はやぶさと守
ある朝、はやぶさはハスキーの散歩で、ハスキーに引っ張られる形になる。
「ハスキー待つぶさ! どこへいくぶさ!」
なされるがままハスキーに引っ張られていくはやぶさ。
気づくと、さっぽろ羊ヶ丘展望台のクラーク像の前に来てしまっていた。
クラーク像は北海道開拓の功労者であるウィリアム・スミス・クラーク博士を模った銅像だ。
この像の台座には、ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ、大志を抱け)という博士が残した名言が刻まれている。
クラーク像は空を指差すポーズをとっているが、これは「遙か彼方にある永遠の真理」を象徴するもの。このポーズと台座の名言を折り合わせて解釈すると、「そこ(遙か彼方にある永遠の真理)に向かい大志を抱け」という風になる。
しかしそういった本当の意味を知ることなくクラーク像を前にしたはやぶさは、クラーク像の空を指差すポーズと、台座に刻まれた「少年よ、大志を抱け」の言葉から、この像に込められたメッセージを「宇宙に向かい大志を抱け」だと解釈してしまう。
「どうしてこの人は、宇宙を指差しながら大志を抱けなんて言ってくるぶさ?」
はやぶさは宇宙と向き合うことから逃げ続けているわけだが、そういう状況だからこそ、クラーク像から「宇宙へ行け」と叱咤されたように感じてしまう。
「自分は宇宙なんか行きたくないぶさ!」
早くここから離れようと、ハスキーの綱を引っ張るが、ハスキーは頑なに抵抗し、ここに留まろうとする。
「どうしていつもみたいにいうことを聞かないぶさか!」
じつは、クラーク像は元々ハスキーと渡が一緒に散歩するときの定番の散歩ルートだったのだ。
幼い頃から探検家に憧れていた渡にとって、開拓者精神をもち、「少年よ、大志を抱け」という有名な言葉を残したクラーク博士の像は、ずっと自分を触発する存在だった。
クラーク像の前に立つと、渡はいつも自分の胸に説明できない特別な感情がこみ上げてくるのを感じる。
その不思議な感情を味わうために、渡は物心ついたころから毎日のようにこの像の前に通ってきたのだ。
数年前にハスキーを飼いはじめてからは、ここを散歩のルートとして訪れるのが日課となった。
渡とハスキーは、出会った頃から一貫して、「極地探検家とソリ犬」のコンビに将来的になることを目指してきた。
そんな二人にとって、散歩ルートであり、同時にフロンティアスピリットのシンボルでもあるクラーク像は、自分達の夢を忘れないための大切な「約束の地」なのだ。
「ハスキー、お願いだからもう帰るぶさ! 自分はこんな像は見たくないぶさ!」
はやぶさは今までになく強い力でハスキーの綱を引くが、ハスキーは一歩も引かない。それどころか、牙を剥き出して吠え声を浴びせてきた。
はやぶさはこれまで、ハスキーから牙を剥かれたことや、吠えられたことは一度としてなかった。
ショックを受けたはやぶさは、地面に腰をついて泣き出してしまう。
「ハスキーひどいぶさ……どうしてそんな意地悪するぶさ……」
「少年よ、大志を抱け……か」
ふと、聞き覚えのない男の声が近くから聞こえた。
顔を上げると、クラーク像の前に渡と同じくらいの背丈の男が立っていた。
渡の高校の制服を着ているので、同じ高校の生徒だとわかる。
「ここに書いてある少年というのは、人間の男の子を指す言葉なんだ。だから、宇宙探査機でしかも女の外見をしたキミがそんなに過剰に気にする必要はないんじゃないか」
そういうと、男ははやぶさに向き直り、口の端を吊り上げて微笑みかけてくる。その笑顔を見た瞬間、はやぶさは思わず目を見開いてしまう。渡のそれと同じくらい、優しさにあふれた笑みだったからだ。
体格と笑顔。この二つが似ているため一瞬、渡の面影が重なって見えたものの、よくよく見るとその二つ以外で似ている部分はとくになかった。
男はこめかみの辺りまで刈り上げた個性的な髪形をしていた。
はやぶさが何も返さずキョトンとし続けていると、男はもう一度クラーク像へ向き直り、腕を組む。少しのあいだ思案してから、「なるほど」とつぶやく。
