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営業日誌別冊・中編 「王都でお買い物」

 死ぬかと思った。実際に、魂が何度も口から出かけた気がする。


 赤髪の不良魔王様がワイバーンで曲芸飛行なんぞを披露してくれたおかげで、黒毛の人狼に備えられた三半規管は激しく揺さぶられ、胃の中身を盛大に地面にぶちまける羽目になった。


「なんじゃ情けないのぅ。この程度で参っていては、邪竜騎士団の見習いにもなれぬぞ」

「なる気も、ねぇ、よ……。うぅ……」


 王都から歩いて十分程度の近場にある小さな森の中にワイバーンを降ろすやいなや、人狼は飛び降りて地面に伏した。それを見下ろす美しい魔王様の瞳は呆れたような、それでいてどこか優しい光を湛えていた。


「仕方がないのぅ。ほれ」


 歌うように短い呪文を口ずさみながら、赤い髪を揺らして魔王様が指を一振り。すると淡い光が人狼を包み込み、すぅ、とその体内に吸い込まれた。


「ん? おぉ。なんだ、急に気分がスッキリしたぞ」

「竜騎兵長が使う、平衡感覚を正常に戻す魔法じゃ。これを使える魔族は少ないのじゃぞ? 感謝せい」


 戦闘向きとはいえ、回復に属するこの魔法は魔族が苦手とする類のものだ。それを扱えるのは、苦手を苦にしないほど魔法に長じた者たちだけ。そしてこの赤髪の美しい魔王はその最たるものである。無邪気に歯をむいて見せるその姿からは想像もつかないが。


「ほれ、もう平気じゃろう。早よう行こうぞ! わしはもう我慢ができぬ!」


 目の前で布を振られた牛のように、鼻息を荒くしながら不良魔王がはやし立てる。しっかり手綱を握っていなければ、どこまでも突っ走ってしまいそうだった。


 頭を振って黒毛の人狼が立ち上がる。俺がしっかりしなければ、この奔放な魔王様は何をしでかすか解ったものでは無い。


「っと、忘れておったわ」


 魔王の細くしなやかな指から再び光が溢れ出す。木漏れ日の指す濃緑の森に淡い光があふれ、人狼を包み込む。


 陽光の中にあってなお明るい魔力の光は人狼の身体を走り、とある変化をもたらした。


 全身を包む、美しい黒毛が消えていく。代わりに現れたのは肌色の皮膚。長い鼻頭も見る間に短くなり、人のそれと変わらなくなる。

 ほんの数秒の合間に、黒毛の人狼は若くはない、しかし老いてもいない人間の成人男性の姿に変わった。魔族の得意とする変装の魔法である。


「うおっ、なんだこりゃ! つるつるしてなんだか気持ち悪ぃな。それに、なんだか肌寒い」


 元人狼が顔をしかめながら、自分の腕に鼻をひくつかせている。


「流石に魔族の姿のまま、というわけにはいかんからの。しかし、どうも締まらんな……。そうじゃ」


 魔王様が指をぱちん、と鳴らす。すると元人狼の身体を包む衣服が、一瞬で上等な燕尾服へと姿を変えた。胸には魔族の王家を表す、捻じれた角と黒百合の紋章が刻まれたピンが付いている。


