第57話 銀の鳥は逃がさない
夜のヴェルクハーフェンに、銀の鳥が散っていた。
屋根の上を滑り、煙突に止まり、運河の水面をかすめ、倉庫街の梁に身を潜める。
鳥たちは鳴くわけではない。
ただ、見ている。
人が眠る時間に、人目を避けて動く者たちがいる。荷を運ぶ者。紙を燃やす者。鞄を抱えて逃げ出そうとする者。
そのすべてを、銀の鳥は見ていた。
『第三新港湾、運河沿い倉庫で夜間搬出準備を確認』
アルの声が、思考の奥に落ちる。
『上流区画、市議会関係者宅で紙面の燃焼反応を確認』
(他は)
『奉公契約承認担当者宅、逃走準備を確認。屋内に複数名。拘束対象と思われる人物が一名』
俺は、腰に剣を吊り直した。
エマは隣でローブの留め具を確かめている。表情は静かだったが、目だけは冷えていた。
「一斉に動いたか」
『肯定。摘発を恐れた証拠隠滅行動と推定します』
「なら、逃がさない。行くぞ」
俺たちは母屋を出て、精霊工房の事務所へ向かった。
事務所にはまだ明かりが灯っている。机の上には、押収した書類が広げられていた。
セレナは細縁の眼鏡をかけ、紙と紙の間に細い線を引いていた。
「港湾側にはオルベックへ使いを出しました。上流筋にはヴァルシュへ。守備隊にも立会いを要請済みです」
「早いな」
「遅いくらいです」
セレナは顔を上げないまま言った。
「精霊の奇跡だけでは、罪にはできません」
「ああ」
「ですが、奇跡で見つけたものを、人の手で押さえれば証拠になります。現物、印章、帳簿、証言、押収時の立会い。必要なものは揃えます」
「助かる」
「必要ですので」
いつもの言葉だった。
ただ、今夜のそれは、いつにもまして頼もしい。
『第三新港湾、オルベック側人員が現場へ到着』
アルの報告に、俺は目を細めた。
(映せ)
『了解』
視界の端に、港湾倉庫の映像が重なる。
暗い倉庫前で、鉄紺の髪を後ろでまとめたミリアナが、港湾警備隊と倉庫管理者を従えて立っていた。表情は硬い。怒鳴ってはいないが、その場の空気は完全に彼女のものだった。
「い、傷んだ穀物の廃棄搬出です。手続きは済んでおります」
倉庫番らしき男が、汗を浮かべながら言う。
ミリアナは積まれた袋を見た。
「傷んだ穀物にしては、ずいぶん高い保険をかけているのだな」
「そ、それは、大口なので・・・」
「開けろ」
短い命令だった。
男が抵抗するより早く、港湾警備隊が袋を切る。中から穀物がこぼれた。その下に、薄い木箱が隠れている。
蓋が外される。
鎮静薬。偽造荷札。港湾搬出記録の控え。粗末な通行証。そして、荷役人に渡すための口止め金。
ミリアナの声が低くなった。
「うちの港を、人攫いの逃げ道に使わせるわけがないだろう?」
倉庫番の膝が揺れる。
「連れて行け!」
ミリアナの声が響いた。
『第三新港湾、搬出準備を制圧。証拠品を確保』
(早すぎだろ・・・まぁ、さすがだな)
東港の姫、か。
オタサーの姫っぽいとか思って、ほんとごめんなさい。
『上流区画、ヴァルシュ側が対象屋敷へ到着』
次の映像が重なる。
屋敷の広い部屋。暖炉。燃える紙。夜中だというのに、妙に明るい室内。
そこへ、リゼットが入っていった。
彼女は笑っていた。いつものように華やかで、隙のある笑みだ。
だが、目だけは笑っていない。
「あら。こんな夜更けに暖炉なんて、風流ね」
屋敷の主らしき男が振り返る。
「リゼット嬢・・・これは私的な書類を処分していただけだ」
「そう。なら、私的な書類に奉公契約承認印が押されている理由も、あとで聞かせてくれる?」
男の顔が固まる。
