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021 それはいつかのプロローグ

 白と青。

 彼方まで続く燐界空平線(ストラトスフィア)が視界に広がっていた。

 風になぶられながら、“欠陥品”の影人形は指ひとつ動かさない。

 海のように広がる雲の上、青の空には硝子のような機巧樹が這っている。波打つ水面にも見える巨大構造体が空のすべてを占めていた。もう二度と届かない高さにそれは在る。


 影人形は捨てられた。

 壊れているから捨てられた。


 青年の姿をした影人形は軋むような遅さで腕を伸ばす。

 遠い空。ストラトスフィアの上に続く世界へと。

 だけれどその腕も、ネジが切れたように動きを止めた。

 蒼穹に光るものはなく。

 そこにあるはずの機巧樹を認識できなくなっていた。

 直後。

 落ちた雲の海によって視界が奪われたが、影人形にとっては些末なことだった。意識下の保持領域(ストレージ)で働く各種アプリがさまざまな情報を視界に投影してくる。そのどれもが見に迫る危険を示していた。

 灰色の視界が唐突に開ける。雲を抜けていた。

 映写展開される警告表示が騒がしい。身体を覆う不可視の領域壁は負担に歪む。

 緑が見えた。すぐにそれが山間の森だと判別できるほど近くなっていく。

 “欠陥品”の末路には相応しいと黒仮面の下で自嘲して。

 影人形は「瞳」を閉じると、――暗がりの奥へ静かに心を沈めた。





 影人形の青年は自分の性能に嫌気が差した。

 周囲を知覚する擬似感覚の存在は、自身の生存を自覚させられる。

 落ち葉の上に身を横たえ、木々の隙間から見える夜空を見た。

 視界に映写展開された情報から、いくつもの機能が壊れているように読み取れる。勝手に働いた防衛機構による自動処理。能力の多くが失われ、その代わりに地表との衝突を避けたらしい。


「死に損ねた……」


 加えて言えば、欠陥度が増していた。

 見てくれは影人形らしく黒衣の黒仮面を維持していたが、そこにどれほどの価値があると言えるのか。中身は地表に落ちる前より“欠陥品”になっている。

 錆びて欠けて崩れて散って。

 星空の下、影人形は身動きひとつしないで闇に沈む。

 意識下で生命維持機構が働き続けていた。それは影人形の意志すら必要とせず、淡々と燐子の消費を抑え、ただ定められた通りのプロセスを繰り返す。

 そうしてどれだけの時間が過ぎたのか。

 影人形の青年にとっては眠りと変わらない静謐だった。緩やかに死に向かって進むだけの褪せた時間。自分の「カタチ」が闇に溶けていく。


「――――――――」


 強く眩しい白が弾けた。

 冷えた夜の空気に混じって、唐突にそれを知覚する。

 どれほど閉じていたかも忘れた「瞳」を使い、周囲をうかがった。

 降るのは雪。

 ――舞うように見えたそれは白色の燐子だった。

 曇った夜空の下に、落ちてから感じたことのなかった濃密な燐子が溢れている。

 擬似感覚を研ぎ澄ませば、発生源を捉えるのは容易だった。

 断続的に聞こえる戦いの音。

 鮮烈な白の光も、――そこに在る。





 燐子の舞う月下。

 切り立った岩の上でひとりの少女が踊る。

 手には白剣。纏った衣服も白で、揺れる長い髪も白かった。

 優雅な剣舞にも見えたが、それは間違いなく命のやり取りで。群がる影の怪異を消し去る少女の顔は、幼さに見合わない険しさで塗り固められている。

 獅子の耳と獅子の尾を持つ彼女は、剣の一太刀で怪異の首をいくつも落す。

 白と黒の渦巻く光景を前にして、影人形の青年は立ち尽くしていた。

 月光が雲間から落ちている。

 螢雪(ほたるゆき)の舞うそこは触れることを許さない儀式にも見えて。ただ眩しさに惹かれただけの影人形はなにもできずにいた。

 岩の周囲には絶え間なく怪異が湧き出している。

 這い上がる黒を白刃が断つ。

 少女が振るった白剣が咆哮するように鳴動した。直後に生まれた霧のような獅子が影の怪異を喰らう。踏み裂き千切り、すべてを散らしていく。

 汗に濡れる少女は明らかに消耗していた。

 それでも、――どこまでも必死に生きあがく。

 際限のない怪異を相手に白の少女はいつまでも戦った。

 けれど時とともに精彩さは失われ、片膝をつき、怪異の接近を許す。

 組みつかれ食いつかれ白が黒に覆われていく。

 領域壁による防護は怪異の牙を通していなかったが、やがてそれも破られる。

 それは嫌だな、と影人形は思った。

 まだ見ていたいと感じていた。もっと長く。失うには惜しい眩しさだった。

 影人形は爪剣を鋭く伸ばして駆け出した。

 怪異を刻む。

 負荷を訴える警告表示は無視して動く。

 影狼。影鬼。影熊。影猿。影の怪異たちを引き裂いた。

 戦うのは得意だった。そうあるように作られたのだから当然だった。たとえ“欠陥品”だったとしても、その方向性は失われていない。残っている力を再構成しながら怪異を刻み狩る。

 警告警告警告(連続するアラート)

