幽閉十日目 『ボク、泳げや〜ん♡』
雨が上がった。
幽閉十日目。
志摩貴春先輩は、朝ごはんのあとで宣言した。
「海、行くで!!!!」
幽閉条件の、第一条の相談は、なかった。
先輩が自分で決めるぶんには、いらないらしい。
家の裏の坂を、五分ほど下った。
岩と岩のあいだに、小さい入り江の浜があった。
だれも、いなかった。
足あとの一つもない。
「ここな、人が来やんのや。ええやろ」
先輩は、うれしそうに砂をふんだ。
大きな浮き輪を、わきに抱えている。
水着の上に、Tシャツを着ていた。
Tシャツのすそから、長い脚がのびている。
僕は、海のほうを見ることにした。
先輩が、僕の顔をのぞきこんだ。
「……キミ、いま、どこ見とったん?♡」
「海です」
「うそやん♡ 耳、まっ赤やで♡ すけべやな♡」
海を見ていたのは、本当だ。
その前にどこを見ていたかは、聞かれていない。
◇
「先輩は、泳げるんですか」
先輩は、浮き輪を頭からかぶって、わきの下まで通した。
胸をはった。
「ボク、泳げや〜ん♡」
「志摩で育ったんですよね」
「海は、見るもんや。入るもんとちゃう」
「今日は入るんですよね」
「浮き輪があるやろ。浮き輪は、泳げやん人間の船や」
先輩の船は、波打ちぎわでぷかぷか浮いた。
僕は、ふつうに泳げる。
関東のプールで習った。
ただ、だれかと海に来たのは、初めてだった。
「童貞ク〜ン! こっち来てみ〜!」
行くと、顔に水をかけられた。
「ンナハハハハw ひっかかった〜♡」
やり返すと、先輩は浮き輪ごとくるくる回って逃げた。
逃げながら、ずっと笑っていた。
こんなに笑う人だったのか、と思った。
◇
気がつくと、先輩の浮き輪が、少し沖にあった。
波に、引かれたらしい。
先輩が、足を下にのばした。
笑うのを、やめた。
足が、つかなかったのだ。
先輩の顔から、色が消えた。
浮き輪をつかむ指が、白くなっている。
しぼんでいくみたいな、小さい声だった。
「……ひゃばい、ちょまって……」
声が、どんどん高くなった。
「あかん! あかん! やばい、やばい!! ボク、泳げやんねん!! 泳げやんねんって!!!!」
先輩は、手も足も、めちゃくちゃにばたつかせた。
息が、浅くて、速い。
あばれたせいで、浮き輪が、わきの下からすっぽ抜けた。
先輩は、両うでで、浮き輪のふちにぶら下がっていた。
あごまで、水につかっている。
「先輩!!!!」
頭が、まっ白になった。
気がついたら、泳いでいた。
プールで習った形なんて、どこにもなかった。
水を飲んだ。
それでも、腕を回した。
先輩の手首を、つかんだ。
先輩の両うでを、浮き輪の上に、しっかりかけ直した。
「つかまっててください!!」
先輩は、浮き輪にしがみついた。
終業式の日の、踊り場と同じ顔だった。
浮き輪のひもを、にぎった。
一秒でも早く、陸へ。
それしか、考えられなかった。
ひもを肩にかけて、全力で泳いだ。
足がつりそうになった。
それでも、止まらなかった。
心臓が、ずっとうるさかった。
足がつく所まで来て、息を少し整えてから、一つだけ言った。
「足、つきますよ」
先輩は、うなずいた。
うなずいただけで、立てなかった。
僕は、浮き輪ごと先輩を、砂浜まで引きずり上げた。
先輩は、浮き輪から転がり出るように、砂の上に倒れこんだ。
「げほっ、げほっ……おえっ……」
四つんばいになって、飲んだ海水を吐き出している。
背中が、大きく上下していた。
僕は、その背中を、ゆっくりさすった。
◇
しばらくして、先輩は砂の上で、ひざをかかえて座った。
まだ、少し震えていた。
僕は、先輩のお母さんが持たせてくれた水筒の水を、コップに入れて、先輩の横に置いた。
それから、少しはなれて座って、海を見た。
何分たったか、分からない。
先輩が、コップを取った。
小さい声だった。
「……終業式のときと、おんなじやな」
「水を置いただけです」
「……それがええねん」
何がいいのかは、分からなかった。
聞かないほうがいい気がしたので、聞かなかった。
しばらくして、先輩は立ち上がった。
腰に手を当てて、いつもの顔にもどった。
「いまのは、おぼれたんとちゃうで。海のほうが、ボクに寄ってきたんや」
「海が悪いですね」
「せや。海が悪い」
それから、先輩のお母さんのおにぎりを、浜で食べた。
海苔がたっぷりで、僕のこぶしより大きい。
先輩は、両手で持って、ひとくち食べた。
「……ん、んん〜♡……」
いつもの声だった。
でも、涙が、ぽろぽろ落ちていた。
おにぎりの上にも、ひざの上にも。
先輩は、泣きながら、もぐもぐ食べつづけた。
さっき海が悪い、と胸をはった人は。
本当は、こわくて、こわくて、仕方がなかったのだ。
僕は、見なかったことにして、自分のおにぎりを食べた。
帰り道。
先輩は、坂の下で立ち止まった。
ひざが、まだ少し震えている。
僕は、先輩の前にしゃがんで、背中を向けて、こう言った。
「乗ってください」
先輩は、何も言わずに、背中に乗った。
先輩のうでが、僕の首に、ぎゅっと回った。
しょげた、小さい声だった。
「……もう離したらあかんで」
「先輩。ここは、陸です」
「……陸でもや」
坂を上った。
背中が、あたたかい。
ぬれた髪が、僕のほほに当たっている。
耳のうしろで、また小さい声がした。
「……こんなんしてもらったん、はじめてや」
僕も、だれかをおんぶしたのは、はじめてだった。
坂は、きつかった。
でも、下ろしたいとは、思わなかった。




