俺の場合2
蹴婚→結婚に訂正しました。
飲まず食わずに引きこもっていた俺は、自力で動けなくなった後、目を閉じたら、そのまま消えてしまうだけだと思っていたのだが、俺の耳に何故か、元婚約者の声が聞こえるのだ。最初は幻聴かと思った。
「婚約破棄は小父様の嘘です。私はまだあなたの婚約者です。」「私を置いて遠くに行かないで。私の側に戻ってきて。」「あなたが好きです。あなたとじゃなきゃ、婚約も結婚もしたくないの。」この言葉が繰り返し何度も俺の耳に聞こえた。どうやら幻聴ではないようだが、これは俺の見ている夢が聞かせた事なんだろうかと混乱していた俺は、夢の中だとそう思ってしまった。
俺の好きな彼女の声で、なんでこんなに甘い言葉が聞こえるんだ。俺の耳だけが天国へ行ってしまったのだろうか。そう感じていると、俺の口にやわらかいモノが触れて、水を飲ませてくれた。水を飲むと、喉が渇いていたので、もっと欲しくなった。口を開けて水を催促すると、またやわらかいモノが触れて、俺が満足するまで何度でも水を飲ませてくれた。
それから、水が果汁になり、やわらかいモノがスプーンの感触になり、パン粥が食べられる様になるまで時間が掛かったようだが、俺の目が覚めてからずっと付きっ切りで、その間の俺の世話をしてくれたのは俺の元婚約者だった。そうすると、あの聞こえた言葉の数々が夢ではないなら、あれは一体何だったんだろうと悩んでしまった。
そうして少しは身体が回復して少しだけ話せる様になった俺が、彼女に新しく婚約が決まる筈だったと父から聞かされた話をすると、「小父様の嘘に私も父も踊らされました。全部嘘ですわ。私は貴方の婚約者のままですわ!他の人には譲りませんから!」そう言ってくれた。ああ、あれは夢ではなく現実だったのだ。もう悩まなくていいんだ、彼女は俺のものだと心が沸き立つ気持ちになって、何だかとても嬉しくなった。
「義妹は嫌いではないが婚約したい程、好きではないし、私も貴女だけしか選びたくない。」と言ったら、「あなたに水を飲ませるのに、私はキスをしてしまいました。その責任をとって、結婚してくれなきゃ嫌ですわ。」と俺が聞き取れるギリギリの声で、そんな事を暴露するもんだから、2人して真っ赤な顔になってしまった。そうして、彼女の献身的な看病の甲斐もあって、俺自身が生きる気力を取り戻したのだった。
それから更に回復して、ベッドに起き上がって座れるようになった俺の元には、毎日誰かしら、屋敷の者も含めた人達が謝罪と見舞いに訪れてきていた。
「生真面目な坊ちゃんが盗み食いなんかする訳ないのに。」とか、「ご自分で決めた事はやり遂げる坊ちゃんは、今回もう少しで神の身許に召される所だったんですよ!変な所までやり遂げないで下さいましっ!」とか俺の小さい頃から父に叱られて泣いていた俺を唯一慰めてくれていたメイド長には叱られてしまったが。
父上と母上は俺にはもう関心がないのだろう、一度も俺の所には来ていない。
「死にかけて迷惑をかけた要らない息子よりも、義妹の子供を期待している両親なのです。私には関心ももう一切ないのでしょう。」と婚約者の彼女の父にそう愚痴を零してしまった。
「身体が弱ったから心まで弱ってしまって、こんな事を言ってしまう息子なんて尚更、要らない存在ですね。笑えない現実です。」続けて零した愚痴を、父の様に怒鳴ったり呆れたりすることなく彼女の父は微笑んで、受け止めてくれた。
「うちには跡継ぎがいないんだ。君さえ良ければ、娘と結婚したら、うちの家を継いでくれると助かるよ。」そう言う彼女の父は必死な顔をして俺を見ていた。
「私の父の様に、私を怒鳴ったり否定して呆れないでいてくれる家でしたら、喜んで婿養子になります。ここの家の跡継ぎには両親期待の義妹もいますし、私は彼女と結婚出来るのでしたら、どんな条件でも構いません。」俺は心からの笑みを浮かべていただろう、この家から解放される喜びに、彼女と結婚出来る現実を感じられて。
彼女が俺の言う事を聞いて「嬉しい!」と涙を流して喜んでくれた。
そうして俺は回復していき、杖を使って歩けるようになったので、一刻も早くこの家から出たくなってしまい、自力で移動出来る様になった事で馬車に乗って婚約者の彼女の家へ行き、そのまま滞在するようになった。
毎日、彼女と学園に通い、彼女と一緒に過ごせる時間が増えたのと、俺が彼女だけに心からの笑顔を向けているらしく、そのお陰で、あの婚約破棄は俺の父の起こした茶番だったのだと、俺が生真面目に父の茶番に付き合わされていただけだったと、あの噂が払拭されたのだった。
彼女の父の計らいで、結婚したら婿養子になるけれど、別に屋敷を建てなくてもいいと言ってくれて、そのまま彼女の家に滞在ではなく、学院卒業後は家族として扱ってくれて、彼女と同じ部屋で住めるようになった。俺の仕事は、もうすぐ俺と結婚する彼女の父の仕事を補佐として手伝っている。仕事でも、出来ない俺に向かって怒鳴ったり呆れたりしないで、助言や効率の良いやり方を教えてくれる彼女の父を、いつしか本当の父だと思うようになっていった。
学院を卒業して何年かした後に俺と彼女は結婚した。彼女の、いや、俺の義父上と仕事をしながら妻となった彼女と過ごす生活が幸せだ。時折、俺の育った家の話も聞いたが、関心や拘りは俺にはもうないのだ。義妹が俺の元友人だったあいつと結婚して、あの家を継いだそうだ。あいつは次男だったから、丁度良かっただろうな。元父や元母にも、もう俺自身が関与する事も心配する事もないのだと時々、寂しくなる気持ちはあるが、今の幸せの方が大きい俺には些細な事だと思う。
それよりも、俺が元父の様にならないように、もしそんな態度を俺がとったら、妻にも義父上にも義母上にも、俺にハッキリ言ってもらうという約束をしているのだ。俺の様に寂しい侘しい子供時代を自分の子供には送らせたくないのだから、これからも気を付けねばならない。
気合が入る俺に妻が隣で笑っている。実はもうすぐ俺と彼女との第一子となる子供が産まれるのだ。だから、今更ながら、心の隙間にでも感傷が入る余地があったのかもしれない。
新しく家族となる子供を俺達だけではなく、義父上も義母上も楽しみにしている。幸せになれたのは彼女がいたから。元父に振り回されたが、この先誰に聞かれても、よっぽどの事情がない限り、婚約破棄なんてするもんじゃないと答えようと思う。