「ふむ。こんなもんかの」


 腕を組んで満足そうに頷く魔王様。しかし、対する元人狼はどうもしっくりこない様子だ。


「なんつーか、落ち着かねぇなぁ。普通じゃダメなのか?」

「何を言う。こういうのは形から入るものじゃ。見てくれを整えれば、中身も自然とついてくる」


 そういうもんかねぇ、と呻きながら元人狼が自分の全身を舐めるように検分する。


「しっかし、似合わんのぅ主様よ……」

「おめぇがやった事だろうが! その憐れむような目をやめろ!」


 半目で呻く魔王様に、元人狼が抗議する。


「さて、次はわしじゃの。ほいっとな」


 眩い光が、三度静かな森の中に満ちる。

 やがて光が静まると、その中から絶世の美が現れた。


「おぉ……」


 思わず感嘆の声が漏れる。

 闇を紡いだような漆黒のドレスに、艶やかな赤い髪が良く映えている。品よく施されたレースの飾りも、その美を存分に引き立てていた。


「どうじゃ? これでどこぞの貴族令嬢とその従者に見えよう。怪しまれはしないはずじゃ」


 その言葉に元人狼がはっと我に返る。そうだ、これはあくまで変装だった。見とれている場合ではない。

 こほん、と一つ咳払いをして心を整える。


「まぁ、馬子にも衣装だな」

「馬子とは何事か! 馬子とは!」


 素直に似合っていると言ったらどうじゃ! と憤慨する魔王様。

 意地でも言わぬと腕を組む元人狼。


 ちぐはぐな二人は、それでも二人並んで王都を目指す。


 もう、目の前だ。



 王都をぐるりと囲む市壁での検問は簡単に抜けられた。

 通行証も身分証も持ってはいなかったが、魔王様が一言「何も問題なかろう?」と魔力を乗せて微笑むだけで、二人を疑うものは居なくなった。


 押し込み強盗をしているような気分になるが、こればかりは致し方ない。どこぞの魔王様の言葉ではないが、何も悪しきことをしようとしているわけではないのだ。これくらいは大目に見てもらおう。


 市壁を抜けてからしばらくは、旅人向けの安宿が立ち並ぶ通りだった。

 あちこちにうごめく、砂と泥で固まった外套。馬車の荷台に積まれた色鮮やかな布地。街道での護衛を請け負う屈強な傭兵の群れ。

 様々なものが詰め込まれた、まるでおもちゃ箱のような場所だった。


 個人的にこういう雰囲気は嫌いではない。人の姿に変装した元人狼としては、むしろこのスラム的なごった煮感は好ましく思うほどだが、流石に燕尾服を着てうろつくような場所ではない。

 この貴族然とした服装を見たゴロツキが金目当てに魔王様に絡んでこようものなら、もしかしなくても問題が起きる。ここは早急に立ち去るべきだ。


 色々なものに興味を惹かれて忙しく首を巡らせている魔王様を急かして大通りに向かう。入口からこの様子では、帰るころには首が筋肉痛になっているのではなかろうか。


「ところで、だ。金はどうするんだ? 俺はそんなに持ち合わせは無いぞ」

「ふふふ。要らぬ心配よ。これを見るがよい」


 含み笑いと共に魔王様が懐から取り出したのは、いつも持ち歩いている巾着袋だ。そして、その中から大粒の宝石を無造作に取り出した。


「ばっ! こんな所でなんてもの出してるんだよお前はっ!?」


 慌ててその細い手首を巾着袋の中に押し込み、周囲を見渡す。幸いにも見咎められてはいなかったようだ。

 ほっと胸を撫で下ろし、赤髪不良魔王の頭をこつん、と叩いた。


「いくらなんでも無警戒すぎるぞ」

「なんじゃ。人間なぞ束で襲ってきても問題にならぬだろう」

「大いに問題だ! 下手にもめ事を起こすような真似はよせ!」


 まったく、この魔王様には〝魔王の自覚〟が薄すぎるきらいがある。自分の行動が、魔族全体にどのような影響を及ぼすのが、理解しきれていないように思える。


 八十二万の魔軍を従える大総帥である魔王が、直接人間に危害を加えるようなことがあれば、三百年前の人魔大戦を再び引き起こす火種になりかねないという事が、まるで解っていない。


