79 何もって事はない
ゆっくり歩いた行きと違って、帰りはネロの走る速度が速過ぎて直ぐに家に到着した。家の中に入って俺を下ろしたネロが〈シール〉を解除してくれる。そして、直ぐに〈乾燥〉もされそうになったけど止めてみた。
「濡れてないから大丈夫。それよりお腹が空いちゃった。今日は俺が並べる。」
何かを考え込む様子を見せたネロだったけど、結局は黙って頷いてくれた。ネロは無言でテーブルの上に出しっぱなしになっていた武器を片付けてくれる。ネロを椅子に座らせて、バスケットの中身を出していく。
スライスした野菜が入っている、湯気の立ったコンソメスープは熱々で美味しそうだ。食べ易いように斜めに切られた卵のホットサンドイッチはバターのいい香りがする。それにフルーツが少しだけど用意されていた。
サンドイッチは夜食にしては多いと感じる量が大皿に並べられている。食事を全部取り出した後で、自分の椅子をネロの側まで移動させてネロの隣に座る。
いただきます、と手を合わせて、ネロに視線を向けてみた。ネロは疑問の表情を浮かべて俺を眺めていた。にっこり笑顔で首を傾げると、ネロは目を逸らして祈りを始めてくれる。ネロの祈りが終わったら食事の始まりだ。
サンドイッチを一切れ取ってネロに手渡してみる。受け取ったネロが食べ始めたトコロで、俺はスープに手を伸ばして食事を始める事にした。器を持ち上げた時点で、ネロが一切れ目を食べ終わった。
ネロが食べ終わるのと同時に、すかさず一切れを渡す。俺はスープをっと、スプーンで器の中をかき混ぜていたらネロが食べ終わっていた。また一切れを取って手渡してみる。
ぐぬぬ、自分が食べている暇がない、だと?ネロは、この前、あんなにスムーズにやってたのに、なんで俺はできないんだよ。素早さの問題なのかな。素早さが1だからダメって事なんですか。
俺の行動を見ていたらしいネロが苦笑して俺の頭を撫でてくれた。そして、静かに小さく首を横に振ってしまう。そうだね、介護ごっこは俺には無理だった。
もういいや、大人しくスープを食べるよ。ふーっと息を吹きかけて口に運ぶ。優しくていい塩味だね、美味しい。スープの中の野菜はしゃきしゃきした歯応えが残ってる。
サンドイッチに手を伸ばして一切れ貰う。トーストしたパンに卵と焼いた厚いハムが入っていて、まだ温かくて食べ応えがある。一切れ食べ終えて、ネロの様子を窺ってみた。
今日はちゃんとパクパク食べてる。体調は悪くなさそうだ。良かった。ネロは観察する俺をちらっと見て食事に視線を戻してしまった。ネロはしっかり食べてるからもう平気そう。
ほっとしながら、自分のスープを持ってちまちまと食べ進めていく。最近はあまりにも食べなさ過ぎて胃が小さくなってるのかもしれない。もうこの時点でお腹がいっぱいだ。スープを食べ終えたらフルーツに手を伸ばす。ネロの手が伸びてフルーツのお皿が手元に来た。
今日は傷だらけのネロの為に、俺がネロの食事の補助をしようと思ったのに。結局はいつものネロだ。ネロの横顔を見つめてしまった。俺の気持ちを分かっているのか、俺と目を合わせたネロが優しく目を細めてくれる。
ありがと、と呟いてニコッと笑うと、ネロは嬉しそうに口元を緩めてくれた。少しだけ表情のあるネロの額と頬にある傷が凄く痛そう。まだ新しい傷は生々しくて、手を伸ばして傷を指でなぞってみる。傷は瘡蓋になっていて、少しボコッと盛り上がっていた。
「痛い?」
「痛くはない。」
「傷痕残らないといいね。綺麗な顔なのに。」
「残ってない方がいいか?」
「ネロは顔もだけど肌が綺麗だもん。傷一つなかったのに傷だらけになっちゃったから、早く治るといいなって思う。レオさんの話だと、護衛の仕事って戦ったりするから傷だらけになりそうって思った。でも、ネロは何もないよね。レオさんは顔以外は結構傷だらけっぽかったけど。」
「何もって事はない。」
「えっ、あるの?」
