第十五話 おうちでーと
バスのアナウンスが流れる。次のバス停で颯太達は降りなければならない。颯太は自分に寄りかかって寝ている綾菜を起こさないように、そっと身を乗り出し、近くのオレンジ色の手すりに付いている降車ボタンを押す。ボタンが赤く光り、「次、止まります」とアナウンスが流れた。
バスはそろそろ目的地へ着く頃だ。颯太は静かに寝息を立てている綾菜を優しく揺する。
「おい、古賀。次で降りるぞ」
「……ん、もう着いたんだ」
綾菜は眠たそうに小さくあくびを一つして、目をまた擦っている。
「大丈夫か? 睡眠不足だったりするか?」
そこまで眠そうにされては、颯太も心配になるのは普通だろう。
「ううん、疲れが溜まったんだと思う」
まだ眠たそうにしている綾菜。
そうしている間にバスは目的地へと着いた。バスを降り、バスを見送ると何やら楽しそうな話し声が聞こえる。声が聞こえる方へ目を向けると、近くの中学校の生徒数人が部活帰りなのだろうか、スポーツバッグを肩にかけて歩いている。
徐々に日が隠れようとしている時間帯。夏という事もあり、まだ明るい。バスでの移動は約二十分ほどで、現在は五時半頃。
「ここから少し歩くけど、平気か?」
さっきまでの事を見ていると、颯太はやはり心配になってしまう。
「うん、大丈夫!」
しかし、寝て元気を取り戻したのか、綾菜は元気いっぱいです、というアピールをしてきた。
「分かった。じゃあ行くぞ」
颯太は綾菜を心配しつつ、自宅へと足を進めた。
約十分ほど歩いたところで、住んでいるマンションの下へ着いた。颯太は鍵でオートロックの扉を開けて、綾菜と共にエレベーターに乗り込む。自宅は四階なのですぐに着いた。
「颯太の家っていい場所にあるね」
ボソッと囁くように綾菜はそう言った。
「そうか?」
「そうだよ。だってこんなに綺麗な夕日が見られるなんて」
まだ落ちかけの太陽を指差して、綾菜はそう言った。確かにそうだ。颯太は何度も綺麗な夕日を見ている。それが当たり前になってしまっているのが、綾菜は不思議でならないらしい。
「ほら、いつまでも見てないでさっさと入るぞ」
「あ、うん」
鍵を差し込み右に半回転させると、ガチャリと開錠をした音が響き、それを元の位置に戻すために左に半回転させた。
颯太は扉を引いて、家に入る。電気はついておらず、明里はまだ帰ってきていないらしい。
この時間帯になると、暗さが徐々に濃くなっていくのが分かる。颯太は玄関とリビングへと繋がる廊下の電気をつける。
適当に靴を脱ぎ、下駄箱に入れておく。最近買った消臭剤のいい香りが漂う。
「お、お邪魔します」
少し遅れて玄関にやってきた綾菜。颯太の方を向いて靴を脱ぎ家に上がると、靴を揃えて玄関の端に置いた。
綾菜を連れ、颯太はリビングへ向かう。リビングの手前の扉を開け、近くの壁にある部屋の照明をつけるボタンを押す。
若干オレンジがかった光に部屋が包まれる。
颯太は和菓子屋で買った物が入っている袋を食卓の上に置く。
綾菜は不思議そうに部屋を見回している。
「じゃあ、僕の部屋に行くか」
「あ、うん」
そう言って、颯太の部屋の扉を開け中に入る。来客用と自分用のクッションを小さい机の近くに置く。
「へー、綺麗にしてるんだね」
先程と同じように、綾菜は部屋の中を見回しそう言った。
「楽にしてくれ」
「うん」
綾菜は自分の鞄を部屋の隅に置いて、足を崩して来客用のクッションの上に座る。
「何か飲み物出すけど、何かリクエストはあるか?」
「おまかせで」
綾菜は微笑みながらそう言った。
「分かった。待っててくれ」
颯太は自室を出て、冷蔵庫の扉を開け、麦茶が入ったポットを取り出す。
そして、食器棚の中にあるグラスを取り出して、そこに麦茶を注いだ。
これを二人分作ると、お盆の上に乗せて自室に持っていく。バイトと同じように、バランスを崩さないように運んでいく。