リゼットは暖炉のそばへ歩き、燃え残った紙片を指先でつまんだ。後ろに控えていたヴァルシュの私兵が、机の引き出しを開ける。中から紙束が出てきた。
身請け予定者名簿。富裕層向けの紹介状。賄賂記録。カリウスという名の官吏との書簡。まだ燃やしてない分の書類だ。
『リゼット。紙を振ってください』
アルが鼓膜を振動させ、メッセージをリゼットだけに伝える。
言われた通り。リゼットは紙束を軽く振る。
「こうかしら?」
そのタイミングで、ナノマシンが逆再生のように紙を修復していく。
もちろん、文字も、印もだ。
「あら、面白いわね。ふふ・・・紙を燃やせば、罪まで消えると思った?」
男は何も言えなかった。
「でも残念。戻っちゃったわね」
『市議会関係者宅、証拠隠滅を阻止。身請け予定者名簿、賄賂記録を確保』
俺は息を吐いた。
港も上流も、動きが早い。
全部が間に合うとは限らない。
だが、アルはすべてを記録している。
『アキラ』
(どうした)
『第三新港湾から西へ二筋。証拠品を持った男が一名、逃走を開始しました。守備隊の到着まで推定二分四十秒。現状では捕捉が間に合いません』
「ちっ、一歩遅かったか」
港の方角から、わずかに怒号が聞こえる。
摘発が始まれば、逃げる奴も出る。証拠を持っているなら、なおさら放っておけない。
「アル、なんとか止められるか? できれば怪我をさせずに。物理的じゃない方法が良い」
『お任せください』
(・・・今の返事、大丈夫か?)
『問題ありません。対象の肉体損傷を避け、証拠品の破損も防ぎます』
(ならいいが)
アルの視界が重なる。
男は革鞄を抱え、裏路地を走っていた。
息は荒い。足取りも乱れている。それでも、角を二つ曲がれば守備隊の視界から外れる。そう思っているのが、表情だけで分かった。
「くっくっく、遅ぇんだよ・・・!」
男が笑った。
その瞬間、行く手の壁に銀色の点が灯る。
小さな光だった。虫か、火の粉か。男がそう思った次の瞬間、それはまばたきするように開いた。
眼だった。
「・・・は?」
銀色の眼球が、壁の上から男を見ていた。
『見ています』
声がした。
男が振り返る。背後には誰もいない。
「だ、誰だ!」
『見ています』
今度は右の木箱に、銀色の眼が開いた。左の雨樋にも。頭上の看板にも。
男の喉が、ひゅっと鳴る。
「な、なんなんだよ・・・!」
男は逃げた。
だが、曲がった先の壁にも眼があった。石畳の水たまりにも、銀の瞳が映っている。閉じた窓にも細い光の線が走り、まるで内側から誰かが覗いているように眼が開く。
『逃がしません』
「やめろ!」
『逃げても無駄です』
「来るな! 見るな!」
男は革鞄を抱えたまま、よろめくように走った。
だが、路地の出口に出た瞬間、足が止まる。
正面の壁一面に、銀の眼が並んでいた。
大きなもの。小さなもの。細いもの。丸いもの。
すべてが、男だけを見ている。
『『『『『見ています』』』』』
『『『『『見ています』』』』』
『『『『『見ています』』』』』
『ずっと見ています』
「あ、ああ・・・」
男の膝が折れた。
そこへ、守備隊の足音が近づいてくる。
いたぞ! 逃げるな!
守備隊がそう叫ぶところだった。
だが、その前に男の方が叫んだ。
「助けてくれええええ!」
守備隊員たちは、一瞬だけ足を止めた。
「・・・え?」
「た、助けてくれ! 見てる! 見てるんだよ! ずっと見てるんだ!」
「ええと・・・か、確保ぉ!」
男はほとんど自分から守備隊に縋りつき、そのまま取り押さえられた。
『対象、守備隊により確保。証拠品の破損なし。対象の肉体損傷なし』
(・・・アル)
『はい』
(何をした)
『視覚投影による心理的誘導です』
(具体的には?)
