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第71話 不協和音


 朝から空気が重い。


 昨日までは、まだ戸惑いといえるものだった。

 少なくとも俺はそう考えていた。


 俺たちをどう扱えばいいのか分からない。公爵の客人なのか、マルスの同行者なのか、それとも精霊を使う得体の知れない男なのか。


 そんな迷いの視線は、何度か感じていた。


 だが、今朝は違う。


 廊下を歩くだけで、使用人たちの会話が止まる。目が合う前に、視線が逸らされる。


 礼も挨拶もする。

 仕事も、形の上では回っているように見える。


 だが、その奥にあるものは、もう警戒だけではなかった。



(アル、どうなっている?)


『屋敷内の複数名に強い緊張反応を確認。呼吸、心拍、視線移動に共通した乱れがあります』


(薬物反応は?)


『現時点で空気中に異常成分は検出されません』


(雰囲気だけでここまで悪くなってるのか)


『集団心理としては成立します。ただし、変化速度はやや不自然です』


(魔力的な反応は?)


『正確には観測できませんが、少なくとも魔素への干渉は観測されませんでした』



 食堂に入ると、給仕をしていた使用人の手がわずかに震えた。銀の皿が小さく鳴り、その音に本人がびくりと肩を跳ねさせる。



「し、失礼いたしました」


「いや、気にするな」



 そう返しただけで、使用人は逃げるように一歩下がった。


 俺は席に着きながら、視線だけで周囲を確認する。


 使用人は誰も目を合わせない。俺だけではなく、エマやマルスの方も見ない。


 隣のエマも、今朝はほとんど食事に手を付けていなかった。



「エマ、大丈夫か?」


「・・・ええ」



 声が硬い。



「眠れなかったか?」


「少しだけね」


「無理するなよ」



 そう言った瞬間、エマの指がぴくりと動いた。



「エマ?」


「大丈夫よ」



 エマは静かにそう言って、顔を伏せた。


 俺は、それ以上踏み込めなかった。



「アキラ様・・・」



 食堂の入口から、細い声がした。


 ミレイアだった。


 今日も長い前髪が目元にかかっている。視線は床の少し手前に落ちたままだ。



「ミレイア。どうした?」


「あ、いえ・・・その・・・」



 彼女は胸の前で両手を握り、小さく頭を下げた。



「すみません。朝から、お邪魔してしまって・・・」


「邪魔じゃない。何かあったのか?」


「何か、というほどでは・・・ただ、少し落ち着かなくて」



 ミレイアは、俺の方へ一歩だけ近づいた。



「アキラ様がいると、少しだけ安心するのです」



 その言葉に、エマの指がわずかに動いた。



「そうか。けど、無理にここへ来る必要はない。休めるなら休んだ方がいい」


「はい・・・」



 ミレイアは小さく頷いた。



「・・・ふん」



 隣で、エマの息がわずかに乱れた。



「エマ?」


「・・・何でもないわ」



 何でもない声ではなかった。


 頬が強張っている。膝の上で拳も握られている。


 ミレイアはそれに気づいたのか、びくりと肩を震わせた。



「あっ・・・す、すみません。私、また何か・・・」


「違う。ミレイア、君のせいじゃない」



 俺がそう言うと、エマの肩がまた小さく揺れた。


 何かがおかしい。

 そう思った時だった。



「よぉ。今戻ったぜ」



 食堂の扉が開き、リブが入ってきた。


 外套には土埃がついている。

 昨夜から、王都側の出入りを洗いに出ていたはずだ。


 いつもの軽い顔ではある。

 だが、目だけは笑っていなかった。



「悪いな。朝飯中に。だが、すぐ聞いた方がいい話を持ってきた」



 リブはミレイアを一瞬だけ見た。

 ミレイアは顔を伏せる。



「悪いな。お嬢ちゃんは外してくれ。



 ミレイアは小さく頷いた。



「奥で話せるか?」


「分かった」



 マルスが立ち上がる。


 俺たちは食堂を出た。




 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 小部屋に入ってしばらくすると、クラウディオ公爵も姿を見せた。



