37 あ、そうですか
本を読み始めて少ししたら、顔に風を感じた。隙間風かなっと顔を上げると、入り口にネロが立っている。ネロは手に大量の書類の束を持っていた。珍しく忘れ物でもしたのかな、と首を傾げる俺を見て、ネロが頬を少し緩めたのが分った。
書類の束をテーブルに置いたネロは、俺の傍に歩み寄ってきた。しゃがみ込んで斜め上から覗き込んできたネロを見上げてみる。目が合って、疑問を口に出す前にネロがそっと頭を撫でてくれた。
「今日の仕事はなくなった。」
「え?」
「護衛の代わりに族長の仕事を押し付けられた。」
「成る、程?」
「今夜は共にいる。」
一人で過ごさなくていい。ネロの言葉を理解して、ぱっと顔が明るくなってしまったのが自分でも分かった。多分、昨日の今日での俺に気を使ってくれたネロは、今日も休みにしてくれたのだと思う。
持ち帰ってきた書類の量をみると、純粋に休みではなさそうではあるんだけどね。言葉は少ないけど、ネロは本当に優しい。ありがと、と顔を伏せて呟いてみる。もう一度頭を撫でてくれたネロは離れていってしまった。
そのままテーブルに向かったネロは、書類の束から書類を引き抜いて、早速デスクワークを開始させた。俺も読み途中のこの本を読んでしまうか。今日中に読破は難しいだろうけど、読めるとこまで読むとしましょう。
目に映る全く見た事のない難解な文字を追う作業っていうのは相当疲れる。それでも内容を理解できるっていうのが凄いよね。時々さらさらと筆の音をさせながら、仕事を片付けていくネロの傍で本に集中する。
俺の今いるイシュケ王国ってのはモーティナという世界の、歪なひし形っぽい形をした中の大陸って所の西側の真ん中くらいに位置してるらしい。中の大陸から北の位置に北の大陸ティール、中の大陸の南東には東の大陸オウリュウ、そしてティールとオウリュウに挟まれるように陽魄の島ソルというのがあるらしい。
中の大陸から西側にも大陸があると考えられているけど確証は無いらしい。過去に何度も西方への調査は行われていたが、海流の関係からか他の要因があるのか大陸、若しくは島などの陸地に到達して戻ってきた者はない為、確認には至っていないという事だ。
ただ、各地の伝承に西側の大陸らしき話がちらほらある為、存在している可能性は否定できない、と締め括られている。まぁ、俺の見解でも『中』の大陸だし、西側に大陸があってもおかしくない話だとは思う。因みに、中の大陸にはオウリュウやティールのように大陸に対しての特定の名前はなく、ただ、中の大陸と呼ばれているみたいだ。
挿絵も何もなく、ただ、文字だけで地理の詳細を把握する事は滅茶苦茶困難だった。モーティナの世界の概要を掴むだけで疲れ切ってしまった。ふーっと息を吐き出して、本を閉じて立ち上がる。
ん~っと伸びをしながら、ネロを見るとさっき積まれてた書類の8割程が片付いたらしく、横に積み上がっていた。俺の集中力が切れたのに気が付いたネロは、書類を脇に置いて立ち上がった。流しに向かってお茶を淹れてくれるらしい。
お茶を運んでくれたネロが、小さなバスケットを引き寄せている。ネロの手の中のミニバスケットをを見て思い出した。あ、ケーキがあったんだ、忘れてた。誘われるようにテーブルに向い、椅子に腰を下ろした。
ミニバスケットの周りには、透明の膜のようなものがゆらゆらと揺れている。風の膜に恐る恐る指を近づけてみると、風の抵抗みたいなモノがあって指が中に入らない。これは何だろうとネロを見てしまった。ネロが何か言葉を紡いで手をミニバスケットにかざしている。ミニバスケットを覆っていた透明な膜が徐々に薄れて消えていった。
ミニバスケットからお皿を取り出したネロが、俺の前にケーキのお皿とフォークを置いてくれた。足を組んでお茶を飲み始めたネロは、俺をぼんやりと見守っているっぽい。
流れるようにお茶とケーキの支度を整えてくれたネロを見ながら思ってしまう。ホントにスマートに事をこなす人だなっと。そして、結構マメに面倒を見てくれる感じから、結婚したらいい旦那さんになりそうな気がする。奥さんになる人は幸せなんだろうな。
