が変わる。
精霊工房の管理責任者と、ラッシュバック伯爵。
この組み合わせで商業ギルドに来た意味を、受付も察したのだろう。
「少々お待ちください」
待つ間、セレナは壁際に立ち、ギルド内の掲示を眺めていた。
納税期限。
許可品目の更新。
違反商人への警告。
輸送遅延に関する告知。
俺はそれを見て、少しだけ気が重くなる。
(商売って、作って売れば終わりじゃないんだな)
『当然です』
(即答かよ)
『製造、流通、保管、販売、信用、法務、税務、危機管理。すべてを含めて商業活動です』
(俺、冒険者で良かったわ)
『現在は領主兼工房代表です』
(やめろ。現実を突きつけるな)
そんな内心の会話をしていると、奥から見慣れた男が現れた。
丁寧に整えられた口髭。
落ち着いた物腰。
丸眼鏡が似合いそうな、穏やかな顔立ち。
ベルナルド=マークス。
以前、店舗や住居の手配で世話になった商業ギルド職員だ。
「これはこれは、アキラ様。セレナさん」
「久しぶりだな」
「ええ。ご活躍は耳にしております」
ベルナルドは穏やかに笑った。
だが、視線はすでにセレナが抱えている書類と、俺の表情を確認している。
落ち着いているが、鈍い人ではない。
「本日は、通常の納税や報告ではなさそうですね」
「はい」
セレナが一歩前へ出る。
「Aランク商会について伺いたく参りました」
ベルナルドの動きが止まった。
わずかに。
本当にわずかにだが、指先が止まった。
そして、彼はゆっくりと眼鏡を外すと、懐から布を取り出してレンズを拭いた。
もう一度掛け直す。
「申し訳ありません。今、なんと?」
「Aランク商会です」
セレナは一切引かない。
ベルナルドはしばらく黙っていた。
受付の奥のざわめきが、妙に遠く聞こえる。
やがて、彼は静かに頷いた。
「応接室へ」
声の温度が変わっていた。
軽い相談ではない。
そう判断したのだ。
応接室に案内されると、茶が出された。
ベルナルドは急がなかった。
茶器を置く音。
紙を整える音。
窓の外を行き交う馬車の音。
その間が、逆にこちらを落ち着かなくさせる。
セレナは静かだった。
背筋を伸ばし、机の上に手を置いている。
俺は少しだけ場違いな気分になっていた。
商業ギルドの応接室というのは、冒険者ギルドの酒場とは違う緊張感がある。剣も魔法もないのに、下手な一言で足をすくわれそうな空気だ。
「まず、お聞きします」
ベルナルドが口を開いた。
「精霊工房は、本気でAランク商会を目指すのですね?」
セレナが答える。
「はい」
「精霊工房は今年始まったばかり。たとえ商品が当たって売り上げは上がっても、有力者の信頼を得て、後ろ盾が得られるほどと考えれば、数年単位の話になります」
「承知しています」
「途中で諦める商人は多いですよ」
「諦めません」
即答だった。
ベルナルドはセレナをじっと見る。
落ち着いた目だ。
だが、その奥で何かを測っている。
「理由を伺っても?」
セレナは一瞬だけ俺を見た。
それから、静かに言う。
「守るためです」
「何を?」
「商品を。職人を。従業員を。取引先を。そして、精霊工房という場所を」
ベルナルドの表情がわずかに変わった。
売るため。
儲けるため。
大きくなるため。
そう言うと思っていたのかもしれない。
セレナは続ける。
「精霊工房の商品は、今後さらに大きな価値を持ちます」
「ほう」
「その時、小さな店のままでは守れません」
ベルナルドは俺を見る。
「アキラ様」
「ん?」
「仮にですが」
「ああ」
「精霊工房の職人が一人、突然いなくなったらどうなります?」
「困るな」
「では、その職人が脅されていたら?」
俺は黙った。
「製法を知る者が買収されたら?」
「・・・困るどころじゃないな」
「輸送中の荷が消えたら?」
「調べる」
「偽物が出回ったら?」
「潰す」
自分で言ってから、少し物騒だと思った。
ベルナルドは穏やかなまま頷く。
「それを、すべて個人で対処しますか?」
答えに詰まった。
俺なら、できることはある。
アルもいる。
だが、それは個人の力だ。
商売としては違う。
「Aランク商会とは、単に儲かっている商会ではありません」
ベルナルドは机の上に指を置く。
「大きな取引を任せても潰れない商会です」
その言葉は、昨日のセレナの言葉と繋がった。
器。
商品ではなく、こちら側の器。
「必要なのは、継続供給能力、流通網、支店、人員、納税履歴、監査に耐える帳簿。そして、信用です」