「待たせたな。リブ。報告を」


「ああ」



 リブは椅子に座らず、折りたたまれた紙を出した。



「まず、結論から言う」



 その言い方だけで、嫌な予感がした。



「直近で三人、この街に来てる」



 部屋の空気が止まった。



「三人、とは」



 クラウディオ公爵の声が低くなる。



「オルガン=メルキウス。セラフィーヌ=ヴァレ。グラシオン=バル=ローデン」



 マルスの表情から、温度が消えた。



「全員か」


「ああ。全員だ」



 リブは紙を広げ、まず一箇所を指で叩いた。



「まず、五日前にオルガンだ。本人が来てる」


「確かか」



 マルスの声が低くなる。



「王都を出たところから、ヤギの部下が追ってる。途中までは、オルガン本人の姿だ」


「途中までは?」


「ああ。この街の宿に入った。そこで姿を変えた」



 リブは紙をめくる。



「宿に入ったのはオルガン本人。出てきたのは、別名義の魔道具職人。髪も顔も服も変えてる。だが、同じ部屋から出てきてるし、荷も繋がってる」


「その魔道具職人が、公爵家へ入ったのか」


「ああ。通用門から入ってる」



 クラウディオ公爵の顔が険しくなった。



「儂は、そのような来訪を認めておらぬ」


「記録上は、古い魔道具の点検だ。名前は別。だが、ヤギの部下が追っていた流れと、公爵家側の記録が繋がる」


「誰が通した」


「門番は、通したことを覚えてる。客室係も、茶を出したことを覚えてる」



 リブはそこで、わずかに声を落とした。



「だが、誰に命じられたかを誰も覚えてねぇ」



 まただ。


 朝食会場の変更、禁書庫の件、誰かに言われた気がする、という記憶。

 同じ匂いがした。



「セラフィーヌは?」


「隣領へ向かう予定だった」


「予定?」


「ああ。王妃付き女官長が、表向きは隣領へ行く。だからこの街を通過する。そこまではヤギも掴んでた」



 リブの声が、少し低くなる。



「だが、四日前、途中で足取りが消えた」


「ヤギの網で?」


「ああ」



 リブは苦く笑った。



「ヤギが一杯食わされるなんざ珍しい。けど今回は、相手が一枚上手だった。隣領へ向かった記録はある。途中の宿場までは追えてる。そこから先が消えてる」


「この街に入ったと見るか」


「確率は高い。断定はしねぇ。だが、ここを通るはずだった人間が、この街の手前で足取りを消した。偶然で済ませるには都合が良すぎる」


「グラシオンは」


「来てる。三日前だ」



 リブは即答した。



「表向きは監査だ。前に出てるのは部下の名前だが、本人が街に入ったところは確認されてる」


「現宰相本人が、この街に」


「ああ。しかも時期が合いすぎてる。ただ、その後の行動が追えねぇ。証言が食い違い過ぎて、だ」



 リブは紙を畳んだ。



「オルガンは、本人が変装して公爵家に入った。セラフィーヌは、この街へ来る手前で足取りを消した。グラシオンは、監査名目でこの街に入っている」



 そこで一度、言葉を切る。



「三人とも、この街にいるか、いた」



 誰もすぐには口を開かなかった。



「絞れない、か」



 俺が言うと、リブは頷いた。



「ああ。誰が本命か分からねぇ。むしろ、全員が絡んでる可能性すらある」



 マルスは紙を見つめたまま、低く言った。



「少なくとも、アキラたちが来る前から、王都側の何かがこの屋敷に触れている」



 公爵も頷く。



「アキラ殿を疑うには、筋が通らぬ」


「けど、屋敷の連中はそう見ない」



 リブが言う。



「精霊使いが来た。屋敷がおかしくなった。そういう分かりやすい形に飛びつく」



 その言葉を、誰も否定できなかった。


 そこで、扉の外が騒がしくなった。


 足音。

 複数人の声。


 リブが一番早く扉へ向かう。



「何だ?」



 扉を開けると、若い警備兵が立っていた。顔が青い。



「公爵様、申し訳ございません!」


「何事だ」


「下働きの一人が、見当たりません」



 公爵の眉が動く。



「いつからだ」


「朝は水運びに出ていました。その後、誰も見ておりません・・・」


「水運びは誰が命じた?」


「それが・・・」



 警備兵は言葉を詰まらせた。



「分かりません」


「分からぬとは、どういう意味だ」


「本人が、水を運ぶように言われたと話していたそうです。ですが、誰に言われたのかは・・・誰も」



 まただ。


 誰かに言われた。

 けれど、誰に言われたのか思い出せない。



「捜索を」