「まったく心臓に悪い。で、だ。その宝石はどうしたんだ?」

「大戦時代に人間どもから奪い取った戦利品じゃ」


 穏やかじゃないな、と思いつつも三百年も昔の話だ。奪い奪われたのはお互い様。ここは有効活用させてもらおう。


「相当な上物に見えたな。それでバターなんか買ったら、積み上げて城が作れるくらいになるぞ」

「バターは必要じゃが、流石にそこまでとなると気持ち悪いのぅ……」

「そういう話じゃ無ぇよ!」


 げんなりと表情を曇らせる魔王様に、思わず元人狼が突っ込みを入れる。


「ま、ともかくまずは換金じゃな。両替商の所へ行くぞ」

「なんでだ? 宝石なら宝石商の所へ行けばいいだろう」


 首をかしげる元人狼に、魔王様が呆れたような視線を向ける。


「馬鹿正直に宝石商の所なんかに持っていたら、とんでもない安値で買いたたかれるぞ。少し小さい、輝きが足りないなどと難癖付けての。それなら売らぬと言うと〝お前は解ってない。素人が偉そうなことを言うな〟などとのたまいおってからに……っ!」


 ぐぬぬぬ、と悔しそうに唸る魔王様。途中から思い出話になっていることには気が付いていない様子だ。


「……さっきの市壁の抜け方と良い、お前、初めてじゃねぇな?」

「お、王都に来るのは初めてじゃよ? ほんとじゃよ?」


 ひゅーひゅーと口笛もどきで誤魔化そうとする魔王様。それに元人狼は訝しむような視線を向けていた。


「まったく、不良魔王様め……」



 少し考えて、手持ちの中から一番小さい宝石だけを換金した。この魔王様に大金を持たせるとろくなことになる気がしなかった。それでも、二、三か月は働かずとも豪遊できそうなほどの金額だったが。


 魔王様は換金も手慣れたものだった。街を走る小間使いに銅貨を数枚握らせ「一番信頼できる両替商を紹介しておくれ」と言う。そして引き合わされた両替商に銀貨を渡して「宝石を扱う、腕の良い流れの金細工師を紹介してほしい」と言うのだ。


 街に工房を持たぬ流れの細工師は、両替商等と共に橋の上で露店を構えることが多い。宝石は目利きが難しいので、普通の両替商に頼んでも断られるか買い叩かれるかだ。しかし日ごろから高価な金や銀、そして宝石を扱う細工師ならその点は安心である。


 そして特定の店舗を持たぬ彼らは、何より信頼で商売をしている。


 いくら身なりが綺麗でも魔王様は一人の女性。男性社会な人間界ではどうしても軽んじられる。しかし商売仲間からの紹介ともなれば無碍にすることもできず、また〝カモ〟にするわけにもいかない。


 相場を知らぬ魔界のものでも、人間の世界で安心・安全に換金や両替をするための知恵なのだと、赤髪の不良魔王様が胸を張る。


「手際が良いな。大したもんだ」

「ふっふっふ。そうじゃろうて。もっと褒めても良いのだぞ」

「よっ! 遊び人!」

「主様は普通に褒めることもしてくれぬのか!?」


 金貨と銀貨、そして宝石の詰まった巾着袋を振り回して魔王様が抗議する。


「もっと大切に扱わねぇか。お前の給料何百年分が詰まっていると思っているんだ」

「ふん、汗水たらして稼いだ以外の金なぞ、只の〝モノ〟じゃ。別段ありがたくもないわ」


 くるくると手首で巾着袋を振り回す。あの中には自慢の喫茶店を百回立て直してもおつりがくるほどの宝石とお金が詰まっていることを知っている元人狼としては、気が気ではない。