自室の扉を片手で開けると、目の前では綾菜が四つん這いになるようにしてベットの下を覗き込んでいた。
「何してるんだ?」
「いや、変な本とか置いたりしてないかなって思って」
「妹がいるんだ。エロ本なんて置いてない」
颯太には明里という妹がいるのだ。そんな見つかりやすい所に置くわけがない。まず第一、買うことも許されない。
「ほら、喉渇いてるだろ?」
そう言って、小さい折りたたみ式の机の上にお盆を置いた。
「ありがとう」
綾菜はグラスを手に取ると、一口ほど口に運びグラスを置いた。颯太も喉が渇いているのでグラスに入れた麦茶を一気に飲み干した。
「ねぇ、少し相談に乗ってくれない?」
少し神妙な顔つきで綾菜は颯太を見ながらそう言った。
「何のだ?」
いつもとは違う綾菜の雰囲気に、颯太は自然と背筋が伸びていた。
「最近ね、悪夢を見ることが多くて、寝た気にならないの」
綾菜の視線が下に落ちる。それほど深刻な悩みなのだろう。
「悪夢か」
颯太も、香月優衣が夢に出てくることがあると、次の日は寝た気にならない。実際に本人と会っているかのように感じている。
「どうしたらいいんだろう……」
「そうだな……」
颯太は腕を組んで考えるが、いいアイディアは浮かんでこない。颯太は精神科医ではないので、当然と言えるだろう。
だが、初めて見た綾菜の表情は本当に困っているようだった。その表情を見てしまっては、解決する手段を見つけてあげたいという感情が渦巻く。
そうしていると、リビングの方から何かの音がする。固定電話の着信音だ。
「悪い、ちょっと待っててくれ」
颯太は自室を出て、固定電話の方へ向かう。電話をかけてきたのが誰か分からないが、タイミングが悪い。
固定電話の表示を見ると、知っている名前が液晶に表示されていた。菅原悠介だ。
颯太は受話器をとって電話に出る。
「もしもし?」
『いきなりかけて悪いな。取り込み中だったか?」
相変わらずの律儀な応答。菅原悠介は、颯太が引っ越す前の中学校で、特に仲良くしていた友達だ。離れていても、時々こうやって連絡をくれる。
「ああ、後でかけ直してほしい」
『分かった。また後で』
「ああ」
そう言って、受話器を置き、颯太は自室へと戻る。
「短かったね」
「ああ、なんかの勧誘だったから、断って切ってきた」
それは真っ赤な嘘だが、颯太が綾菜に気を遣わせてはいけないと思っての事だ。先程置いた、自分用のクッションへ腰を下ろす。
そうすると綾菜は、
「嘘でしょ? なんで分かりやすい嘘つくの」
と言ってきた。バレてしまったのは仕方ない。
綾菜からは、呆れた表情の中に薄らと微笑みが見えたように思える。
「で、さっきの事だが……」
電話の内容はさておき、今の二人は綾菜の悩みについて焦点が当たっている。
「いくつか質問してもいいか?」
「あ、うん」
「悪夢を見る頻度はどれくらいだ?」
「だいたい、週に二、三回くらいかな」
「最近、睡眠はちゃんととってるか?」
「十二時までには寝てる」
颯太は顎に手を当てる。何が原因かよく分からないのだ。悩んでしまうのも当然と言える。
しかし、颯太には一つ思い当たる事があった。
「最近、大きく心境が変わった事はあるか?」
「そう言われても……」
「例えば、恋をしたとか」
颯太の発言から数秒の静寂が流れ、綾菜が口を開いた。
「……何言ってるの?」
「例えばの話だ」
綾菜は、目線を颯太と自分の足元へ交互に向け、最終的には目線を下に向けた。頬が少し赤く染まるのが分かる。
そうすると、綾菜は小声で、
「あるといえば、ある、かも……」
と呟いた。反応を伺うように、上目遣いで颯太を見る。
「そうか」
颯太は綾菜の反応を見て、一つの可能性を頭に浮かべた。そして、言葉を続ける。
「あくまでも、可能性の話なんだが」
颯太が浮かべた一つの可能性。それは──
「もしかして、『恋煩い』かもしれない」