 公爵の声は低かった。



「屋敷内を確認せよ。外へは出すな。騒ぎを大きくするな」


「はっ!」



 警備兵が駆けていく。

 リブは舌打ちした。



「戻ってきた早々、これかよ」


「俺も探す」



 そう言って立ち上がると、扉の外にいた別の警備兵がわずかに身を固くした。



「・・・精霊を、使われるのですか」



 責める声ではない。


 怖がっている声だった。



「必要ならな」



 俺はそう答えるしかなかった。



(アル)


『屋敷内簡易走査を開始。人員位置、生命反応、人体反応、魔力異常を確認します』


(派手にやるな。余計に疑われる)


『了解。既存散布済みナノマシンのみで低出力走査を実行』



 数秒。

 その数秒が、妙に長く感じた。



『西棟奥、未使用倉庫付近に微量の血液反応』


(生体反応は?)


『ありません』



 ・・・最悪だ。



 脳内に簡易マップが浮かぶ。


 西棟奥。

 普段使われていない倉庫。


 俺はリブを見る。



「西棟奥の倉庫だ」


「根拠は?」


「精霊が見つけた」


「・・・便利すぎて、今は逆に最悪だな」


「分かってる」



 リブは短く息を吐き、マルスへ視線を向けた。



「行くぞ」


「うん」



 俺たちは部屋を出た。


 廊下には、すでに不安が広がっていた。


 使用人たちが壁際で固まり、互いに小声で何かを話している。


 誰も大きな声は出さない。

 誰も走らない。


 ただ、目だけが動いている。


 俺たちが通ると、その視線がこちらへ吸い寄せられた。




 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼




 西棟奥の倉庫は、屋敷の中でも人の気配が薄い場所にあった。


 使われなくなった家具や古い調度品、祭事用の道具などを置いておくための区画らしい。


 目的の扉の前で、リブが足を止めた。



「・・・血の匂いがする」


「俺には分からない」


「ま、分からない方がいい匂いだ」



 リブは短くそう言い、扉に手をかけた。

 鍵はかかっておらず、簡単に扉が開く。


 その瞬間、鉄の匂いが鼻に刺さった。


 倉庫の中は薄暗い。


 厚い布で塞がれた窓の隙間から、細い光が落ちている。その光が、床の赤を照らしていた。


 下働きの使用人が倒れている。


 腹が裂かれている。

 首にも深い傷。

 右手の近くにナイフ。


 そして、床。


 血で、文字が書かれていた。


 精霊、と。


 誰かが息を呑んだ。


 俺に向けられる視線が増えた。

 まだ誰も何も言っていない。

 だが、もう充分だった。



「下がれ。誰も入るな」



 リブの声で、警備兵たちが慌てて廊下へ出る。



「アル」


『解析開始』



 視界の中で、血の飛び方、足跡、刃物の位置、手の角度が整理されていく。



『物理的条件のみで判断するなら、自殺可能性は99%以上』


(マジか)


『腹部創傷後、血文字を書き、最後に頸部を切断した可能性が高いです。ただし、本人の自由意思による行動とは断定できません』



 俺は床の文字を見た。


 精霊。


 この文字を書かせるために、自分の腹を裂かせたのか。


 それとも、そう思わせるために。



「どうだい」



 マルスが聞いた。



「物理的には、自分でやったように見える」



 リブが顔をしかめた。



「これがか?」


「ああ。だが、自由意思とは限らない」



 マルスは床の文字を見たまま、低く言った。



「自殺じゃないとしたら、腹を切った後、文字を書くのを待って、それから首を切った?」


「ばかばかしい。なんのためだ」



 リブが吐き捨てる。



「見せるためだろうな」



 俺は答えた。



「誰に?」


「屋敷の人間に。俺が犯人だと思わせるために」



 遅れて、クラウディオ公爵が倉庫の入口に立った。


 床の文字を見て、顔を歪める。



「・・・やられたな」



 その声には、怒りよりも苦さがあった。



「公爵」


「理屈では、アキラ殿を疑う理由はない。だが、屋敷の者はそう見まい」



 公爵は血文字から目を離さなかった。



「人は、筋道よりも、目の前の血を信じる」



 廊下の奥から、小さな声が漏れた。



「精霊・・・」



 それだけで、屋敷の中に漂っていた疑いは、形を持ってしまった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 エマは、その場に立っていた。


