証言:王妃エルマ・プレトリス 1
幼少期のフランがいつも疲れたような顔で、どろりとした目で周囲を睥睨していたのは私のせいだ。甘やかせる時期を逸してしまったのはわかっていたの。だってそれどころじゃなかったから。
モーリス・エルドライン。
王家から放り出されて、兵士として成り上がった私の夫。私が経営する実家の店に顔を出しては、何も買わずにからかって出ていったのに。私の婚約話が上がるころ、彼は出自を伏せたままで求婚してきたのだ。
その頃にはそこそこの大きい商店経営者だったから、家にも入らず小賢しい女だと、求婚してくる人間も少なくて。どんどん出世していたモーリスは破格の縁談だったのよ。両親は手放しで歓迎したわ。
商いをしながら戦争に出る彼を待って、しばらくして長男のクライトが生まれて。夫は軍の仕事で家を空けることが多かったけど、彼が歳を取っても、きっと私の稼ぎで家を支えられる。未来は私でも考えられる範囲の事だけしかなくて、薄暗い程度で、きっと大丈夫と漠然と信じていられたのに。
ああ。あのまま忘れ去られた王族の末席として、生を全う出来ればどんなによかったか。私の夫を見下していた連中が、軒並み呪詛に倒れて、モーリスは王にならざるを得なかった。
戦で彼が帰らない覚悟はしていたけれど、王妃として並び立つ覚悟なんて欠片もなかった。貴族共が身を引くようにと、慇懃に吐いた言葉を、誰より喜んだのはきっと私だった。
口当たりの良い言葉で、もっといい御縁を勧めたのに。だけどあの人は、お前だけは逃がすものかと決して離してはくれなかったから。ずるずると彼の隣で、似合いもしないティアラを戴くことになった。
呪詛も野卑な兵士を王族とみなさなかった。その身に王族としての血すら流れていないから無事だったと揶揄されて。王太子にさせられたクライトが呪詛に倒れた時には世を呪ったわ。
どうして、あのまま普通に過ごさせてくれなかったの。そこまで言うなら、そこまで言うくせに自身が王として立つ度量もないなら、クローニャなど明け渡してしまえばよかったじゃない。
呪詛に浸されたクライトの皮膚は全身ただれて、身じろぎするだけで苦しがった。ベッドの傍でマナーと所作を学び直しながら、細く笛が鳴ったような息の音が、夜が明けても途絶えなかったのに安堵して、まだ続く苦痛に終わりがないことに絶望した。もう、粥すら喉に詰まるとろくにすすることすらできなくなっていたの。
最初、一兵士の息子として生まれたこの子は、いつも街を元気よく駆けまわっていたのに。あの頃に帰りたいと、まだ話せる頃はうわごとのように言っていたのに。今は、クライトが元気だったころの声すら分からなくなってしまった。
解呪の為に、一部の物好きな貴族を中心に魔法研究は進めさせていたけど。小さな奇跡ひとつすら施せないそれに、実用化の目途は立っていない。
それどころか、既に絶えた魔法などに支出を割いて、商家出の王妃が国防を軽んじるつもりかと。呪詛を用いるグリルビーク侯爵家が、余計な圧力すら加えてくる始末だ。挙句家臣共はそれに追従した。たった一人息子を治すために、国税を費やすつもりでいるのかと。もうひとり代わりがいるのだから、それでいいだろうなんて。それすら絶える危険すら考えにないのか。
馬鹿らしい。他国に打って出ることも不可能なこの国に出来るのは、ただひたすらに防衛だ。呪詛など磨いて下手に刺激したところで、四方から潰されて終わりだというのに。
そして案の定他国から実験と称して放たれた呪詛に、国が消滅する危機であると、うろたえる家臣共が情けない。
自身が何に脅かされてきたかも忘れて、呪詛を唯一扱えるグリルビークに依存しきっていた馬鹿どもも、国の有事に、気難し気に黙るだけで仕事をした気でいるグリルビークも、真っ先に死んでしまえばよかったのに。
それでも私はほっとしていた。やっとこの身に余る役目が終わる。国ごと消えてしまうのは、きっとしょうがないことだったんだ。
私も、私の息子も、夫も、成す術のないことで死んでしまう。打つ手のないことで仕方なく死ぬ。
それは、私にとって一種の救いだったのに。クローニャは再び延命した。
アンリエ・ウォーフルって小さな、本当に小さなお嬢さんが、うつくしい泥団子で呪詛を跳ね返したのだ。
そんな眉唾な話を信じ切れなかったけど。
茶会でのあいさつで、渡された箱に詰められたのは、5つの美しい宝玉だった。少し撫でるだけで、薄透明に光る神々と妖精が、威厳を込めて微笑んではまた宝玉へと溶け込んでいく。
王家の前途を案じ、祝福するそれを。目に見える奇跡を適当に放り出せるあの子に、思わず握った扇子が軋んだ。
ああ、どうしてあなたはもっと早く生まれてこなかったの。こんなことができるのに、どうして手遅れになってから生まれてくるの。