お礼を言って、フォークに手を伸ばす。綺麗にカットされているフルーツタルトの先端を切り取って、口に運びながらネロを眺める。無表情で無愛想で、言葉数が異常に少ないし言葉もきつい時もあるけど、凄く優しい人だと思う。
ネロを考察していたけど、口に入ったフルーツタルトで意識がケーキのほうに移ってしまった。甘さが控えめでいい香りの固めのカスタードクリームに、しゃくっと歯応えがあるリンゴのようなフルーツの酸味が合わさってとても美味しい。
ネロの淹れてくれたお茶を口に運ぶと微かな苦みといい香りが、美味しいタルトにとても合う。まったりとした時間、本当に落ち着く空間、知らない世界で出会って数日にしかならない無表情ながらも見守ってくれる、目の前のこの人に安心感を覚えていた。
「アルさんの仕事を押し付けられたって聞いたけど、族長の仕事って事なのかな。」
ティーブレイクの茶飲み話として、少し聞いてみるとネロが頷いて答えてくれた。族長の仕事って凄いな、一介の護衛が引き受けるには量が多くないかな。ちらっと、ネロがテーブルの端に寄せた書類に視線を移してみた。
「前にも聞いたけど、護衛の仕事で族長の補佐もやるんだね。護衛さんっていうのは、めっちゃ強い人が対象を守る仕事だと思ってた。」
「それも任の1つではある。他にも各地で討伐、視察、偵察などの任に就く事もある。族長の補佐に関しては、護衛の任の範疇ではない。」
「じゃ、ネロだけ手伝ってるの?ってか、もしかしてネロって護衛のトップの人だったりするのかな。めっちゃ偉い人なの?」
「偉くはない。護衛を纏める役は担ってる。族長の補佐をしているのは、仕事を覚える為と他に適任がいない為。」
「仕事を覚える為?」
「族長が辞めた後、次ぐ為。」
「・・・次期族長って事?」
目の前のこの人、めっちゃ偉い人だったのかもしれない。ってか、かもじゃないわ。偉い人で確定だった。実質、ガト族のナンバー2って事だよね。変な汗が出てきた。俺はこの人に対してめっちゃフレンドリーに接してたよ。馴れ馴れし過ぎって思われてないよね。今更だけど反省してしまった。
「可能性の話。族長が辞める事はない。従って、次期族長ではない。」
「えっと、でもアルさんが辞めたらネロが族長さんになるって事ですよね?」
「候補が他にいなければ、の話だ。」
「ガト族のナンバー2の要人の家に、こんな得体のしれない人族を入れてしまってもいいんですか?それに、お茶とか普通に淹れさせちゃって申し訳ないです。これからは自分でやります。」
話の流れに若干緊張しながら、椅子の上で正座をして思わず変な敬語になってしまった。
「要人ではない。琥珀は得体のしれない人族ではない。族長の『予言の人』。問題無い。言葉も生活も今まで通りで構わない。」
「あ、そうですか。」
ネロが淡々と言い放った言葉の勢いに飲まれて承諾とも取れる返事を返してしまった。よく分からないけど、ネロさんは世話好きな人って事みたい。
俺みたいに右も左も分からなくて、運動能力が壊滅的な人の世話をしてくれるいい人なんだと思う。めっちゃいい人だ、偉いのにめっちゃいい人。
それか、族長のアルさんの言葉は絶対的なモノって事かもしれない。ガト族の人にとっては、アルさんの言葉は絶対的なのかもしれない。多分後者の方が意味合いとしてはでかいけど、ネロの感じを見てると前者も捨てがたい。
黙って考え込んでしまった俺に会話は終了した、と判断したらしいネロが、話は終わり、と言わんばかりに端に寄せていた書類を広げてしまった。慌てて最後の一口のタルトを食べて、俺もソファに戻って読書を再開してみた。でも、全然集中できない。暫く格闘して、諦めた。
先に寝てる、とネロに声を掛けて、流しで顔を洗い口を漱いで寝る準備は整った。ん~っと伸びをしながら移動して寝室に入る直前でネロに止められた。
ネロの唇が動き、〈浄化〉と〈乾燥〉の魔法をしてくれた。ふわっと取り巻いてくる暖かい風に眠気が増してくる。ありがと、おやすみ。とお礼を伝えて寝室に入り、ベッドにパタンと倒れ込んだ。