「腹とか背中とかある。脚も。」
「知らなかった。でも、顔には傷はなかったね。」
「顔は頭を揺らされたり、目や耳を傷つけられたら面倒。今までは顔は避けて戦っていた。」
「今回は避けなかったの?」
「殲滅を優先させた。」
「でも、傷だらけになっちゃったね。」
ネロの頬の傷から指を離してフルーツを口に入れる。柑橘類っぽい白い半透明な果実だ。酸っぱ。これ、レモンって程酸っぱい。違うかもだけど、レモンっぽい。顔が中心に寄る程に酸っぱい。
目を瞑って、なんとか咀嚼して飲み込めた。アルさんが食べてたのは絶対これだ。レオさんのトコで食べたあの詐欺メロンより酸っぱい。
フォークに刺してネロの口元に運んでみる。だって、これは絶対ネロが好きな味だと思う。メチャクチャ酸っぱいもん。口を開けてくれたネロに食べさせて、口を動かすネロの横顔を眺める。
飲み込んだのか喉ぼとけが動いて、ネロの視線がゆっくりと俺に向けられた。ネロは瞳が潤んでトロッと蕩けたような不思議な表情になっている。初めて見る表情だ。ぼんやり見てると瞬きをしたネロがスッと無表情に戻ってしまった。
「ネロでも酸っぱかった?」
「美味かった。」
「良かった。俺は無理。酸っぱ過ぎて無理。残りはネロが食べて。」
「琥珀は食事はもういいのか?」
ネロの問い掛けに頷くと、ネロは残っていたサンドイッチを素早く食べきってしまった。三切れが残されていたから、俺がまだ食べると思って残してくれていたのかもしれない。やっぱりネロは気遣いと心配りが凄い。ネロはフルーツもぱぱっと食べ切って、お茶を淹れてくれる。
ニコニコとネロを目で追い掛けていたら、戻ってきたネロがお茶を手渡してくれた。ネロと目が合うと、ネロは頬を緩ませて頭を撫でてくれる。その後で、テキパキと食事後の片づけをしていってくれた。
ネロが食器を〈浄化〉してバスケットに詰めていく様子を眺める。うん、やっぱりネロだ。ちゃんとネロが帰ってきた。片付けの終わったネロがバスケットをひょいっと持ち上げた。
ネロに手を出してバスケットを渡してって要求してみる。ネロが首を横にふったから、実力行使でバスケットに手を伸ばしてみた。ネロはバスケットを俺が届かないくらいの高さに持ち上げてしまう。意地悪をされた感じがしてネロを見上げて睨んでしまった。
「今日は俺が持つ。」
「駄目だ。」
「俺一人で返してくるから、ネロは休憩してて。」
「駄目だ。行くなら共に行く。」
睨んでもネロは全く表情が変わらず見下ろしてくる。俺が主張しても、ネロは一歩も引いてくれない。ネロを睨むような強い目で見つめると、ネロも俺を真っ直ぐに見てくる。
「凄く心配だったんだから。ネロが早く帰ってきてくれて嬉しいけど、そんな傷だらけだったから心配になった。ネロにはゆっくり休息して欲しい。」
溜息をついて表情を緩めてみた。俺の態度の変化が気になったのか、ネロが少しだけ心配そうな顔になってくれた。静かにネロに想いを伝えてみる。
「琥珀も体調が悪いだろ?」
「でも、ネロはもっと大変だったんでしょ?」
心配そうな声色でネロが俺を心配してくれる。でも、俺もネロと同じで心配だったんだもん。今も傷だらけで心配なんだもん。俺の主張を聞いて、ネロは困ったように息を漏らしてしまった。
そして、バスケットを床に下ろしてくれる。ネロは気遣うように俺の体に腕を回してそっと抱き締めてくれた。俺もネロに抱き着いてしまう。ネロのいい香りがする。落ち着く香りだ。爽やかで甘い香り。
「今夜は返しに行くのは止めよう。明日の食事の時に持って行く。」
静かに話す優しい声で、ネロから離れて見上げてみる。ネロに思いが伝わったのが嬉しい。ネロは頬を緩めて優しい眼差しを俺に向けてくれた。
「じゃあ、もうベッドで横になろ。きっと疲れてるから、眠くなくても寝てた方がいいと思う。俺がついていててあげるから痛かったら言ってね。アルさんの所で薬を貰ってくるから、ちゃんと言ってね。」