そうしたら、クライトはあんなにも苦しんで、いずれ死なずに済むはずだったのに。
そんな言葉が焦げ付いて、私、あの子の顔をろくに見れなかったけれど。
扇子ごしに垣間見た金色の目は、粗相なく辞儀ができたことに安堵しているだけだった。
「おう、母さん。やっぱすげぇわあの子。ぱちった飴で兄貴治った。すげぇの。ぶわっと呪詛取れてさ、月の精霊が固めてどっかに放り投げてたわ。兄貴呪ったやつ、死んだかもな」
「あ、母さん。なんかおいしいの食べたい!肉とか!」
「兄貴、ちょっと飛ばし過ぎだろ。粥にしとけ。前兵士のおっちゃんが、急に飯食うと腹に詰まって死ぬって言ってたぞ」
「うわこわ……何食くらい粥にすればいいのかな」
「ちょっ……!」
茶会の騒動の夜だった。今日もクライトの付き添いに足を運べば、兄弟の惨状を目にするのも辛いだろうと、遠ざけていたフランがいたのだ。
垂れた目で、にし、と悪く笑うフランが、クライトと軽い調子で手を打ち合わせている。
クライトの喉の腫れは引いたようで、笑い声もしっかりしたものだ。
献上された宝玉の、柔らかい光の中でじっくりと肌を見る。まだ皮膚の赤いただれは治っていないけれど、拭えども尽きない膿みは不思議と止まっている様だ。ただ、変に動いて皮膚が引きつったようで、気の抜ける悲鳴を上げている。
ああ、ああ、そうだ。貴方はこんな声だったわね、クライト。
思わずその場で泣き崩れた私に、フランが背をさすってくれる。
クライトがいつ死ぬかもしれないと、構えなかったというのに。いつも方々を探してくれていたわね。探し……
「……………ん?待ちなさい、フラン。貴方、今、飴をぱちったと言ったわね。誰から?」
「アンリエからだな。カルセドニーがかけた喉の呪詛を跳ね返してたから、兄貴もイケると思ったら案の定だ。ここまでの威力とは思わなかったが」
全く悪びれないで笑うフランの頬を両手できゅっと挟んだ。
もにゅもにゅと魚のように口を動かして逃れようとしているけど、母は普通に怒っているのでやめない。
貴方その手癖の悪さ誰に習ったの。モーリスね。戦場では敵軍の荷を奪うのは普通の戦略とか言って、私の隠しチョコレートを狙うのも改めないから。
「よくやったわ……」
「そうおもうならひゃなせよ」
「でも泥棒はいけないわよフラン!貴方に構える余裕のなかった私が言えることじゃないけど!」
「そうげいりょうだよ」
「馬鹿仰い!」
確かに、カルセドニーに喧嘩を売りに行ったのは見ていた。その後でアンリエ・ウォーフル嬢を背負っていたのも。
今思い返せば紳士の気遣いを出来るようになって、と褒める余裕があるのにこの始末だ。
ほとんど悪徳業者の手口じゃないの。
「なー母さん、俺あの子が嫁に欲しいんだけど。魔法作れるし」
「却下します」
まだ生まれながら王族として呼ばれたフランの方が、こうした考えには馴染んでいる。健康だったから、長く寝込んでいたクライトより、教師による教育が進んでいるともいえるけど。
平民として過ごした期間があるクライトがそれを聞いて、ちょっと嫌そうな顔しているの、気付いていないのかしらね。やだやだ。貴族連中の考えに染まっちゃって。やっぱり教育って、かなり大きな部分を占めるわね。
「なんで!!国としても魔法作れる第2王子妃って役立つだろー!兄貴の方にはちゃんとした家の嫁もらえばいいし!」
ふて腐れたようにそう言われて、あのふわふわした白猫のような子どもを思い出す。
あの歳としては、確かに過ぎるほど行儀がいい。カルセドニーに詰め寄られても、抵抗を諦めない胆力も素晴らしい。あの泥団子も、彼女が研鑽を積んだ結果だ。
だけどその父は救国の獅子アードルフ・ウォーフル男爵、母はロンファンの射手、影なしサルファ。
戦えて、たまたまクローニャ国で爵位を得た人間だけど。元上官のモーリスにも平気でため口を利けるし、槍ひとつでどこまでも行ける人間だから王家への忠誠心など欠片もない。
モーリスは王になっても、唯一態度が一切変わらないあの男を好んでいるようだけど。お前がどれほどのものか、と常に問われている気になると、酒に酔ってこぼしていた。
うん……うん。ないかなって。
あの子何の後ろ盾もないし、なれないし。魔法技術だけ提供してくれたらそれでいい。
何故神々があの子に魔法を授けたのかも、理解が及ばないし。今後、新しい魔法を生み出せるとも限らない。環境面を考えても、野放しにしておいた方が、のびのび魔法を産んでくれそうだ。あとは、グリルビークに囲われないように対策だけすればいい。何だったら、教会に聖女として登録し、独身と定める術もある。
それにアンリエは男爵家の娘で、多分気質としては元が商人の私寄りだ。
モーリスの代はもうしょうがない。