 血の匂いがする。

 人が死んだ。

 床には、精霊という文字が残っている。

 使用人たちはアキラを見ている。


 疑っている。

 怯えている。


 それは分かる。


 けれど、エマの胸を一番強く締めつけていたのは、血文字ではなかった。


 ミレイアだった。


 騒ぎを聞きつけたのか、ミレイアが廊下の奥に立っていた。


 小さな肩が震えている。

 両手は胸の前で握られ、今にも逃げ出しそうな顔をしている。


 それでも、彼女は一歩だけ前に出た。



「アキラ様は・・・」



 声が震えていた。


 ミレイアは唇を噛み、もう一度息を吸う。


 前髪の奥で、黒い瞳が潤んでいた。涙がこぼれそうになっている。


 それでも、彼女は顔を上げた。



「アキラ様は、そんなこと、しません!」



 小さな声だった。


 けれど、その声には、確かに勇気があった。


 屋敷中が俺を疑い始めている中で、その一言を口にするのに、どれだけ力が必要だったのか。


 アキラを、かばった。


 そう思った瞬間、エマの胸の奥が焼けた。


 違う。


 それはいいことだ。


 この状況で、アキラを信じると言ってくれた。本当なら、感謝するべきだ。


 なのに、どうして。

 どうして、あの子がそれを言うの。


 ミレイアは悪くない。


 王宮から逃げてきて、ずっと怯えていて、誰かに縋りたくて、それでアキラを頼っているだけ。


 分かっている。


 それなのに、前髪の奥から覗く漆黒の瞳を見るだけで、胸が焼けるように熱くなる。


 あの目だ。

 あの漆黒の瞳で、アキラを見ている。


 怯えたように。

 守ってほしそうに。

 自分にはあなたしかいないのだと、言葉にしなくても伝えるように。


 あの目で、アキラを縛っている。


 そんな最低な考えが浮かんだ瞬間、エマは自分自身にぞっとした。


 私は何を考えているの?


 あの子は傷ついている。

 守られるべき子だ。


 それなのに、私は今、あの子をアキラのそばから遠ざけたいと思った。


 引き剥がしたいと思った。


 あの目で見ないで。

 その声で呼ばないで。

 アキラに近づかないで。


 次々と浮かぶ言葉が、どれも醜い。


 醜くて、熱くて、止まらない。


 エマは両手を握りしめた。


 爪が掌に食い込む。


 痛みで、少しだけ呼吸が戻った。



「エマ」



 アキラの声がした。


 振り向くと、アキラがこちらを見ていた。


 心配そうな顔だった。


 優しい顔だった。


 その優しさが、今は苦しかった。



「顔色が悪いぞ」


「・・・平気よ」


「平気な顔じゃない」



 優しい。

 分かっている。

 アキラは心配してくれている。


 なのに、その優しさが、胸の奥の黒い感情に油を注いだ。


 どうして私を見るの。

 どうしてあの子にも同じように優しくするの。

 どうして、そんな顔で心配するの。


 違う。


 違う違う違う。


 こんなの、私じゃない。



「うるさいわね」



 思ってもいない言葉が出た。

 こんなこと、言いたくない。



「少し・・・一人にして」



 それだけ言うのが精一杯だった。


 アキラは一瞬だけ迷った顔をした。


 けれど、すぐに頷いた。



「分かった。無理はするな」



 その言葉で、また胸が痛む。


 優しい。


 だから、苦しい。


 こんな私に、そんな声を向けないでほしかった。


 エマは顔を伏せ、廊下の壁に手をついた。


 視界の端で、ミレイアがまだアキラを見ている。


 前髪の奥の黒い瞳。


 怯えているようで、縋っているようで、守ってほしいと訴えているような目。


 あの目で、アキラを見ないで。



「・・・いや」



 小さく漏れた声は、誰にも届かなかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 遺体が運び出された後も、床には血の跡が残っていた。