「分かった。」
「じゃあ、ゆっくりでいいから寝室に行こ。」
ネロの手をエスコートするように握って寝室まで誘導してみる。ネロは優しいから、こうやって俺の好きにさせてくれる。俺もネロの役に立ちたい気持ちはある。でも、実際には、俺の能力の遥か上を行くネロの助けなんてできないんだろうな。
先にベッドに潜り込んで、ブランケットの片側を上げてみた。隣でネロが横になったのを確認して、ブランケットを丁寧にかけてあげる。仰向けで天井を眺めるネロの隣で、うつ伏せになって枕を抱き込みながらネロを見守ってみた。
「ゆっくり戦えば怪我はしなかったの?」
「怪我は避けられなかった。だが、顔には傷はつかなかった、かも。」
「なんでそんな無茶をしたの。」
「体が動いた。」
「もうそんな無茶な事はしないでね。」
「分かった。」
「〈照明〉、消せる?俺が見守っててあげるから、ゆっくり休んで。」
返事の代わりに直ぐに〈照明〉が消された寝室で、ネロの横顔を眺める。薄暗くて輪郭しか見えなくなってしまったけど、隣にネロがいる。本当に良かった。今回、この家からネロから少し離れただけで実感した。ネロと一緒にいるだけで本当に安心する。
ネロの横顔を見ながら時間が経過して、気が付いたら朝になってた。横を見るともうネロはいない。慌てて跳び起きてリビングに飛び出る。ソファに座ったネロが、いつも通りに無表情に俺を眺めているのが目に入ってほっとした。今日は武器の手入れはしないのか。他愛ない事を考えながら、小さく息を吐き出す。
「起きたなら起こしてよ。隣にいないからまたどっか行っちゃったと思った。」
「気持ち良さそうに寝ていた。起こせなかった。」
ネロに近付いて隣に腰を下ろす。ネロを見ながら拗ねた口調で文句を言うと、ネロが目を細めた。頬を緩めたネロはさらっと事もなげに答えて髪を撫でてくれる。
「俺は看病もできなかった。」
「琥珀はまだ看病される側。」
そうだった。まだ、熱っぽいし怠い事に今気が付いた。風邪が完治してないんだった。気が付いたらクラっとしてしまってネロに寄りかかる。
「俺は力もなければ体力もなくて、その上病弱で。ネロにばっか助けられてる。」
「俺も助けられてる。」
拗ねた俺の髪をネロが優しく撫でてくれる。そして、ネロは静かに俺に反論をしてきた。優しく響く低い声の意味が分からなくて、体を離してネロを見上げる。ネロはふんわりとアルさんみたいに柔らかく微笑んでる。
思わず見惚れてしまう程に柔らかくて優しい笑顔だ。金色の瞳が瞬きをしたら、また無表情に戻ってしまった。さっきのは幻だったのかと思ってしまう程、綺麗な笑顔だった。それより、ネロの言葉の方に疑問を抱いてしまう。
「助けてるってどういう事?」
「今回の討伐の対象は強かった。琥珀の存在がなければもう少し苦戦をしていた。」
「俺の存在って、どういう意味なの?」
「早く帰れと言っていただろ?」
「言った。」
「だから、なるべく早く帰ってきた。」
ん?首を傾げてしまう。ネロの話を聞いても全く理解できなかった。俺の反応でネロが苦笑してしまった。ネロはそれ以上の説明はしてくれないらしい。立ち上がってバスケットを持ったネロが振り返って首を傾げてきた。
それを見て俺も立ち上がってネロの腕に掴まる。二人を覆う〈シール〉を発動してくれたネロにありがとっと笑顔を向けて、一緒に家を出た。今日も雨だ。もう何日雨なんだろ。
ネロの腕を掴みながら空を見上げて進んでいく。途中躓きそうになって、ネロが支えてくれたけどずっと空を見ながら歩いた。
風の膜越しに、霧雨から小雨くらいの小さな雨粒が降り注いで、塊になって流れ落ちていく。不思議な光景でずっと見てられる。気が付いたら食事場に到着していた。食事をする食器とカトラリーの触れ合う音と、抑えているけど賑やかな話し声で、空を見上げていた視線を前に移してみる。