「お前が汗水たらしているところなんて、見たこと無ぇけどな」

「なぜそう主様はいちいち冷たいのじゃ……」


 拗ねたように唇を尖らせる魔王様に、元人狼は肩を竦めるのみだった。


 やがて視界が開ける。王都の目抜き通りに出たのだ。


 馬車が十両ばかり横に並んでも、まだ余裕がありそうなほどの大きな通りだった。


 道には石畳が隙間なく敷かれ、その上に人々の活気が巨大な天幕のように広がっている。


 どこからかパンを焼く、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。

 馬車を改造した露店では温めたワインや、魔王様の顔ほどはあろうかという大きさのパンに、豆と共に煮込んだ肉を挟んだ軽食が売られている。


 鍛冶工房の小僧だろうか、鼻を煤で真っ黒にした少年が忙しそうに駆けていく。


 ふと道の端にある人だかりに目を向けると、そこでは軽快にバイオリンを掻き鳴らす老人と、色とりどりなボールを使って大道芸をする少年が異色のコラボレーションをしていた。曲が終わると同時に、計ったように少年が宙に放り投げた五つのボールが籠の中へ飛び込むと、わっ、と歓声が上がった。


 それらを横目に見ながら歩を進めていくと、革細工屋から若い職人が通りに出て来て盛んに呼び込みをし始めた。その隣にある金物屋も通りへ飛び出て来て負けじと声を張り上げる。


 ふと、一人の少年が燕尾服を着こんだ元人狼に駆け寄ってきて「何か運ぶものは無いか」と問うてくる。駄賃目当てなのだろう。めぼしい荷物もないので断るが、あまりにしつこいので銅貨を一枚くれてやる。すると少年は笑顔をはじけさせて「神のご加護を!」と叫んで走り去った。人間の神が施す加護など、魔王や人狼には害でしかないのだが。


「おぉ、見よお主様! なんじゃあの巨大な鋏は!? ティターンの髭を整えるのに向いていそうじゃな! おぉ、あそこにはリンゴの……蜜漬けじゃと!? これはいかん、人間界の視察の一環としてぜひ食しておかねば……っ!」


 よほど楽しみにしていたのだろう。幾万の星々よりも眩しい輝きを瞳に宿らせて、美しい赤髪を揺らしながらまるで子供のように魔王様がはしゃぐ。


「こらこら。転んでも知らんぞ」

「ふん! 子ども扱いするでないわ。 む? おぉ、なんじゃあの緻密な柄の敷物は! 我が魔城に相応しいのぅ! 主様、あれを」

「買わねぇよ!? 本来の目的忘れてるだろう!」

「ショッピングじゃろう?」

「仕入れだよ! ショートケーキの材料を買いに来たんだろうが!」


 そうじゃったの、と魔王様がわざとらしく咳払いをする。


「しかし、なんでわざわざ王都なんだ?」

「今更じゃのう。バターや痛みやすいイチゴなんかは高級品だからの。辺境都市では手に入らぬかも知れぬ。その点、この王都なら間違いなく入手できるじゃろう」


 言われてみればその通りだ。比較的運搬の容易なリンゴやオレンジなどはともかく、少し圧力がかかったり、気温が高くなるだけで痛みが進むイチゴや桃などは大変な高級品だ。特に生クリームを使うケーキは、あらゆる食材を最高に新鮮な状態で揃えなければならない。確かに、辺境都市などでは材料をそろえる事も困難だろう。