あのひと、結構な暴君なので、混乱に乗じて私のような元商人を王妃にしたけど。次代からはつけいられる隙を極力なくすためにも、家柄自体をしっかり見ないといけない。
だいたいあの白猫嬢は、決して王妃として幸せになれるタイプじゃないし、他国に逃げ出しても幸せになれるだけの実力を平気で手に出来る。下手に獅子に首輪をつける危険は冒したくない。爵位だけを上げて、恩を着せ、遠目で監視する程度が一番いい。
「道具として迎えたいなら決して許しません。彼女は魔法が生まれた経緯を聞いても、かなり感受性の強いお嬢さんなの。私たちのような考えを看過できる生まれじゃないんだから」
それらしい理由でことをうやむやにするのは、商人時代から慣れている。
王家に当然の思考も、人によってかなり反感を買うのをまだフランは知らないのだ。
まして無二の技術をもつのに、人格すら道具として扱われるのを許容できる人間がどれほどいることか。
ウォーフル家はいつだって、クローニャを見限ることができる。そんな実力と気楽さと気軽さがある家なのだ。下手に刺激は出来ない。
国が延命した以上、肉の盾となれる兵を削ぐには時期が早すぎる。
………さて、もういいでしょう。
せっかくクライトの呪詛が除かれた良き日に、これ以上こんな話はしたくない。クライトも、一度身体を拭いて、着替えさせてから寝かせたい。
いい子だから、今日はもう寝なさいと、フランの背を撫でた時、ぱっと弾かれたように顔を上げた。
心底、嬉しそうな、晴れやかな笑顔だ。
「つまり、道具じゃなけりゃいいんだな。わかった。任せろ」
恐ろしくあっけらかんとした声がした。親に、窘められたばかりの子どものそれじゃない。
夜闇にも明るい橙の目が、どろりとして熱い、なじみ深い色を宿している。
見覚えあるそれにうろたえて、思わず手を離した瞬間、すり抜けてフランは駆け去っていく。
止めかけた手が迷う内に、フランは行ってしまった。
あれ、あれは、モーリスの。
お前だけは逃がすかと、私を捕まえた時の。
「だめだよ、母さん」
「え?」
「フラン、まじの初恋だよあれ。言質取られたね。今頃父さんのとこに殴り込みかな?多分、ウォーフル男爵の吠え面見たくて、面白がって許可出すと思うよ」
「なんで……」
「なんでって………口じゃああ言ってたけど、母さん来るまでずーっとアンがかわいいかわいいって、相当うるさかったんだから。たぶん普通にまじだよ」
いや、あいつ誰かにかわいいって思う気持ちあったんだね、なんて気楽に言うけど。
思い返す記憶にフランの姿がなくて、私は何も言えない。
おかしい、勉強が進む前まで、一緒にクライトの看病をすることはあったのに。優しいのに、いつだって疲れた顔で、憎まれ口を叩く子だったのに。
なんでなんて言うまでもない。
彼が人格を持って言葉を繰り始めたその時から、私はクライトの傍についていたからだ。まともにフランの話に耳を傾けた最後を、思い出せない。
だって商人から、第2王子に教えられることなんてなかった。
教育を全て教師に任せて、朝と夜に、挨拶をするだけだったからだ。
「いいじゃない。何考えてるかほんとわかんないけど、手口はえげつない奴だし。王妃くらいは分かりやすくて、人に好かれる子を選んだ方が絶対いいよ!あいつが好きになるならいい子なんでしょ?ねね、どんな子なの、アンリエって!あいつ、惚気るだけでまともに教えてくれなくてさ!」
「……王太子は貴方じゃない、クライト」
まともに相槌すら打てない。
手口がえげつない?ああ、そうね。平気で飴を盗んでいたもの。それもアンリエ嬢に親切に振る舞ってまで。でも、それはクライトを助ける、ためなのかしら。はつこい。フラン、あの子みたいな子がすきだったの?何もわからない。
何とか絞り出した言葉は、まだ爛れた皮膚、重そうな瞼の下で、青い目が面白そうに笑う。
「俺が王になれると思ってるなら、それこそ見込み違いってやつだよ母さん。誰も幸せになんないね」
かくして、クライトの予想通りに期限と制約と、多大な謀略の最中に、フランとアンリエ嬢の婚約は成った。
ウォーフル男爵家も、政略を分からない以上、グリルビークからアンリエ嬢を守り切れないからと了承した為だ。
その時の妙な胸騒ぎを、私は未だに覚えている。
わざわざ婚約など結ばなくても、と進言したけれど。楽し気なモーリスの発案は、よほど間違っていなければ誰も止めることができない。
モーリスだって、いずれ撤回する婚約なのだと信じて疑っていなかった。
でも、それは誰よりも、フランの思惑通りだったと知るまでは早かった。
誤字報告ありがとうございました。
王妃はどっちかというと、飼育環境が整ってないところに、生半可な気持ちで無理やり飼うのはいけないよって気持ちで反対しています。