第9話
三杯ほど飲んでホテルに戻ったとき、女性の悲鳴が耳に届いた。
今までの悲鳴とは明らかに違い、切迫した危機感が伝わってきた。
今までの悲鳴は、情事の「死ぬー」もあったし……。
とにかく、その声に集中したが、ただ事では無さそうだ。
行ってみようと、声を頼りにホテルを出た。
集中すればよく聞こえるが、現場までの距離感は掴めない。
しかし状況から一刻を争いそうだった。全速力で行く必要があった。
ところが、酒の力は能力をアップさせるようだ。
一瞬のうちに、悲鳴の聞こえる現場へと辿り着いた。
どうやらマンションらしい建物から、悲鳴は聞こえていた。
見上げると、十階ぐらいだろうか、女性がベランダの手摺につかまり必死に叫んでいた。
だが、正面は交通量の多い道路で、女性の声は道行く人には届かなかった。
エレベーターでは間に合いそうもない。今にも落ちそうだ。飛ぶしかない。
私は咄嗟にそう思った。五十センチしか飛べないのに?安心召されよ。
そのことは既に確認済みだ。私はマンションの壁から、五十センチのところを飛んでいった。地面でも壁でも、対照があれば常に五十センチなのだ。
どんなに高い建物でも、壁に沿って飛ぶ分にはどこまでも上がっていけた。
ただ速度は前にも言ったとおりだ。
七階あたりまで飛んで行ったとき、案の定その女性は力尽き、ベランダの手摺から落下した。丁度真下にいた私は、しっかりと女性をキャッチし、彼女が落ちたベランダまで上った。
運良く?女性は落ちたときに、既に失神していたらしい。
私は顔を見られずに済んだことに、内心ほっとした。
しかし、何故女性はベランダに掴まっていたのだろう。
不思議に思っていると、部屋の中から物音がした。同居人ではない。
私の直感が危険信号を鳴らした。同居人ならば、助けるはずだろう。
窓から中を覗くと、覆面を付けた男が、居間の箪笥を物色していた。手には包丁。
明らかに賊だ。女性はこの賊に落とされたに違いなかった。
しばらく様子を伺っていると、賊はベッドルームに移動した。
その隙に、私はサッシを静かに開け、中に忍び込んだ。
背後から取り押さえるつもりだった。もちろん顔を見られたくない為の考えだった。
ベッドルームの扉に近づき、そっと中を見ると賊はクローゼットを覗き込んで後向きだった。チャンスとばかり足を踏み出そうとした瞬間、悲鳴が聞こえた。しかも、間近で聞こえた。
振り向くと、あの女性がベランダで悲鳴を上げていた。
その視線は、明らかに私に向けられていた。
「シーっ、私は賊ではない……」
無駄だった。女性はさらに大きな声で叫びだした。
「ドロボー。誰か助けて!」
今度は、私が賊に対して後ろ向きだった。声に反応した賊は、密かに私の背後に迫っていた。
羽交い絞めにされたが、かえってラッキーだったと言おう。
賊に顔を見られることなく、倒すことが出来たのだ。たったの肘鉄一発で……。
賊は完全に失神した。その状況を理解したのか、女性は叫ぶのを止めた。
賊を倒したことにより、賊の仲間ではないことを理解したようだ。
ベランダから室内に戻った女性は、それでも恐る恐る尋ねた。
「あの……。貴方は……」
「叫び声が聞こえたので……」
私の返答に女性は少し安心したようだった。そして居間のソファに力なく座り込んだ。
そしてしばらく考えるような仕草の後、私に再度尋ねた。
「私……、ベランダから落ちた?」
まずい、気が付いている。どうにか私は誤魔化そうと考えた。
まさか、飛んでキャッチしたなどとは口が裂けても言えない。
「……いえ……、その、間一髪でした。でも引き上げたときには、意識がないようで……」
「そう……。てっきり落ちて、もうダメと思ったのよね、確か……」
「それよりも、早く警察に電話して」
私は女性を急がせた。
あまり深く思い出してほしくなかったし、賊が意識を取り戻す恐れもあった。
問題はこの女性だが、特別な能力を見られたわけではないので、その点は安心していた。
急いでここから立ち去りたかったが、女性が「ありがとう、ではさようなら」と、
言うとは思えなかった。女性にガムテープがあるか聞いて、一巻き受けとり、
賊をテープでがんじがらめにした。
「これでよし。では私はこれで……」
何気ない素振りをしながら、私は玄関に向かった。
「駄目よ。居てくれなくては。警察も話が聞きたいって言っていたわ」
女性は玄関まで私を追いかけて、私の腕を引っ張った。
やっぱり無理か、と思いながら振り向くと、女性の顔つきが変わった。
その目はドアのロックに注がれていたのだ。
「ど、どうやって入ったの」
その声は震えていた。見ると、ドアロックは掛けられたままだった。
完全に疑われていることは、鈍い私にも理解できた。
このままでは、警察に何を聞かれるか分かったものではない。
つい五日前に事情聴を取申し込んだ警官を思い出した。その事情聴取も受けていない。
銀行強盗もこれでは犯人の仲間扱いされる。仕方ない。
女性にだけは正体を打ち明けるしかないようだ。
女性は共犯者でも見るような目つきで、私から後ずさりを始めた。
「話を聞いてください」
「近寄らないで」
化粧のない顔は、恐怖に引きつっていた。結構な年増だが、若作り。
そんなことはどうでも良い。
「私は決して怪しいものでは……」
人の話も聞かずに女性は台所に走り去った。
「待ってください」
台所で包丁を引き出しから取り出し、女性は振りかざした。
「近づいたら刺すわよ」
その目は血走っていた。とても話を聞ける状態では無さそうだ。
「近づかないから、話をきいて」
出来るだけ優しく言ったつもりでも、女性の興奮は極限を向かえそうだった。
「私はヒーローです」
何を言っている!自分の馬鹿さにほとほと嫌気がさした。知能は高いはずだけど……。
「馬鹿みたい。共犯のくせして、私に見られたから、そんな嘘言っているのでしょ」
もう、何を言っても無理そうだ。パトカーのサイレンが直ぐ近くまで迫っていた。
猶予はない。仕方無しに私は飛んだ。
たった五十センチだが、女性を黙らせるには十分だった。
目を見開き、口をパクつかせる女性に、私は静かに話し始めた。
「貴方の言ったとおり、貴方はベランダから落ちました。でも見ての通り、私は飛べます。
それで助けたのです」
女性は崩れるように床に座り込んだ。
「お願いです。警察にあれこれ聞かれるわけにはいかない。
このまま、行かせてはもらえないだろうか」
その時玄関のドアが、激しくノックされた。
「大丈夫ですか。警察です。開けてください」
私は女性の目を見た。優しく訴えかけるように。女性はただ頷いただけだった。
「このことは言わないで」
そう言って私はベランダに出たが、女性は返事すら出来ない状態だった。
その時、ドアのロックが外された。管理人の合鍵でも使ったのだろう。
私は急いで飛び降りた。
一瞬「あっ」と女性が叫んだように感じたが、今はそれ所ではなかった。
真下にパトカー数台止まっていた。このままでは見つかる。
私はくるりと身をひるがえし、建物を上り始めた。その急な反転に、気分が悪くなった。
腹の中でビールが泡だっている様だ。屋上に着くまでもたなかった。
勢いよく、マグロやら焼き鳥をまき散らかした。
おそらくパトカーに直撃しただろう。二十階建て位だろうか、屋上は夜風が心地よかった。
私は一呼吸付いて、気分が落ち着くのを待った。