「なんにせよ、あまり目立つような真似はよせよ?」


 元人狼の戒めるような言葉に、しかし魔王様は適当に相槌を打つのみだった。


「心配しすぎじゃ主様よ。まさか、タイミング悪く聖騎士団にでも出くわすわけじゃあるまいし……」


 その時、突然数名の下級兵士がどやどやと駆けてきた。そして露天や大道芸人を半ば無理やりに撤収させ始める。


 何事かとその様子を眺めていると、不意に遠くでラッパの音が鳴り響いた。

 その音につられたか、白や赤茶の煉瓦で作られた家屋や商店から、まるで火事に追い立てられたかのように次々に人々が飛び出してくる。


 次第に聞こえてきたのは、歩調を合わせた軍靴の音。石畳を打ち鳴らす軍馬の蹄。

 そしてうっすらと見えてきた旗印は、聖騎士団を象徴する剣と白百合の紋章だった。


「聖騎士団!? なんてタイミングだよ、ちくしょう。おい、ひとまず身を隠そう」

「いや、もう遅いようじゃぞ。主様よ」 


 苦い顔で呻く元人狼に、赤髪の魔王が言う。

 その言葉を受けて初めて気が付いた。荘厳な騎士たちの先頭。一際豪華な、白銀に金の装飾が美しい全身鎧の兜から、殺気にも似た鋭い視線を感じる。


 呆れるほど広い通りは人々で溢れかえっている。だというのに、その視線は間違いなく魔王と元人狼を貫いていた。


 カツン、と音を立て、退魔装具で身を包んだ白い軍馬が足を止める。それに合わせて地鳴りのような音を轟かせ、数十の騎士団全員がその足を止めた。

 金属の擦れ合う音を響かせながら軍馬から一人の騎士が降り、こちらに向かってくる。


 聖騎士様、団長様。聖女、聖女様。勇者様。

 あちこちからそのような声が聞こえてくる。聖女と呼ばれた騎士が一歩踏み出すたびに、目の前の民衆は膝を折り、首を垂れる。


 まるで聖人が海を割るように人垣は二つに分かれ、白銀に身を包む聖女と赤髪の魔王の間に道ができる。その後ろには、喉を引くつかせて緊張する燕尾服に身を包んだ元人狼。


 赤い髪と細い指を揺らし、短い呪文と共にさっと振る。不意に沸き起こった魔力の波動に、背後に控える騎士たちが色めき立つ。

 一斉に弓に矢をつがえる気配がした。一糸乱れぬ動作で剣の柄に騎士たちの手が伸びる。しかし、白銀の聖女はそれらを軽く手を振るうだけで全てを制した。恐ろしいまでの練度である。


「結界の一種、防音の魔法か。気が利くな、魔族の娘よ」


 それ一つで芸術品と言えそうなほど緻密な細工が施された白銀の兜から聞こえてきた声は、凛と美しく涼やかな女性の声だった。


「ふん、やはりお見通しというわけじゃな。さて、これで話もできよう。用向きはなんじゃ、人間。さっさと言うがよい」


 面倒くさそうに魔王様が言い捨てる。


「一刻ほど前、王都にほど近い森の中におかしな飛行をする飛竜が降り立ったという報告を受けた。ただでさえ、ここ最近は魔物どもが妙な行動をとっている。念のためにと調査に向かってみれば、高位魔族が魔力も隠さずに王都をうろついている。これを無関係と思うほど、私は平和ボケをしていはいない」


 兜の中から、歌うように声が流れる。どんな歌劇場の歌手のそれよりも耳に心地よく、染み込むような美しい声だった。しかし、対する魔王様は渋い表情を崩さない。


「左様。その飛竜はわしの〝足〟じゃ。おぬしらが心配するような代物ではないわ」


 それより、と歯をむいて魔王様が唸る。


「人と話をするときは兜を脱がぬか。無礼者め」

「……ふん、よかろう」


 そういうと、白銀の聖女が兜に手をかけ、一息に脱ぎ去る。その中からあふれ出てきたのは月の光を閉じ込めたかのような美しく長い金髪に、静かな湖面を思わせる蒼い瞳を持つ、女神のような美しさだった。