「マイプリ……はやぶささんはもしかして、この像の指が宇宙を指すものと思ったのか?」
「そうぶさ」
地面にへたり込んだまま答える。
「……違うぶさか?」
「この人、ウィリアム・S・クラークは、北海道開拓の父とされる人物だ。宇宙開発とはなんの関わりもない。そもそも明治時代の人だから宇宙を意識すらしていなかっただろう」
「じゃあ……じゃあなんで、宇宙を指差しているぶさ?」
「確かにこの人の指は水平線より少し上を指し示しているが、それでもほんのちょっとというレベルだろう。明確に宇宙を指し示すのであれば、もっと垂直に近い角度にしていたはずだ。だから恐らくこれは、遠くの地平に人々の目をいざなうポーズとして考えられたものなんじゃないか」
「な、なるほど……そうだったぶさか」
「マイプリ……はやぶささんらしい早とちりだな」
男は肩を揺すって笑む。
「自分らしいって……お兄さんは自分のことを知っているぶさか?」
「もちろん知っているさ」
「もちろんって……自分は妹のさっちゃんみたいに、テレビCMに出たりアイドル活動をしたりはしていないぶさよ?」
「それでも知っている人は知っている。探査機はやぶさは、有名な宇宙探査機なのだから」
「もしかして……前世の自分のことを、よく知ってくださっている方なのぶさか?」
「ああ、そうだ」
「嬉しいぶさ!」
感激で胸がいっぱいになったはやぶさは、立ちあがるついでにぴょんと跳ねる。
「今まで自分は、前世の自分のことをよく知って下さっている方にあまりお会いしたことがなかったぶさ」
「そうなのか。それは運がなかったな」
「どうして、なにがきっかけでお兄さんは前世の自分のことを知るようになったぶさか?」
男はポケットから小さなものを取りだすと、はやぶさに近づいてきて見せてくれた。
「これがなんだかはやぶささんにはわかるか?」
それは、一見何の変哲もない黒い石だった。
観測機器で調べてみると、火山性の岩でないことがわかった。
表面や内部に、炭素質の微小な粒が点々と存在している。
「これは……明らかに宇宙にあるような岩ではないぶさ。地球特有の変成作用を受けた岩ぶさか?」
「その通り」
男は浅く首肯する。
「これはカナダのラブラドル地域地域で露出した三九・五億年前の堆積岩だ」
「三九・五億年前……地球の岩にしてはずいぶん古いものなのぶさね」
「そうだな」
「地球の昔の姿を教えてくれる、とても貴重な石なのではないぶさか?」
「ああ、確かに貴重なものだ。だが、それでもはやぶささんが小惑星イトカワから持ち帰ったサンプルの価値には到底及ばないが」
言いながら、男はシニカルな冷笑を浮かべる。
「そ、そんな風に言われると照れるぶさ……」
顔が勝手ににやけてしまう。にやけ顔を隠すために、はやぶさは足元にいるハスキーに抱きつく。
抱きつかれたハスキーは、尻尾を振ってみせてくれた。機嫌を直してくれたのだ。
にやにやが収まる頃合いを見計らって、はやぶさはもう一度立ち、男に向き直る。
「その三八億年前の石は、地球のどんな真実を教えてくれたぶさか?」
「その石が教えてくれたのは……三八億年前の地球にすでに生命が存在したという真実だ」
「生命?」
はやぶさはもう一度、男の手のなかにある石を覗きこむ。
「この中に生命の痕跡があるぶさか?」
「この石の中に炭素質の粒が点々と存在していることを、はやぶささんはわかるか?」
「見えているぶさ」
「これ一つ一つが、当時の生命だ」
「こ、これが生命!?」
はやぶさは思わず頓狂な声を上げる。
これまではやぶさは、人間、ハスキー、サクラのようなものを生命と認識していた。そういったものと比較して、この粒はあまりにも違いすぎる。それどころか、一つの共通点すらも見いだせなかった。
「どうして、これが生命ぶさ……?」
「三八億年前の時点では地球生命はまだ誕生したばかりで、進化の初期段階にあったんだ。進化とはすなわち高等化。高等化をはじめたばかりのもっとも原始的な生命が小さく単純なものだったことは、別に不自然ことではないだろう」
「高等化の初期段階……なるほど」