そこでベルナルドは一拍置く。
「ですが、精霊工房の場合、もう一つ重要になります」
「後ろ盾か」
俺が言うと、ベルナルドは頷いた。
「はい」
「一つでは駄目ですか?」
セレナが尋ねる。
「駄目ではありません。ですが、危うい」
「理由は?」
「一つだけの後ろ盾は、守りであると同時に鎖にもなります」
その言葉に、セレナの目が細くなる。
「後ろ盾に依存しすぎる、ということですね」
「はい。外から見れば、その有力者の所有物に見える。そうなれば、取引相手も偏ります」
なるほど。
王家だけを後ろ盾にすれば、王家御用達の商会に見える。
それは強い。
だが、同時に自由度を奪う。
「最低二つ。できれば三つ」
ベルナルドは静かに言う。
「異なる勢力からの後ろ盾があれば、外部は手を出しにくくなります。有力貴族、国際的な大商会、あるいは他国の高位権力者」
「他国でもいいのか?」
「むしろ強いです。もちろん、政治的には扱いを誤れば面倒ですが」
「面倒か・・・」
「面倒です」
ベルナルドが即答した。
俺は苦笑する。
この人、穏やかなのに言うことははっきりしている。
「率直に申し上げます」
ベルナルドはセレナを見る。
「精霊工房は、Aランク商会を目指せます」
セレナの指が、ほんの少しだけ動いた。
それが、彼女の驚きだったのだと思う。
「本当ですか」
「はい。商品力、売上、話題性、管理能力。いずれも高い。少なくとも、可能性はあります」
そこでベルナルドは表情を引き締めた。
「ですが、焦ってはいけません」
「はい」
「商会を大きくする速度が、管理能力を上回った瞬間に破綻します」
セレナは頷く。
ベルナルドは続ける。
「今の精霊工房は、商品が先に走りすぎている」
「・・・その自覚はあります」
「ならばよろしい」
ベルナルドは少しだけ笑った。
「私は、無茶を言う商人は苦手です」
そして俺を見る。
「ですが、努力する商人は嫌いではありません」
「セレナはかなり努力してるぞ」
「ええ。分かります」
ベルナルドは机の上の書類を見る。
セレナが用意してきた出荷記録、在庫表、売上推移。
それを見れば、彼女がどれだけ精霊工房を支えてきたか分かるのだろう。
「セレナさん」
「はい」
「Aランク商会を目指すなら、まずは支店構想を持ってください」
「例えばラムールの新領都とラムールの王都、でしょうか」
「妥当です」
セレナはもう考えていたらしい。
俺だけが少し遅れている。
「新領都はアキラ様の領地における実績作り。そして王都で他の貴族とのコネクションを構築する」
「つまり、出店そのものが後ろ盾作りになるのか」
「はい」
ベルナルドが頷く。
「店とは、物を売る場所であると同時に、信用を置く場所です」
その言葉は、妙に腑に落ちた。
店を出し、商品を並べ、人を雇い、税を納める。
ときには苦情を受け、責任を取る。
それら全部が、信用になる。
「分かりました」
セレナが深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いえ」
ベルナルドは穏やかに笑った。
「焦らず、しかし止まらず進んでください。信用を作るのは難しい。ですが壊すのは一瞬です。」
その言い方は、ただの職員のものではなかった。
大きく稼ぐ才覚はないと自分で思っている人間。
だが、人を見る目と、商売が続くかどうかを見る目はあると自分でも言っていた。
たしかに、そういう人の言葉だった。
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商業ギルドを出る頃には、昼を少し過ぎていた。
通りには荷馬車が行き交い、商人たちの声が飛び交っている。
俺たちはその流れの端を歩いた。
「数年単位、か」
俺が呟くと、セレナは頷いた。
「当然です」
「意外と落ち着いてるな」
「予想より前向きな返答でした」
「そうなのか?」
「はい」
セレナは抱えていた書類を胸元で押さえる。
「最悪の場合、身の丈に合わないと一蹴されると思っていました」
「そうなのか」
「Aランク商会は、誰もが口にして良い目標ではありません」
そう言ってから、セレナは少しだけ笑った。
「ですが、目指せると言われました」
「嬉しいか?」
「・・・はい」
短い返事だった。
だが、その声はいつもより柔らかかった。