 使用人たちは廊下の奥に集まり、誰も近づこうとしない。


 公爵が命じ、警備兵が散らそうとするが、空気までは散らせない。


 疑いはもう広がった。


 精霊。


 血で書かれた文字。


 それだけで、銀の小鳥も、禁書庫の噂も、記憶の齟齬も、全部が一つに繋がったように見えてしまう。


 実際には繋がっていない。


 少なくとも、俺がやったことではない。


 だが、人は事実ではなく、納得しやすい形を信じる。



「アキラ」



 マルスが隣に来た。

 声は落ち着いている。

 けれど、疲れていた。



「悪いけど、ここからもっと悪くなる」


「だろうな」


「君を外に出した方がいい、という意見が出ると思う」


「もう出てるだろ」



 廊下の奥から聞こえた小声を、俺は聞いていた。


 精霊使いを追い出すべきだ。

 そう言った者がいる。


 公爵の耳にも届いているはずだ。



「僕たちは、君を疑っていない」


「分かってる」


「でも、それだけじゃ止まらない」


「それも分かってる」



 マルスは唇を引き結んだ。



「誰かが、感情を逆なでしている」



 その言葉に、俺は目を向けた。



「感情を?」


「怒り、不安、恐怖、疑い。そういうものを直接作っているというより、元々あるものを逆なでして、大きくしている感じがする」



 マルスは廊下の奥を見た。



「でも、どうやっているのか分からない」



 俺も分からない。

 アルでもまだ掴めていない。


 物理的な証拠は拾える。

 死体が自殺だったことも分かる。


 けれど、その手前。


 どうやって人に自殺させたのか。

 どうやって屋敷の空気をここまで悪化させているのか。


 そこが見えない。



『精神干渉、感情誘導、認識改変の可能性は上昇しています』


(完全に他人を制御できる可能性は?)


『かなり高確率。そう考える方が自然です』


(犯人は?)


『特定不能。観測データが不足しています』



 駄目か。

 分かっていたが、きつい。



「アキラ殿」



 公爵が近づいてきた。

 その顔には、疲労が濃く出ている。



「屋敷内の者には、儂から説明する。貴殿はしばらく、部屋に戻っていてほしい」


「隔離ですか」


「守るためだ」



 公爵は即答した。

 その言葉に嘘はない。


 だが、守る対象が俺だけではないことも分かる。


 俺を使用人たちの前から消すことで、屋敷の空気を少しでも抑えたいのだ。



「分かりました」


「すまぬ」


「公爵閣下が謝ることじゃないですよ」



 そう言ったが、公爵の顔は晴れなかった。


 俺は廊下の奥を見た。


 エマはいない。


 さっき、一人にしてと言ったきりだ。



(アル、エマの位置は)


『東側客室付近。呼吸乱れあり』


(見守れ。直接干渉はするな)