『多数の眼球を投影し、逃走継続の無意味性を通知しました』
「お前、怖いな・・・」
『物理的手段は使用していません』
「そこは間違ってないんだがな」
隣を歩いていたエマが、こちらを見る。
「何かあったの?」
「いや・・・証拠を持って逃げた奴が捕まった」
「そう。よかったわ」
「ああ。よかった。たぶん」
「たぶん?」
「いや、なんでもない」
今後アルに“物理的じゃない方法”を頼む時は、もう少し具体的に言おう。
そう心に決めながら、俺たちは奉公契約承認担当者の家へ向かった。
石畳の道は冷えていた。遠くで運河の水音がする。窓は閉じ、街の大半はまだ眠っている。だが、その裏側では、すでにいくつもの扉が破られ、いくつもの嘘が剥がされていた。
屋根の上を、銀の鳥が飛んでいく。
エマは無言で歩いていた。
横顔を見るだけで分かる。怒っている。
「エマ」
「分かっているわ。殺さない」
「まだ何も言ってない」
「言うつもりだったでしょう」
「・・・まあな」
エマは前を見たまま言った。
「でも、止める必要があるなら止めて」
「ああ」
『屋内に五名。対象一名、護衛二名、使用人一名、拘束対象一名』
「拘束対象?」
『若年男性。手首拘束。口封じの可能性があります』
空気が変わった。
エマの声が低くなる。
「急ぎましょう」
俺は頷き、足を速めた。
カリウス=ベネック。
奉公契約承認担当者。表向きは貧民街の子供や孤児に奉公先を斡旋する官吏。実際には、その書類を裏流通の入口にしていた男。
アルの視界が室内を映す。
机の上には、金貨袋、偽名の通行証、奉公契約の控え、小型印章、燃やしかけの書類、旅装。
椅子には若い男が縛られていた。十代後半か、二十歳前後。顔は青ざめ、唇が震えている。
護衛の一人が短剣を持っていた。
「俺は、子供だなんて知らなかったんです・・・」
若い書記が言う。
「名前が、搬出番号と繋がってるなんて・・・そんなの、ただの奉公契約じゃないって・・・」
カリウスは、逃走用の外套を羽織りながら吐き捨てた。
「だから、お前は余計なことを知った」
護衛が短剣を上げる。
その瞬間、エマの風が走った。
窓が鳴る。裏口が外から押さえつけられる。空気がねじれ、家全体の逃げ道を塞いだ。
俺は正面の扉へ踏み込む。
古い鍵が弾け、扉が内側へ開いた。
「なっ――」
護衛が振り返る。
遅い。
短剣を持っていた男の手首を打ち、膝を蹴る。崩れたところへ鞘で顎を打ち上げると、男は声もなく床に落ちた。
もう一人の護衛がエマへ向かう。
「動かないで」
声は静かだった。
だが護衛は止まらなかった。
次の瞬間、細い雷光が室内を走る。
護衛の体が跳ね、床へ崩れた。
殺してはいない。だが、しばらく動けもしないだろう。
カリウスが裏口へ走る。
しかし、扉は開かない。風が板を押さえている。慌てて窓へ向かおうとした足元で、風が渦を巻いた。
男は無様に転ぶ。
使用人は壁際で両手を上げて震えていた。
エマは室内を見回す。
声は荒げていない。
けれど、その場の誰よりも、エマが怒っているのが分かった。
「終わりだ、カリウス」
俺が言うと、床に這いつくばった男は歯を剥いた。
「遅かったな・・・」
カリウスは暖炉を見た。
炎が紙を舐めている。
「証拠は燃えた」
俺も暖炉を見る。
『紙面情報は記録済みです』
「そうか」
銀の鳥が、暖炉の前に現れた。
小さな光が羽ばたく。
灰が舞う。煤が浮く。炭化した紙片が、銀の光に照らされる。
焼けた紙の上に、文字が浮かび上がった。
名前。番号。金額。承認印の位置。搬出先。
それが修復された紙に再び記されていく。
瞬く間に、灰の中から消えたはずの書類が戻ってくる。
カリウスの顔から血の気が引いた。
「な、なんだ・・・一体なんなんだそれは!」
「精霊が見てるからな。証拠は燃えないって話だ」
銀の鳥は暖炉から離れ、机の下へ飛んだ。
小さなくちばしが床板を叩く。
『隠し収納があります』
俺は机を動かし、床板の継ぎ目へ指をかけた。少し力を入れると、板が浮く。
中には、革で包まれた紙束があった。
燃やしきれなかった原本。奉公契約承認印。偽名通行証。港湾搬出番号の控え。金銭分配記録。鎮静薬の購入控え。