 次々に保持領域(ストレージ)内のアプリが壊れていく。その度に意識下で最適な構成を再構築。残る力を爪剣という武装に変えて、少女に群がる怪異を排除する。


「――――!」


 少女に牙を剥く怪異を引き裂くのと、白剣が影人形に突き出されるのは同時だった。

 眼前に迫る剣先。

 それは直前で火花を散らすようにして軌道が変わった。

 不可視の領域壁によって逸れた刃が黒仮面の端を削り取る。

 直後、訪れたのは一瞬の静寂。

 少女はその目に影人形を映して動きを止めていた。

 そこには驚きの色だけがあり、影人形は構うことなく背を向ける。気圧され距離を取っていた怪異たちが再び襲いかかってきていた。


「助けてくれるの?」


 月に雲がかかり、辺りを照らすのは燐子の光だけになる。

 影人形は怪異を退けることで応じ、少女もそれを見て背を預けてきた。


「ありがとう。でも離れたほうがいいよ」


 怪異に応戦しながら少女は言う。


「私は白獅子なのに弱いから。力が上手に使えなくて。こいつら、ずっと生まれ続けるよ? 死んじゃうよ?」

「……別に。生きる気もない」


 “影喰い”である白獅子だからこうも怪異に溢れているのかと理解して。それでも影人形は素っ気なく返した。そのまま、制御ができずに生まれ続ける白獅子の「餌」を狩り続ける。

 密度の増した燐子が周囲を歪めていた。

 白と黒の光が混ざり合い、地から天に向かって灰色の雫が無数に落ちた。それは逆さに降る雨のよう。空は曇り、昼も夜もない。

 周囲を歪めるほどの燐子は糧にもなった。人ならざる影人形は濃密な燐子に晒され続けることで力を繋ぐ。それは少女も同様だった。

 そうして戦い続け、消耗する一方だった状況が転じたのはいつの頃からだっただろうか。いつしか怪異の出現は散発的になり、ついには終わりを告げた。

 切り立った岩の上。

 燐子は落ち着きつつあるが、未だ晴れない空を仰ぐ少女の姿があった。


「もう少しすれば飛べるかなあ」

「――飛んでどうする?」


 機巧樹どころか燐界空平線(ストラトスフィア)にすら届かないのに。


「どうするって、私は飛びたいだけだよ?」

「は……?」

「え、だって。空を飛ぶのは気持ちいいでしょ?」


 心底不思議そうに少女は言った。

 彼女には機巧樹に届かないことも、ここが燐界空平線(ストラトスフィア)の下であることも関係ないようだった。影人形は理解が追いつかず、ただ無言で返す。


「どうしたの?」

「こんな『下の世界』のなにがいいって言うんだ。生きようが死のうが価値のない世界だろ。お前も機巧樹の住人だったなら、この場所が無価値なのを知っているはずだ」

「うん。でもいまはラクシャだよ」


 少女は事も無げに言う。


「飛ぶのは嫌い?」

「俺にはこの空の価値が分からない」


 思い出すのは燐界空平線。あの空ならもう一度飛びたいと思った。

 もちろん、届くはずがないのだけれど。

 だとすれば意味がない。そこに価値はないと影人形は自嘲する。


「俺はお前みたいに生きられない。それなのに死ねないでいる」


 心が暗がりに沈む音がする。


「どこまでも俺には価値がない」


 影人形は少女から視線を外して呟いた。

 価値がないのなら価値を作ろうと動いた。彼女を守ろうと戦った。

 それは叶い、少しの間だけ価値は生まれた。

 だけれどそれももう終わり。

 少女は白獅子の力を引き出した。影人形の手は必要なくなった。

 影人形に価値はない。


「なんだ、そんなの簡単」


 言って獅子架は笑みを零した。


「生きる気もない。死ぬ気もない。だったら私につきあってよ」


 霧散していゆく雲間から陽光が差すなかで。

 やりたいこといっぱいあるんだから、と彼女は手を広げる。


「お礼もしたいし。それにほら」


 手をつかまれた。彼女は白の機械翼を展開する。


「空、飛びたくなるよ?」

「な――」


 そのまま一気に上昇。一瞬で木々の高さを越えて空に至る。

 そして、放り投げられた。

 落ちる。慌てて翼を展開した。


「な、なにして――」

「もっと遠くまで行こうよ。もう飛んでるんだから」


 悪戯が成功したといった顔の少女。

 だけれど、本当に楽しそうに彼女は飛んでいた。

 雲が散り消えた青の空。

 見上げたところで機巧樹は認識できない。燐界空平線にも届かない。


「はーやーくー!」


 それでもここには空が在る。

 遠くで騒ぐ少女は、影人形には苦笑した。

 彼女にはなにが見えているのだろうと愚考する。錆びた自分には分かるはずもないのにと思いながら。

 だけれど。

 心のどこかで、静かにネジの巻かれる音がする。

 視界で白の翼が眩しく陽光を返していた。


 ――この空を教えてくれた彼女なら。


 いつか彼方のストラトスフィアにすら届く気がした。

これにて完結です。

最後までお読みいただきありがとうございました。


未熟な自覚はありますが、これがいまの精一杯な気もします。

少しでも楽しんでいただけたでしょうか。不安です。次はもっと頑張ります。

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