「だがそれでも、これは本当の意味で最初に誕生した生命というわけではないだろうが」
そう言って、男は石をポケットにしまう。
「地球生命の最初の一匹というものがどのような条件下でいつごろ生まれたのかについては、いまだにはっきりとした答えは出ていない。だからこそ、科学者はこれまで様々な角度から研究を行ってきた。地質学。生命科学。そして、天文学」
「天文学……」
「そう、天文学」
男は口だけで薄く笑むと、おもむろに空を指差した。空といっても、クラーク像のように水平線のやや上を指したのではない。自分の真上の空へ向かって、腕をまっすぐ伸ばし、人差し指を突きたてたのだ。
「月には、名前がついているものだけで一五〇〇個以上のクレーターがあるが、それらは過去に起きた彗星や小惑星の衝突によって生まれたものだ。
地球はプレートテクトニクスや風化作用があるからクレーターはあまり残っていないが、月は大気も海もプレートテクトニクスもない冷え固まった衛星だから、一度形成されたクレーターは、さらに大きなクレーターに潰されない限りは永遠に消えることはない。月のこの消えない傷は、地球の過去を読み解く上ではたいへん貴重な資料になる」
はやぶさは小さく頷いてみせる。口をつぐみ、男に続きを促す。
「天体衝突が地球に与えた影響を探るもう一つの手段に、小惑星、彗星探査がある。こちらは、破壊の規模を知るためというよりは、天体衝突によってどんな物質が地球にもたらされたのかを知るために行われる研究だ。……まあ、この分野については俺なんかよりもむしろはやぶささんの方が詳しいはずだが」
はやぶさはこくりと首肯する。
「とまあこういうわけで、俺は小惑星探査機はやぶさを尊敬しているのさ」
「……なるほど、生物学の研究をされている方だったのでぶさか」
「生物学というか、生命進化学だな。この分野は」
「生命進化学……なんだか途方もなく難しそうな分野ぶさ」
自分にはとても理解できそうにないと感じた。知らず知らずため息をつく。
「はやぶささんになら理解できるさ」
「そ、そうぶさか……?」
「ああ。なんたってはやぶささんは、生命の起源を解き明かすための探査機だったんだから」
生命の起源を解き明かすための探査機……か。
でも、確かにその通りだ。
宇宙探査機は、人目を引くショーをするために宇宙に行くわけではない。科学のために宇宙に行くのだ。
自分と妹のさっちゃんは、小惑星サンプルリターンをミッションとして行ったが、このミッションは生命の起源を研究するという大義名分が先にあったからこそ成立したミッションだった。
テーマが先に決まっているからこそ、設計が決まり、目的地が決まり、探査計画が決まった。
そういう意味では、自分とさっちゃんにとって生命の起源の解明というのは、自分達の直接のルーツであり、アイデンティティそのものと言っていいものなのだ。
本当は今よりずっと強い関心を持つべきなのかもしれない。
ところで、と男は話を変える。
「はやぶささんはさっき、自分は宇宙へ行きたくないと叫んでいたな」
「え? あ、あれは……その……」
はやぶさは自分が責められるのだと思い、焦って言い訳を考える。
「行きたくなければ行かなければいいんだ」
「……え?」
「宇宙探査に大事なのは、目的もなく飛び出すことじゃないんだから」
自分が直前に考えていたことを見透かされたように感じ、はやぶさは思わず目を見開く。
「はやぶささんがイトカワを探査した頃から五〇年経過した今でさえ、宇宙というのは依然として危険な場所だ。だから、あえて行かないというのも、一つの立派な判断なんじゃないか」
「立派な……判断?」
はやぶさの視線を受け止めながら、男が首肯する。
「宇宙で壮絶な体験をしたはやぶささんならではの、賢明な判断だと思う」
「自分ならではの……」
はやぶさが今まで宇宙へ行きたくなかったのは、宇宙へ行けばミネルバの喪失を始めとしたさまざまな悪い思い出が蘇ると容易に想像がつくからだ。だから、流れに反して宇宙へ行くことを拒んでいる自分を、はやぶさ自身は臆病者で身勝手な探査機だと卑屈に考えてきた。でも――
一つの立派な判断?