『了解』





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 部屋へ戻る途中、誰も俺に声をかけなかった。


 すれ違う使用人は、みな道を譲る。


 礼はする。


 形だけは整っている。


 だが、目が違う。


 恐怖。

 疑念。


 そして、どこかにある期待。


 俺が犯人であってほしい、という期待。


 そうであれば、話は簡単だからだ。


 精霊使いが来た。

 屋敷がおかしくなった。

 人が死んだ。

 血で精霊と書かれていた。


 だったら、精霊使いを追い出せばいい。


 分かりやすい。

 吐き気がするほど、分かりやすい。



「くそ・・・」



 部屋に入って扉を閉めた瞬間、思わず悪態が漏れた。



『精神負荷の上昇を確認』


「そりゃ上がるだろ」


『鎮静物質の生成を提案』


「まだいい。頭を鈍らせたくない」


『了解』



 窓の外では、庭園の木々が風に揺れていた。

 静かな景色だった。


 だが、その静けさが今は逆に気味悪い。


 その時、扉が控えめに叩かれた。



「アキラ様・・・」



 ミレイアの声だった。


 俺は一瞬、返事に迷った。


 今、彼女を部屋に入れるのはよくない。

 屋敷中が俺を疑っている状況で、王宮から逃げてきた保護対象と二人きりになる。


 どう考えても、まずい。



「ミレイア。悪いが、今は――」



 扉が、ほんの少しだけ開いた。


 前髪の向こうから、黒い瞳がこちらを覗く。



「あ・・・」



 ミレイアは自分でも驚いたように固まった。


 それから、困ったように小さく笑う。



「来ちゃいました」


「来ちゃいました、じゃないだろ。今は危ない」


「ごめんなさい。でも、その・・・心配で」


「俺を?」


「はい」



 ミレイアは扉の隙間から、そっと部屋に入ってきた。


 足音は小さい。

 けれど、逃げるような動きではなかった。


 胸の前で両手を握り、少しだけ視線を泳がせる。



「さっき、皆さんがアキラ様を見る目が・・・怖かったから」


「君が謝ることじゃない」


「でも、私が余計なことを言ったから、もっと・・・」


「違う」



 俺は扉に背を向け、壁にもたれた。



「君は俺を庇ってくれた。それは分かってる」



 少し沈黙があった。


 ミレイアは俯いたまま、ぽつりと言う。



「アキラ様は・・・怖くないんですか」


「怖いよ」



 自分でも、意外なほど素直に答えていた。



「怖いし、腹も立ってる。けど、怖がってるだけじゃ何も変わらない」


「・・・強いんですね」


「違う。慣れてるだけだ」


「嘘です」



 小さな声だった。


 けれど、妙にはっきりしていた。


 俺が顔を上げるより早く、ミレイアが一歩近づいてきた。


 そして、俺の顔を両手で挟んだ。


 細い指だった。

 少し冷たい。


 驚いて動きが止まる。



「ミレイア?」


「強がらないでください」



 前髪の奥から、漆黒の瞳がまっすぐ俺を見ていた。


 さっきまで俯いていた少女とは思えないほど、近い。


 涙の残った黒い瞳。


 怯え、心配。

 それから、ほんの少しだけ怒ったような色。



「怖いなら、怖いって言っていいんです」


「・・・俺が?」


「はい」


「君に?」


「はい」



 ミレイアは真剣だった。


 小さな両手で、俺の顔を逃がさないように挟んでいる。


 力は弱い。

 振り払おうと思えば、簡単に振り払える。


 けれど、できなかった。



「私は、アキラ様に助けてもらってばかりです」


「助けたと言えるほどのことはしてない」


「しています」



 即答だった。



「アキラ様がいると、少し息ができます。だから・・・」



 ミレイアの指が、わずかに震えた。



「だから、アキラ様も、少しだけ息をしてください」



 ミレイアは微笑んだ。

 胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけた気がした。


 俺は、ゆっくり息を吐いた。


 自分で思っていたより、ずっと深い息だった。



「・・・参ったな」


「はい?」


「年下の女の子に説教された」



 ミレイアは目を丸くした。


 それから、ほんの少しだけ頬を膨らませる。



「説教じゃありません」


「じゃあ何だ?」


「励まし、です」


「そうか」



 俺は小さく笑った。



「なら、効いた」



 ミレイアの顔が、ぱっと柔らかくなった。



「本当ですか?」


「ああ。少し、落ち着いた」


「よかったです」



 そう言ってから、ミレイアは自分が何をしているのか思い出したように、慌てて手を離した。



「あっ、ご、ごめんなさい! 私、勝手に・・・」


「いや、助かった」


「でも、こんなことをしたら、またエマ様に・・・」



 そこまで言って、ミレイアは口を押さえた。


 俺は苦笑する。



「それは、たぶん怒られるな」


「や、やっぱり・・・」


「だから、見つからないうちに戻った方がいい」


「はい」



 ミレイアは小さく頭を下げた。


 扉の前まで行って、振り返る。



「アキラ様」


「なんだ?」


「私は、信じています」



 そう言って、彼女は今度こそ部屋を出ていった。


 足音が遠ざかる。


 俺は扉の前で、しばらく動けなかった。


 この屋敷には、何かがいる。


 姿の見えない何かが、人の感情を逆なでしている。


 怒りを、恐怖を、疑いを。


 そしてたぶん、エマの胸の中にある何かまでも。


 けれど、さっきの黒い瞳だけは、不思議なくらい静かだった。


 そして暖かかった。



「・・・俺がしっかり、しないとな」



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