エピローグ 母と娘としてのふたり
エピローグ 母と娘としてのふたり
マリー・アントワネットを理解するためには、彼女の母、マリア・テレジアにも目を向ける必要がある。
マリア・テレジアは、単にフランス王妃の母親だったのではない。
彼女はハプスブルク家の君主として、戦争、外交、財政、行政改革に取り組んだ政治家だった。女性が君主として統治すること自体が容易ではなかった時代に、彼女は自らの権力を守り、国家を運営し続けた。
一方、娘のマリー・アントワネットは、フランス王ルイ十六世の王妃となった。
二人は、同じ王族でありながら、置かれた立場が違っていた。
母は国家を統治する君主だった。娘は、複雑な宮廷政治の中で生きる王妃だった。
マリア・テレジアは、娘の振る舞いを遠くウィーンから案じ、手紙で何度も忠告した。
一七七一年十月三十一日付の手紙には、娘が周囲の人々と同じ道をたどろうとしていることへの懸念が記されている。
「あなたが同じ道をたどろうとしているのを見て、私は黙っていなければならないのでしょうか。あなたを愛しているからこそ、黙っていることなどできないのです。」
これは、王朝の将来を考える政治家の言葉であると同時に、娘の行く末を心配する母親の言葉でもあった。
マリア・テレジアは、娘が周囲の評判や宮廷の人間関係に流されることを恐れていた。彼女にとって、王族の振る舞いは個人の趣味だけでは済まされない。家の名誉にも、国家間の関係にも結びついていたからだ。
しかし、母が政治家として優れていたからといって、娘も同じように生きられるとは限らない。
マリア・テレジアは、自ら統治する立場にあった。マリー・アントワネットは、フランス王妃として、夫や宮廷、外交関係、世論の間で生きていた。
母の経験は娘への助言になった。だが、その経験がそのまま娘の人生の答えになるわけではなかった。
マリー・アントワネットには、贅沢を好む面があった。衣装や装飾、娯楽への関心も、批判の対象となった。
けれど、豪華なドレスも、高く結い上げた髪も、髪に粉をつける習慣も、彼女ひとりが発明したものではない。宮廷文化の中ですでに育まれていた流行を、王妃が身にまとい、広め、時代の象徴にしたのである。
また、フランスの財政危機も、王妃ひとりの浪費だけで説明できるものではなかった。
マリア・テレジアのような統治者と比較すれば、マリー・アントワネットの政治的な振る舞いに未熟さが見えることはあるだろう。
だが、比較することと、断罪することは同じではない。
母は母の時代を生き、娘は娘の時代を生きた。
母の厳しい忠告には、娘への愛情があった。同時に、娘が王家の一員として果たすべき責任への要求もあった。
そして娘は、母の期待をすべて満たせたわけではなかった。
歴史を振り返るとき、私たちは結果を知っている。革命が起き、王政が倒れ、マリー・アントワネットは処刑された。その結末を知ったうえで、彼女の一つ一つの行動を眺めると、すべてが破滅へ向かう兆候だったように見えてしまう。
けれど、歴史を生きていた人々は、未来を知っていたわけではない。
マリア・テレジアも、娘がどのような最期を迎えるかを知っていたわけではなかった。
彼女が手紙に込めた忠告も、娘の将来を案じる母の願いも、すべての結果を変えられるものではなかった。
それでも、手紙は残った。
そこには、政治家としての母と、娘を心配する母親の両方がいる。
マリー・アントワネットを、浪費家という一言だけで説明することはできない。
同じように、マリア・テレジアを偉大な政治家という一言だけで説明することもできない。
一人は統治者として国家を動かし、もう一人は王妃として革命の時代を生きた。二人には、能力も、立場も、選択できる範囲も違っていた。
だからこそ、二人を比較することには意味がある。
誰が優れていたかを決めるためではない。
人間が置かれた立場によって、何を求められ、何を選び、何を背負うことになったのかを理解するためである。
マリー・アントワネットは、間違いを犯さなかった女性ではない。
けれど、犯していない罪まで背負わなければならない女性でもなかった。
欠点を認めることと、すべての罪を負わせることは違う。
母マリア・テレジアの手紙を読むことは、その違いを考えるための、もう一つの入口なのかもしれない。
マリー・アントワネットは、間違いを犯さなかった女性ではない。
けれど、犯していない罪まで背負わなければならない女性でもなかった。
この作品を通じて、史実と伝説の境界をたどりながら、そんなことを考えた。
最後まで読んでくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。