「おっといけない、時間になってしまった」
男が高級そうな腕時計を見やる。
「時間?」
「この後大事な予定があるんだ」
「そうでしたぶさか」
「野宮守だ」
そう言って、男が手を差し出してくる。
「ノミヤマモル?」
「俺の名前だ」
「名前……なるほど」
名前を名乗って、握手を求める。これが人間の礼儀作法の一つなのだろう。
「はやぶさぶさ」
礼儀には礼儀で応えようと、はやぶさは名を名乗りながら、差し出された手を両手でにぎった。
「はやぶさぶさって……」
男が噴きだす。空を仰ぎ、からからとした笑声を響かせ続ける。
笑われた格好のはやぶさは最初はむっとしたが、不思議と怒る気分にはならなかった。清々しい笑顔を見せられているせいだろうか。
笑いが収まったところで、男ははやぶさの手を離し、若干前のめりになっていた体を起こした。そして、体の向きを変えながら流し目を送ってくる。
「いつかまた、話をしたいな。はやぶささん」
言いながら、守は小指と薬指だけを握りこんだ手を自分の顔の横で払う。妙にカッコよく感じる仕草だった。
「またぶさ!」
別れの挨拶をしながら、はやぶさも男の仕草を真似してみる。
「ぶはははっ!!」
大きく噴出した後、男は直前に見せた仕草をもう一度やりながら、はやぶさに背を向けて歩きはじめる。その行く先には、高級そうな黒い車が停車していた。その車の後部座席に、守は乗り込む。
守を乗せた車が、さっぽろ羊ヶ丘展望台から走り去っていき、やがて見えなくなる。
見えなくなったその場所を、はやぶさはしばらくのあいだ見つめ続けた。
守がリムジンの後部座席のドアを開けると、後部座席の反対側に先客が座っていた。
所々跳ね上がったショートヘアの頭に皿型の大きなアンテナをのせたその風貌は、率直にいってカッパっぽい。
目の下にある大きなくまも、妖怪のイメージを増幅させる要素の一つだった。
しかし金色の服や、腰のベルトから垂れ下がるソーラーパネルといった要素が、彼女の正体がカッパではなく宇宙探査機であるという事実を雄弁に物語っていた。
彼女は守と契約しているヒューマノイド探査機で、名を「金星探査機あかつき」という。
車内に入りドアを閉めた守は、あかつきを見やる。
腕と脚を同時に組みながら、あかつきは露骨に不機嫌そうな顔をしていた。
「行きたくなければ行かなければいいなんて、ふざけたことを抜かして」
車が走り出すやいなや、あかつきが言った。罵るような口ぶりだった。
「話がぜんぜん違うじゃないでしゅか」
「すまない。気づいたらあのような流れになってしまっていた」
「すまないで済んだら警察は要らないって話でしゅよ」
「そうだな……」
あかつきは大仰にため息をつく。それから、視線だけを窓に向ける。
「オペレーターはお姉ちゃんのことを真剣に愛していると言っていたでしゅよね」
睨むような眼差しを窓の外に送りながら、あかつきが言った。
「ああ」
「ならどうして、真剣にお姉ちゃんを救う行動をとらないんでしゅか」
「救う行動……か」
「あかちゃんやお姉ちゃんには、もうあまり時間は残されていないんでしゅ。早く宇宙探査を始めないと、宇宙機関からペナルティを受けることになるんでしゅよ」
「わかっている」
「ならどうして、あかちゃんの言った通りにしなかったんでしゅか!」
怒声と怒りのこもった眼差しを、あかつきが同時に浴びせてくる。
「あかつきの指示というのはあれか。壁ドンをして口説き落とせという……」
「そうでしゅ! 壁ドンでしゅ!」
思わず鼻で笑ってしまう。
「マイプリンセスはやぶさに壁ドンが通用すると、あかつきは本気で思っているのか?」
「通用するに決まってるでしゅ! ヒューマノイド宇宙探査機はイケメンの壁ドンに弱い、これはすでに科学的に実証されていることなんでしゅから」
「いくら科学的に実証されたといったって、それは平均値の話だろう。マイプリンセスはやぶさの場合は、壁ドンはむしろ逆効果になる可能性のほうが高いと俺は思うが」
「それは……どうでしゅかね」
「百歩譲って効果があるものと仮定しよう。さっきのあの場所のどこに壁があった?」
「壁はなかったでしゅけど……たとえば木とか、像の台座とか、壁の代わりになるものはいくらでもあったはずでしゅ!」
「クラーク像の台座は確かに近くにあったが……あれを叩いてドンという音が鳴ると思うか? どんなに強く叩いてもせいぜいペチンだろう」
「ペチンだろうがなんだろうが、やるべきだったんでしゅよ!」
「しつこい奴だな、本当に……」