 防音の魔法に遮られて聞こえはしないが、周囲の民衆が騒めく気配が地を這って伝わってくる。


 これが、聖女。人に仇名す魔族討伐を専任する聖騎士団の団長、か。

 早鐘を打つ胸を抑え、そんな事を考えていた元人狼に、不意に聖女の蒼い瞳が向けられた。

 なんという眼力だろう。ただ視線を向けられただけで思わず膝を折りそうになる。圧倒的カリスマ性、というやつだろうか。


「痴れ者め。万が一にも膝をついてみよ。そっ首叩き落とすぞ」


 背骨に氷柱を差し込まれたような悪寒が、元人狼の全身を駆け巡った。


 その冬の吹雪のような声の主は、紛れもなく目の前に居る赤髪の魔王様。

 そう、この元人狼は失念していたのだ。あの小さな喫茶店を一歩出れば二人の関係は逆転するのだという事を。

 二人の関係は絶対的な力を持つ魔族の王と、一介の平民魔族に戻るというその事実を。


「して、この王都に何様だ魔族の娘よ。返答次第では、その首を置いていってもらうぞ」


 一軍を相手にしているような圧力を受けながら、しかし魔王様は小動(こゆるぎ)もせずに言葉を返す。


「何のことは無い。仕入れじゃ」

「仕入れ、だと?」

「そう、うちの喫茶店でケーキを出そうかと思っての。その試作つくりのための材料を買出しに来たのじゃ。魔族の街では手に入らぬものが多いからのぅ」


 茫然、とはまさにこの事を言うのだろう。目の前の聖女は突然月が雲に隠れたかのように威厳を失い、きょとんとしていた。


「喫茶……店? ケーキだと? 魔族がか?」


 純粋に信じられないというような聖女の言葉に、若干身長で負けている魔王様が半目でその美しい顔を睨め上げる。


「貴様、魔族を野獣か何かと勘違いしとりゃぁせんか? 魔族だって土を耕して種を撒くし、家畜を育てて卵や乳を採る。収穫を祝い、災害が起きれば手を取り合って助け合い、街には活気と笑い声が満ちておる。これだから人間は愚かだというのだ。その狭い価値観をなんとかせい」


 一つ一つ言葉を噛みしめるように、聖女が魔王様の言葉を繰り返す。やがて湯がゆっくりと沸騰するような声をあげ、しまいには腹を抱えて笑い出した。


「そうか、魔族が農業か! 喫茶店か! ケーキか!! これは良い、面白いぞ魔族の娘よ!」


 突然の聖女の奇行に、魔王様とその後ろに控える人狼が目をむく。周囲の民衆も何事かと目を丸くしている。ぴくり、とも動かないのは油断なく魔王様と人間の姿をした元人狼を見つめている聖騎士団の面々だけだ。


「な、何がおかしいか! 貴様、よもやまだ魔族を獣と同視すると申すのか!?」


 笑いすぎて涙目になった聖女様が「いや、すまぬな」と笑いを辛うじて抑え込みながら言う。

 その事実にも驚いた。日常会話程度の事とはいえ、魔族討伐の先兵たる聖騎士団の団長が、魔族に謝って見せたのだ。これには流石の魔王様も困惑を隠せないでいた。


「して、その喫茶店とやらはどこにあるのだ」

「言うと思うのか?」

「言わぬと申すか?」


 抜けきらぬ笑みを口元に湛え、指の腹で目端を拭いながら聖女が言う。


「仕入れと言われて〝はいそうですか〟とは行かぬのだ、魔族の娘よ。牢屋の床は冷たいぞ?」


 脅しとも取れるその言葉だが、実のところはその真逆だと元人狼は思った。


 要するに「素直に質問に答えれば不問に処す」と言っているのだ。


 魔族とみれば問答無用で剣を抜く討魔主義が横行する人間界で、しかもその象徴である聖騎士団の団長からそのような言葉が出てくるとは。


「言っても良いが、これだけは約束しろ。俺の店に手出しはしないと」

「主様! 言う必要など無いぞ!」


 声を荒げる魔王様。鋭く光る刃のような聖女の視線が元人狼を貫く。


「貴様が店主なのか? 失礼を言うようだが、この娘のほうがよほど高位に見えるがな」

「確かにそうだ。魔界での序列は俺のほうが圧倒的に下だよ。しかし俺が店主でそいつはただの店員だ、守る義務がある。それ以上無茶なクレームをつける気なら……、俺が話を聞く」