セレナが、自分の野望を正面から認められた瞬間だったのかもしれない。
「まずは後ろ盾か」
「はい」
「ラムール王家」
「有力です」
「ルザリス帝国」
「強すぎます」
「駄目か?」
「駄目ではありません。強すぎるだけです」
なんだそれ。
でも、分かる気もする。
ルークは後ろ盾としては強すぎる。あの皇帝が関わっていると知れば、たいていの相手は手を出しづらい。
ただ、その分だけ政治的な意味も大きくなる。
「手紙を出すか」
「皇帝陛下にですか?」
「ああ。たぶん面白がる」
「アキラさん。皇帝陛下とどのような関係が?」
「言ってなかったっけ?」
「はい。たまに手紙を出していることは知っていますが」
「俺がここにいることが、そもそも皇帝陛下の命令だ。ほれ」
普段は隠しているペンダントをセレナに見せる。
「そ、それは・・・!! それが何かアキラさん、わかっているのですか!?」
「いや、よくわからん。こっちに来る前、皇帝に貰った」
セレナは立ち止まると、天を仰いで額を抑えた。
「アキラさん。それは皇室しか使うことを許されない、ルザリス帝国の紋章と龍玉のペンダントです」
「ほうほう?」
「意味するところは、ルザリス帝国の全権代理人。これを持つ者が行う事すべて、ルザリス帝国皇帝が全責任を負う、というものですよ」
「いや、ものすごく軽い感じで渡されたんだが」
「そんな軽いものではないです。むしろ重いです。ものすごく、重いです。かつて見たことがあるのは、オーブリンにあるルザリス大使館の大使だけです」
「どうしよ、これ?」
「私に聞かれても困ります・・・」
一つ、ため息をついてセレナが歩き始める。
「アキラさん、それ、絶対に普段から他人には見せないでくださいね」
「お、おう」
「返事は“はい”、です」
「・・・はい」
解せぬ。俺は店主のはずなのに。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
精霊工房へ戻ると、エマとドグランが待っていた。
リファニーもいた。
なぜいる。
「ぐふふ・・・難しい顔で帰ってきましたねぇ」
「研究室に戻ってていいぞ」
「嫌ですぅ。面白そうですぅ」
絶対に面白がっている。
セレナは商業ギルドで聞いた話を手短に説明した。
Aランク商会は目指せる。
ただし数年単位。
まずは基盤作り。
後ろ盾は最低二つ、できれば三つ。
支店構想も必要。
ドグランは腕を組んで聞いていた。
「ほう。後ろ盾か」
「ああ。俺はルークに手紙を出そうと思う」
「ルザリス皇帝か。がっはっはっ、そりゃ強烈じゃのぅ」
エマは少しだけ考える。
「あの方なら、面白がるでしょうね」
「だよな」
「ただ、手紙の文面はちゃんとした方がいいわ」
「そこはアルに任せる」
『草案を作成済みです』
「早いな」
『必要でした』
最近、その返答に慣れてきた自分がいる。
怖い。
アルが投影した文面を、セレナとエマが確認する。
俺が読むと普通に丁寧な手紙に見えるが、二人は細かい言い回しを調整していた。
「ここは少し柔らかい方がいいわ」
「いえ、皇帝陛下相手ですので、軽すぎる印象は避けるべきです」
「でもルーク様は、あまり堅すぎると面白がって崩してくるわよ」
「そのような方なのですか?」
「ええ、面白いことには目が無いお方よ」
エマとセレナが文面を直していく。
俺は見ているだけだ。
外交文書、難しい。
ドグランが横から覗き込み、鼻を鳴らした。
「ワシも一通出しておくか」
「誰に?」
「古い知り合いじゃ。表には出てこんが、もの作りの世界じゃ顔が利く」
セレナがすぐに反応した。
「お願いします」
「任せておけ。ワシもこの工房の者じゃからの」
そう言ってドグランは笑った。
その言葉が、少し嬉しかった。
雇われているというより、面白いから居着いているドワーフ。
それでも、彼は精霊工房の者だと言った。
「じゃあ、次はラムール王家だな」
俺が言うと、エマが頷く。
「早いうちに行きましょう」
「そうだな、明日にでも行くか」
「ええ。先延ばしにしたら、また別のものを作るでしょう?」
「信用がない」
「あるわよ。別方向に」
反論できない。
俺たちは、明日王都へ向かうことを決めた。
Aランク商会。
後ろ盾。
王家と帝国。
昨日まで小さな工房だったはずの場所が、少しずつ世界の表側へ押し出されていく。
・・・本当に、話が大きくなってきた。