カリウスは、今度こそ言葉を失った。
「これで、燃えた分も合わせて確認できるな」
「ち、違う・・・私は、書類を処理しただけだ。実際に子供を攫ったわけでは――」
「その書類で、人が運ばれたんだろうが」
俺は紙束を守備隊用の封袋へ入れる。
その間に、エマは縛られていた若い書記の拘束を解いていた。
書記は床に座り込み、両手を見て震えている。
「俺は・・・ただの奉公契約だって・・・」
「名前は?」
「テオ・・・テオ=ハルムです」
エマは膝をつき、声を落とした。
「もう大丈夫よ。話せることだけ話しなさい」
「でも、あの子たちの名前が、荷札の番号と同じで・・・鎮静薬の費用が、身請け準備金になっていて・・・おかしいと思って、それで・・・」
「よく言ってくれたわ」
カリウスが床の上で顔を歪めた。
「貧民街の子供だぞ。どうせ――」
「いい加減に黙りなさい」
静かだった。
だが、逆にそれで室内の空気が冷えた。
エマはゆっくり振り返る。
「子供を荷にしただけでは足りなくて、今度はこの子の口まで塞ぐの?」
カリウスは口を閉じた。
怒鳴られたわけではない。脅されたわけでもない。
ただ、エマの声があまりにも静かだったから、何も言えなくなったのだ。
たぶん、怒っているのは俺だけじゃない。
この街の誰かが怒らなければならないことに、エマは真正面から怒っていた。
やがて守備隊が到着し、カリウスと護衛たちを拘束した。
押収物はその場で封印される。セレナの指示通り、立会人の名前、時刻、場所、封印番号が記録されていく。
テオは守備隊員に支えられ、別室へ運ばれた。
その顔はまだ青かったが、少なくとも、もう短剣を向けられてはいない。
『逃走犯の革鞄から、身請け予定者名簿の控え、偽造印、金銭受け渡し記録を確認』
(セレナへ)
『送信済み』
俺たちが精霊工房へ戻る頃には、事務所の机はさらにひどいことになっていた。
紙、紙、紙。
だが、混沌としているわけではない。
セレナは机の中央に奉公契約書を置き、左に港湾記録、右に身請け予定者名簿、手前に金銭分配記録を並べている。
眼鏡の奥の目は、眠気の欠片もない。
「承認印が一致しました」
セレナが言う。
「搬出番号も、港湾側の記録と一致。鎮静薬の費用は、身請け準備金として処理されています。逃走犯が持っていた控えで、金の流れも繋がりました」
守備隊の立会人が、思わず息を呑む。
セレナは最後の線を引いた。
「言い逃れはできません」
その一言で、部屋の空気が決まった。
これはもう、単発の人攫いではない。
港。市議会。奉公契約。上流客。薬品流通。
別々に見えていたものが、一つの線の上に乗った。
『第三新港湾、搬出準備を制圧。荷役責任者、倉庫番、帳簿係を拘束』
アルの報告が入る。
『市議会関係者宅、身請け予定者名簿と賄賂記録を押収』
続けて。
『逃走犯、守備隊が確保。証拠品の破損なし』
俺は椅子に座りかけて、やめた。
まだ座る気にはなれなかった。
「終わった、か」
『否定。今夜の摘発が一段落しただけです』
「分かってるよ」
思わず苦笑した。
これで全部が終わるわけじゃない。捕まえた連中の上がいる。金を出した奴がいる。商品として子供を求めた奴がいる。そして、おそらくこの街の外にも線は続いている。
それでも、今夜は一つ、止めた。
外へ出ると、夜明け前の空はまだ暗かった。
守備隊に引かれていくカリウス。封印された箱。俯く倉庫番。青ざめた市議会関係者。支えられながら歩くテオ。
街の大半は、まだ眠っている。
だが、眠っている街の裏側で、大きなものが動いた。
銀の鳥が屋根に止まる。
その時、アルの声が落ちた。
『精霊工房周辺に監視者を検知』
「残党か?」
『敵意なし。武装あり。逃走経路は複数確保している模様』
「面倒な条件が揃ってるな」
『対象は銀の鳥を認識しています』
俺は路地の方へ視線を向けた。
暗がりの中に、男が立っていた。
近づいてこない。逃げもしない。こちらを威圧する気配もない。
ただ、屋根の上の銀の鳥へ、片手を上げた。
『対象、接触意思あり』
俺は小さく息を吐いた。
「今夜は長いな」