 ふん、と鼻を鳴らして聖女が腕を組む。清楚なイメージが付きまとうその呼び名とは裏腹な、男勝りなその性格が垣間見える。


「クレーマー扱いとは参ったな。まぁよい、約束してやる。で、どこにあるのだ? 人狼の淹れるコーヒーが飲める店は」


 思わず息を吞んだ。どうしてばれた、と思考が走り、すぐに答えに行き着く。


 匂いだ。魔族の匂いを嗅ぎ慣れた聖女には、人狼のそれが判別できるのだろう。そして、体に染みついたコーヒーの匂いが聖女に答えを与えたらしい。喫茶店、という突拍子もない部分を疑わないのはそういう理由か。


「……人の世と魔界を隔てる大樹海。その中を貫くグラッジ街道の中心、〝人魔線〟から少し魔界側に進んだところだ」

「主様!」


 魔王様が悲痛な声を上げる。


「ああ、そんな顔をするなよ、魔族の娘よ。約束は守ろう」

「ふん! 誰が人間のいう事なぞ……!」


 唸る魔王様をよそに、聖女はふむ、と首をひねる。


「しかし、グラッジ街道には頻繁に斥候を出しているが……、そのような報告は受けていないな」

「貴様がやらせているのか! 頻繁すぎるわ! 丁度良いから言わせてもらうぞ聖女よ。二日にいっぺんはやりすぎじゃ、その度に人避けの魔術を使わされるこっちの身にもなってみぃ!」


「んなっ……!」


 愕然とした。


 てっきりサボりたいがために使っていると思っていた人避けの術に、そんな意味があったとは。

 この不良魔王様は、人間の要らぬ干渉から喫茶店を守るために術を使っていたのだ。帰ったらカフォレでも淹れてやろう、と元人狼は心の中で反省した。


「ふむ、結界がお得意のようだな。まぁよい、面白い話も聞けた。今回は見逃してやろう、魔族の娘よ」

「偉そうに言うでないわ聖女よ。余にかかれば貴様の命など、川に落ちた雪のように消し去れるのだぞ」

「それ、消えていないぞ。雪が水に変わっただけだ。もう少し表現を勉強すると良い、魔族の娘……いや、赤髪の魔王よ」


「「なっ!?」」


 思わず魔王様と元人狼の声が重なった。二人の驚いた表情を見て、聖女がくすくすと肩を揺らす。


「まて貴様! 最初から気が付いて……」


 魔王様が言い終わる前に、聖女は踵を返して騎士たちの元へと帰っていく。そして豪華な退魔装具で身を包んだ軍馬に跨ると「撤収!」と声をあげ、聖騎士団と共に去っていく。


 茫然として立ちすくむ魔王様の腰に手を回し、人々の好奇の目から逃れるように路地裏へと駆けこんだ。


 どれほど走っただろうか。路地裏から路地裏へと角を曲がり続けること十数回。幸いにも追われている気配はなかった。


 聖女との会話を何者かに聞かれた可能性は低いが、下手な貴族よりもよほど大きい権力を持つ聖女と一対一で、しかも街中で護衛もつけずに立ち話ができるような大貴族と勘違いされて、それに少しでもあやかろうとする人々に群がられるのも困る。だが、その心配は無いようだった。


「なんだってあんな無茶をする。何も正面から相手にしなくても……。おい、どうした」


 戒めの言葉を向ける元人狼。しかし、魔王様が地面にへたり込むのを見て口をつぐんだ。


「……こ」

「こ?」

「怖かったぁぁ~~~!!」


 魔王様が眼を涙で濡らして、屈みこんだ元人狼の胸の中へ身体ごと飛び込む。


「なんじゃあいつ! なんじゃあの威圧感!! 超怖いではないかぁ!」


 えぐえぐとしゃくり上げる魔王様。胸を占領された元人狼は面食らってしまい、されるがままになっている。


「で、でもお前、堂々としていたじゃないか」

「あたりまえじゃろう、わしは魔王じゃぞ! どんなに恐ろしかろうと逃げるわけにはいかんのじゃ! うぅ、聖女も聖騎士団も大嫌いじゃぁ~!」


 胸元に暖かい水が染み込んでくるのが解る。きっと鼻水もついているに違いないが、ここは我慢するしかない。


「馬鹿だな、お前は。そんなに怖いなら一人でも逃げれば良かったんだ。それに、戦ったって勝てただろう」

「何を言うか主様! 確かにわし一人なら簡単に逃げおおせよう。戦えば負けはせん。しかしそれでは、ぬ、主様はどうなるのじゃ。あの状況ではとても守り切れんわ! 聖騎士団はそんなにぬるい相手ではないぞ!」


 何を言うのだ、この不良魔王様は。自覚が薄いとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。元人狼は呆れを通り越して怒りを覚えていた。


 指導者が頻繁に代替わりするとは人間は違い、魔族は絶対王制だ。代わりなど居ない。

 仮に魔王が討たれるような事態に陥れば、八十二万の魔軍は次代の魔王が決まるまでの数年間、軍としての態をなさない。それがどれほどの事か、この不良魔王は理解していないというのか。


「ふざけたことを言うな! ああいう時は俺の事なんて放って逃げろ! お前、自分の立場が解っているのか!」

「嫌じゃ!」


「お前っ……! 自覚の無さもいい加減に」

「わしはあの場所が好きじゃ、大好きじゃ! だが、お主様の居ないあの店などに価値など無いわ!」


 突然のその言葉に、元人狼は言葉を詰まらせる。


「……な、何を……」

「わしが魔王になってからの二百八十年、ずっと一人じゃった。周りにあるのはご機嫌伺いのおべっかばかり。もう、もう沢山じゃ……。あんな日々には、わしはもう戻りとうない……」


 魔族は絶対王制。その行為に意見するものなど居はしない。

 ただ一人、魔王を魔王と知らずに喫茶店のアルバイトに迎え入れ、その素性を知っても今更態度を改める事のできない不器用な店主を除いては。


「しょ、所詮わしはお飾りじゃ。魔力が強いばかりで、政治の事などまるで解らぬ。本当は魔界の事など、どうでも良いわ。魔軍も知ったことではない。わしにはあの小さな喫茶店と、主様の淹れてくれるコーヒーがあれば、それで……」


 腕に力を込め、赤い髪の小さな頭を強く胸に抱きしめる。


「……魔王の言って良い台詞じゃねぇよ」


 馬鹿は俺のほうだ。何が従業員を守る義務がある、だ。何が魔王の自覚がないだ。


 守られているのは、俺の方だった。


 人避けの術の事と良い、先ほどの聖女の一件と良い、俺はまるで何もできなかった。聖女の口車に乗せられて、店の場所を知らせてしまっただけだ。この胸の中で泣きじゃくる赤髪の魔王様は、何もかもを必死で守ろうとしてくれていたのに。


 どこまでも傲岸不遜で、限りなく自分の欲望に忠実で誰よりも優しい赤髪の魔王様は、きっと歴代のどの魔王よりも、魔王であった。


 うぅ、と呻きながら魔王様が顔を上げる。涙は止まっていたがぐしゃぐしゃの酷い有様だった。だが、きっとどんな宝石よりも輝いていた。少なくとも、不器用な喫茶店の店主の目にはそう映った。


 ハンカチを差し出したら思い切り鼻をかまれた。いつもなら頭を小突くところだが、今日ばかりは大目に見てやろう。


「もう王都はこりごりじゃ……。主様、さっさと買い物を済ませて帰ろうぞ」

「あ、ケーキは諦めてないのか」


 当然じゃ、と魔王様が不器用に笑う。


 二人は聖女と出会った場所とは別の市場へと向かって歩き出す。


「それにしても今日は疲れたのぅ。主様よ、帰ったらコーヒーを入れてたもれ」

「今日は特別サービスだ。いつもより三倍甘いのを淹れてやるよ」


 赤髪の魔王様が訝しむように眉を顰める。


「主様よ、それはコーヒーなのか……?」

「いや、お前が言うなよ」


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